第二章 狩りの始まり 其の一



 ざわざわと、まるで森全体が嘲笑うかのように揺れているような、そんな錯覚さえする闇夜。

「あのさー、言っていい?」

 マリクが口を開いたが、それはばっさりヴァイセによって切り捨てられる。

「却下だ」

「いやいやいや、言わせてよ! ってゆーかね、君達、僕が人間だってこと知っててやってるよね? 完全に嫌がらせだよね、これ」

 真っ暗な―そう灯りも何もない―森の中、平然と進んで行くヴァイセとエミリアにマリクは非難の声を上げた。

 夜目の利く二人と違って、ただの人間に過ぎないマリクにはこの闇の中では歩くことすら困難だ。

 そんなマリクにエミリアがすまなそうに頭を下げる。

「すみません、マリクさん。灯りをつけたらすぐにバレちゃうので」

 対して主のヴァイセはというと、当然悪びれる様子など欠けらもなかった。

「相手は狼だ、どうせばれているだろうが、わざわざ灯りをつけて戦う必要などない」

 しかし主のその言葉にエミリアはびっくりしたらしい。

「えっ! バレてるんですか?!」

 真顔でそんなことを言う従者をしみじみと眺めると、ヴァイセは深い溜息を吐いた。

「お前の頭のなかは藁か何かなんだな」

「って、すっかすかってことですかっ? それって!」

「そうか。じゃあサイコロ並みか。頭を振るとカラコロ鳴るんだろう、振ってみろ」

「鳴りませんよ!」

 ぎゃあぎゃあと夜の森に響き渡る二人の声に、マリクは静かに進言した。

「二人とも、灯り云々よりもっと他に気を配ることがあると思うんだけど」

「す、すみません」

 エミリアが恥ずかしげに小さくなって謝った。そんな彼女にくすりと笑いを漏らしてマリクは続ける。

「でもヴァイセも言っている通り、むこうは狼だからねえ。臭いやら音やらでとっくにこっちのことはばれていると思うよ。だから灯りをつけてほしいな」

「………………はい」

 言われたエミリアはしゅんとして素直にランプに火をともす。するとその灯りに照らされて、森の陰影はよりいっそう深まり、ゆらりゆらりと木々の影がうごめいて、不気味さはいっそう増した。

 その森を眺め、「来たな」と、ヴァイセが薄く笑った。

 そして闇の向こうに声をかける。

「こそこそと隠れていないで出てきたらどうなんだ?」

 そんなヴァイセにエミリアもマリクも固唾を呑んで見守るしかない。

 と、がさりと目の前の藪が揺れ、

「ひぃひ、ひひ、は、鼻が鋭いんだねぇえぇぇ、アンタ」

 ぬらりとソイツは現れた。

 目はぎらぎらと光り、口は耳まで裂け、そこから鋭い牙が覗く。明らかに人とは違うイキモノ。

 だがヴァイセは平然と尋ねた。

「狼共はどうした。アレはお前の手下だろう?」

 それに彼はとてもとても楽しそうに笑った。

「あ、はは、そう、なんだけぇどぉ、アイツラじゃあ、お前達、殺せないって解ったからぁ。ボ、ボクがきたんだぁ。ボク、こう見えてもぉ、とってもとってもぉ、つよぉいんだから」

「………………だろうな」

 そのまるで子供のような拙い言葉にヴァイセは静かに同意する。それに狼男は嬉しげに声を上げた。

「あはぁ、いいねぇぇぇ! み、みんなぁ、すぐ死んじぁゃうから、ボク、つまんないんだよぉ」

 それは本当に無邪気な――――――狂気。

 純粋に食い殺すことを愉しむ獣の瞳。それがすぃっと細められると。

「じゃあぁぁぁ、いっくよぉぉぉおおぉぉぉ!」

 叫び声と共に狼男はマリクに襲い掛かった!

 マリクはすばやく銃を抜いて撃ち放つが―――――――。

「くっ、避けられた!」

 弾丸より早く狼男は横に身体をしならせている。

「確かぁに銀の弾丸はぁ、ボクを殺せぇるけどぉおぉぉぉ」

 そしてニタニタと厭らしい笑みを浮かべてマリクの懐に入り込み、

「当たらなきゃあ、コロセないんだよッ!」

 その鋭い爪で腹を抉り取った!

