【過去】権田 雪の胸裏
私は何かに縋らなければ生きていけない弱い人間にはなりたくなかった。
両親は私を甘やかしてはくれなかったし、幼い頃から厳しく育てられたんだと後になって知った。
というのも、あまり他に比較対象がなかったし、比べるなんてことはしたこともなかったししたいとも思ってなかった。
「やっばーい、留年しちゃうかも~」
中学校に上がってから、同じクラスの頭がお花畑な女の子がテストの返却後に大きな声でぼやいていた。
チラリと見えた点数は三十二点。
私は鳥肌が立った。
もし私が同じ点数を取って家に帰ったなら、確実に怒鳴られて殴られる。
「まあ大丈夫っしょ! なんとかなるって」
「そうかな~」
「テストの点が全てじゃないよ、うんうん」
聞こえてくる会話の内容で私は気づいた。
いかに私が厳しくされているか。いかに周りが温い環境で育っているか。
羨望が無かったといえば嘘になる。
でも私は弱い人間にはなりたくない。
両親の厳しさは、きっと自分の為になる。
自分の為になるなら耐えるしかない。
人間関係?
そんなものは必要最低限で良い。
学校行事等に支障が出ない程度に。
人は一人では生きていけない?
笑わせないで。
他人と関わったって煩い事が増えるだけ。
私は、そう、両親に怒られないように。殴られないように。
勉強も家事も手を抜くことは許されない。
私は他の人とは違う。
私は私の為に生きる。
私が望むものは私の力で手に入れる。
誰に理解されなくてもいい、私は何かに縋らなければ生きていけない弱い人間にはなりたくないのだから。
* * *
中学生になって初めてのお正月、私は両親に連れられて父親の実家に来ていた。
敬語の使い方、お辞儀の角度も予習済み。
両親が望む、完璧な娘の振りはできたはず。
親戚一同が父親の実家に集まっている中、親戚同士の不毛な会話が続いた。
やれ「雪ちゃんは将来医者になるべき」だの「弁護士のほうがいい」だの、本人の意志は関係なく話していて、心底どうでも良かった。
両親ですら、私の意志なんて全く尊重してくれない。聞く気すらない。
どうせ、決められた将来を歩まされるくらいなら、私は一人で生きる。
親の庇護から脱するまでの辛抱だ。
「雪、私たちは大事な話をするから、あっちの部屋に行ってなさい」
父親にそう言われて私が入った部屋には、既に男の人が一人床に座っていた。
見た目は二十歳位で男にしては長髪、そして驚いたことに右目に殴られた痣があった。
「んあ? 君は?」
痣の無いほうの目を細めて、男は拍子抜けするような素っ頓狂な声でそう言った。
「……
「ああ、てことは従妹か! よろしくね!」
「はあ」
男は床を手で叩いて、私に座るように促す。
私は言うことをきかず、立ったまますぐ傍の壁に凭れ掛かった。
「はは、可愛い態度だねえ。まああんなクソ頑固親父兄弟でも、見た目だけは整ってるからな。その点、俺も雪ちゃんも得してるよなあ」
きっと、殴られた跡はこの人の親が作ったのだろう。
この厳かさの無い軽い感じ、私も少し殴りたくなる。
「んで、雪ちゃんは何でそんな顔してるの?」
男は唐突に、何かを含んだような顔で私を見つめながら言ってきた。
「もともとこういう顔です」
「そんなわけないでしょ! 頑固親父だし、厳しく言われてるんだろうけどさ、楽しむ時は楽しまなきゃだよ? まあ俺は楽しみ過ぎてよく殴られるんだけどさー」
痣を見て一瞬でも不憫と思ってしまった自分が恥ずかしい。
この男は駄目な奴だ。殴られてしかるべきだ。
「雪ちゃんもあんな野郎どもの言いなりばっかじゃつまらないでしょ。俺は見ての通り駄目な奴だけど、それなりに人生楽しんでるぜ?」
駄目な自覚はあったんだね。
従兄とはいえ、こういう人とかかわると碌なことにならない気がしたので、私は視線をそらして沈黙に徹しようとした。
「そのまんまじゃ、雪ちゃん弱い人間になっちゃうよ?」
癇に障った? 魔が差した?
その両方かもしれないが、男の子の言葉に私は反論をしていた。
「私は誰かに縋るような弱い人間にならない為に、今こうしてるんです」
「こうしてるってのは? 親の言いなりになってるってこと?」
「言いなりというか、今はそうする他にないでしょ」
「なんで? 怒られるから? 殴られるから?」
いちいち嫌味な言い方でどうしようもない事を言ってくる男。
だから、チャラチャラしたこういうやつは嫌いだ。
そう思って口を噤むことにした。
「俺だったら、雪ちゃんをそんな顔にさせないようにするけどなぁ」
アンタに何ができるの。
どうせ、私の苦労も知らない癖に。
みんなそう。温い環境で温く育って。
やることを後回しにして遊んで呆けて。
そんな人たちに私は何も言われたくはないし、そんな人たちとは違う人間になる。
弱い人間にはなりたくないから。
「俺もさ、高校までは多分今の雪ちゃんと同じ感じだったから、ちょっと分かるんだよねー。学校でも家でも、全部親に言われて完璧目指してたしさ。それが自分の為だと思って信じてたし。勉強とかが無駄とは言わないけどさ、高校出て、大学受験に失敗した時に気付いたんだよね。俺、何にもないって」
何もない? そんなはずはない。
それはアンタが受験に失敗したからでしょ?
