2000字くらい

 「はは、イイ感じにお客さん入ってんじゃん。今月はいい酒が飲めそうだな」

 操作係の男は、またヘラヘラとした口調で話しかけてきた。客の前なのに声も大きいし、手も動いていないのに口ばかりうるさい男だ。しかしだからといって、

「時間がないだろ。無駄口叩いてないで早く用意しろよ」

 などと言っても、この男が聞き分けないのは理解していた。なんせこの男と俺は、このプラネタリウム館でほぼ毎日一緒に仕事をしているからだ。それでも言わなければやっていられないから、また同じことを言うのだが。

「お固ェこと言うなよ、もう少しで終わるつーの。……はあ、今日もハリボテみたいな顔した女ばっかだなあ」

 人が大勢詰まった客席の方を不躾に眺め、男はまたうるさい口を開く。

「柔らかそうな着物に……?はは、化粧で顔が真っ赤!げぇ!上流階級の女ってのはなんであんなにベタベタしてんだ。しかも、誰一人怪我のひとつもしてねぇ。ケッ天皇派の華族どもめが」

「もういいだろ。早くしろよ」

 呆れて言うと、奴は首をぐるりと回して睨みつけ、俺を詰った。

「お前は兄貴の脚吹き飛ばされてるくせになんで右翼なんだよ!この根性なしの薄情野郎!男なら正々堂々、戦争反対と声を上げろよ!お前の暮らしだって酷かったんだろ!」

 瞬間、嫌な思い出のいくつかが俺の脳内を駆け巡った。まずい飯、悲惨な光景、道端に倒れた人間、そんな中聞いた玉音放送……あんな光景、見たくも思い出したくもない。恐怖の思い出に蓋をして、俺は天体解説原稿に視線をやった。操作係の舌打ちが耳に残った。

 上演まで、あと十分というところだろうか。操作係も最終調整をやっとこ終えて、今は観客のざわめきと、技師の機械をいじる音だけが巨大な半球空間を満たしている。

 なんとなく、今日は普段以上に上流階級の人間が多いような気がして見ていられず、俺の足元で機械を弄る技師の方に目をやった。相変わらず何を考えているかわからない技師は、機械に円盤を差し込んで最終確認の工程に入っていた。じっと背後から見ていると、突然振り向かれてびくりと驚く。

「何?」

「……いや、なんでも」

「そう」

 無表情のままそうつぶやいて、技師は再び機械をいじり出す、かと思えば、不意に観客の方を指さした。

「見て」

 観客席の最前列の、一人の子供を指差しているらしい。暗がりでも、少年が浅緑色の質の良い着物を着ているのがわかった。

「今時子供が着物着てるなんて、珍しいな」

「どうせ華族の子供はそんなもんだ。お勉強を詰め込むだけ詰め込んで、べべ着せて見目だけ良くしときゃあ、親どもは息子の感情なんかどうでもいいのさ」

 操作係の声には、珍しく信憑性があるような気がした。確か、もともと上流階級のお屋敷が立ち並ぶあたりに住んでいたとか言っていた気がする。そこでこういう子供を散々見てきたのだろうか。

 再び視線を向けると、少年は母親らしき女に話しかけられて笑みを作っていた。人形だって、あんな下手くそな微笑み方はしない。

「……へえ」

 口には笑みを浮かべたまま、少年の目には光のひとつも宿っていなかった。俺は少年から目を逸らさないままで尋ねた。

「なあ……確かそこのボロ箱の中に、イイ円盤も入ってんだよな」

 技師はきっと頷いたのだろう。

「うん」

「あれ、使おう」

 ニヤリと笑ってそう言い放った。こんな気分は、ガキの頃に兄と一緒によその家の南瓜を盗んだ時以来かもしれない。

「本気か!?お前、あれは本当に特別な来客の時用の……」

「わかった」

「え、ちょっ」

「かたじけない」

「はあー?」

 素っ頓狂な声も無駄に大きい操作係は、ニヤニヤと気持ち悪く笑ったままの俺と、せっせと良い円盤を機械に入れて調整をしていく技師とを交互に見て、わざとらしく大きなため息をつく。

「……俺は知らないからな」

「ありがとう」

「……準備できた」

 技師の合図で、操作係は複雑なボタンをひとつひとつ動かしてゆく。ブザー音の後に、半球内は真っ暗になり、観客のざわめきも静まった。ここからは俺の出番だ。

「──みなさん、本日は遠路はるばるお越しくださり、誠にありがとうございます。……」

 真っ暗な空間の中に、俺の声だけが反響して響き渡る。今あの少年は、どんなふうに話を聞いてくれているのだろうか。

「──では、長らくお待たせいたしました。素敵な星空をご堪能ください!」

 パッと、一瞬で天井いっぱいに数え切れないほどの星が映し出された。感嘆のため息とどよめきが漏れ聞こえ、俺は口で星々の話をしながら、あの少年の様子を見ようと、そちらに視線を向けた。少年は、天井を見上げていた。

 呆気に取られたように口をぽかんと開けていたけれど、やがて、月明かりに照らされた頬には紅が差し、瞳には星々がきらきらと煌めき出した。きっと、今までまともに星を見させてもらったことすらないだろうと思ったのは正解だったらしい。爛々と目を輝かせ、無邪気な子供らしく喜ぶ少年が、かつてただの星好きな少年だった自分と重なって見えた。

(ああ、いいことをした)

 小さな確信が、少年の瞳のように純粋な輝きが胸のあたりにすとんと落ちてきて気持ちを晴れやかにしてくれる。明けるのが惜しいこの夜は、きっと少年の心にも、また俺の心にも、ずっと残り続けるのだろう。

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可惜夜に君を 蜜柑 @babubeby

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