 ザシュッ! という嫌な音と共にマリクの足元にぱたたっと血が滴り落ちる。

「ッ、くッ!」

「マリクさんっ!」

 裂けた腹を庇うようにして後ずさったマリクにエミリアが走りよった。

 そしてエミリアは短剣をかざして狼男に切りつける。それを避けて、狼はぺろりと舌で鼻先を舐めた。

「おっとととぉぉ、切られたら痛そぉぉおだね、その剣」

 値踏みするように短剣をかまえるエミリアを見る狼男。

 だがそんな彼の背後から、

「ああ、痛いぞ。まあ、それはその剣だけじゃないがな」

 低い声と共にナイフが飛んでくる。

「うわぁう、っとお、アブナイ、あぶないぃぃ」

 それを恐るべき反射神経で避けた狼男にヴァイセは小さく舌打ちした。

「なかなか速いな」

 それに狼男も笑いながら言う。

「そぉいうアンタもねぇぇえぇぇえ!」

 そして反撃にでる狼男。

 ヴァイセも爪をかわしてナイフで切りつけるが、これはまた避けられた。

 キン! ギィィンッ! ガキィィィンッ! ち、二人の爪とナイフとが演舞のように閃き、そして両者とも譲らずそれをしなやかに避け続けていく。

「ふ、ふふぅ、こ、こんなに遊べるなんてぇ、久しぶりだぁよっ!」

 狼男は本当に愉快そうに笑う。対してヴァイセはつまらなそうにただ鋭くナイフを振るうだけだ。

「でもぉ、こんなんじゃぁぁあぁ、ボクは殺せないよッ?」

 拮抗する攻撃は闘いを長引かせる。

 動きの止まないそれを見守っていたエミリアだったが、傍らいたマリクががくりと膝をついて、はっと気がついた。彼の傷が思っている以上に深いことに。

「マスター! このままじゃあ、マリクさんが死んじゃいます!」

 流れる血はまだ止まっていない。早く適切な処置をしなければ失血死してしまう。

 エミリアはそのことを主に告げたが、ヴァイセはそんなマリクを一瞥して、

「死なせれば良いだろう。本望だそうだからな」

 あっさりとそう言った。

「マスター!」

 そのあんまりな主の言葉に思わず悲鳴のような声をエミリアが上げた。

 その彼女の必死さに心を動かされたのか、ヴァイセは溜息を一つ吐くと狼男に静かに告げた。

「すまないが、遊びは一旦おあずけだ」

 途端に狼男が抗議の声を上げる。

「えぇぇえぇえ! もっと、もぉおぉぉぉっと遊ぼぅよぉ!」

 駄々をこねる子供のようなそれと共に鋭い攻撃が続く。だがそれを全て綺麗に避けて、ヴァイセは静かに告げた。

「安心しろ。俺は逃げたりしない。明日の晩が貴様の最後だと思え」

 だがそんな言葉で彼が納得するはずもなく。

「いやだぁよ! 逃がさないぃぃぃ!」

 さらに距離を縮める狼男に、ヴァイセは懐から取り出した玉を投げつけた。

 途端にそれは狼男の鼻先で破裂し、

「うわっぷ、なぁに、これぇぇえぇぇぇ! イタイ、イタイ、イタイ、イタイ、イタイ!」

 瞬く間に彼の鼻と目を駄目にした。

 それと同時にヴァイセがエミリアへと命じる。

「走れ」

 その声と共に遠ざかる気配。狼男はちらっと後を追ってやろうかとも思ったが、鼻や目を襲ってくる刺激に、その気が削がれる。第一、耳だけを頼りに彼らを追うのは困難だ。

 完全に闇の中に一人取り残された狼男は、不満そのもののように吼えた。

「つっまんなぁいなぁぁあぁぁぁぁっ!」

 けれど彼はヴァイセの言葉を思い出し、少しだけ気をよくした。

「あぁぁ、でもぉ、明日もまた来るんだってぇ」

 おそらくあの言葉は嘘ではないだろう。

 ヤツはきっと来る。それを思えば笑いが止まらない。

 まだまだだ。まだ、遊び足りない。もっともっと、爪を研いで、牙を肉に突き立てるのだ。

 もっと、もっと、もっと。

「あはっ、まだまだぁ、遊んであげるからぁ、はははっ。あはははははっ!」

 狂気に瞳をぎらつかせて。

 彼はその時を思い描きながら無邪気に笑い続けた。










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