「多分ね、大学に受かっててもきづいたと思う。大学はある程度自由だからねえ。親の言いなりから外れた時にさ、自分になんにもないって気づくのよ。今までそうして生きて来ただろ? 親が言うから勉強も頑張ったし、受験も、将来の仕事についてもさ。親が言うからその通り、怒られないようにやってきた。で、どうよ。いざ少しの自由を手に入れた時にさ。その使い方が本当に分からねえんだ。空いた時間? 勉強や家事、親の手伝い以外に何をすればいい? 友達と遊ぶ? 友達なんていたか? 遊ぶって、何をするんだ? って感じにさ」
「私は、自分の為に生きます。友達も別に要らない。誰かがいないと生きていけない弱い人間にはなりたくないですから」
「はははは」
唐突に笑いだす男。
何がおかしいの? 無性に腹が立つ。
「ッとと、そんなに怒った顔するなって。まあさっきの死んだ顔よりゃ幾分かマシだけどな」
「べ、別に怒ってません」
「本当にさ、昔の俺と同じだよ、雪ちゃん。俺もガッツリそう思ってたのよ。誰かに縋るのは弱いからだってね」
そうでしょ? 弱いから誰かに縋る。
一人で生きていけるのが強い人間。そうでしょ?
「ある女に会ってさ。知ったよ。弱いから誰かに縋るんじゃない。弱みを見せて、縋ることができる場所がある人間が、本当に強い人間なんだよ」
焦点の合わない顔をしながら男は天井を見上げてそう言った。
「その女……
あれだけ息巻いて能書き垂れておいて、結局は惚気ですか。
やっぱりこの男は駄目な野郎の典型だ。
「何もない俺に色んなことを教えてくれたし、頑固で融通の利かない俺も理解してくれたし。気づいたら英梨と一緒に居る時が楽しみで仕方無くなってた。自然と付き合うことになって、よく会うようになった。英梨との時間の為なら、どんな事も我慢できたしやってのけた。英梨との時間に、俺は縋ってたんだよね」
それは、脆い人間になったって事じゃないの?
「それで、ちょっと分かったのよ。縋ってみて、自分が弱くなったなんて感じないなって。寧ろ逆よ、逆。親以外に大切な人ができて、強くなった。まあ、こればかりはさ、そういう人ができないと分からないかもしれないけど」
そういって男は手をひらひらと振って、床に視線を落とした。
「その英梨さんとは結婚とかはされないんですか」
何言ってるの私。こんな駄目男に絆されないで。
「俺もさ。そうしたかった。結婚がどんなものかいまいち分からなかったけど、英梨とならしてみたい。そう思ったのは事実なんだ。でも、ここで俺の馬鹿親父よ。あいつ英梨の家柄の事にケチをつけやがって。了承してくれなかった。そういう細かい事は俺にとってどうでも良かったけどさ。ここにきて親が弊害になった。唯一、初めて自分で見つけた望む事なのに、今まで自分を縛ってきた奴に否定されるんだ。いかに自分が今まで空っぽに育ったか……その時ほどマジで悔やんだ日はないね」
「ふーん。でも、あなたならそのくらいは強引に結婚まで持っていきそうなものですけど」
皮肉交じりに言ってやったつもりだった。
「ああ、英梨、先月亡くなったんだ」
そういった男の表情が、何故か自分を見ているような気分になって、胸に針が突き刺さるような感覚が私を襲った。
「いなくなって、改めて思うよ。誰かの為に生きることが、強くなれる一番いい近道だ。まあ、俺はその近道を踏み外しちまったんだけどさ」
心臓を握りしめられるような感覚。
今日初めて顔を合わせたただの従兄なのに、私の胸の中のこのザラつく感情は何なの。
「てわけでさ。そんな顔してないで、もっと楽しく生きようぜ? 雪ちゃんには俺と同じような道を歩いては欲しくないのよね~」
乾いた笑顔を向けてくる男。
「あ、これ内緒な? また親父にこの話したのばれたら殴られっからさ。……まあでも、もうそろそろ金も貯まるし、家から出てやるけどな! はははっ」
自分と同じような境遇だったから?
それとも恋人に先立たれたことに同情したから?
はたまた似たような顔に親近感がわいたから?
自分でも分からないけど、私はその従兄に何かよく分からない
「私にも、そういう人ができるんでしょうか」
それが証拠に、こうして無自覚に無意識に小恥ずかしいことを訊いてしまっている。
「恋人って事? できるできる、作ろうと思えばいくらでもな! 雪ちゃん可愛いし。なんなら俺が色々教えちゃろうか? ほら、先輩として!」
「お願いします」
なんでこんな気持ちなんだろう、私。
「え? え、と、冗談だったんだけど?」
「先輩として、私に教えてください。強くなるために」
説明は上手くできないし、それこそ初めての事なのでよく分からない。
けれど、この人なら私にいろいろと教えてくれる。私の事も、境遇も思いも、分かってくれる。
弱みを見せられる、かもしれない。
「うん、今までで一番いい表情してるね、雪ちゃん」
どんな顔をしてるかは自分でも分からない。
胸の内で聴いたことのない音色が乱れ狂うように鳴っている。
ただの好奇心かもしれないと、この時は思ってたんだっけ。
「私も、強くなりたいです」
「ふーん、まあいいけどさ。今雪ちゃん十三歳だっけ? 俺は今二十一歳なわけよ。だから、いろいろと教えるのはいいけど、俺に惚れちゃ駄目だよ? 従兄どうしだって結婚できるんだぜ?」
もしかしたらこの時にはもう、それは手遅れだったかもね。
「右眼腫らして何言ってるんですか。結構無様ですよ、その顔」
そう言って私は、男の隣の床に座った。
「おお? 言うねえ、ガキのくせに。ま、そういうの嫌いじゃないけど」
どうしてこのチャラチャラした男の言う事を真に受けたのか、よく分からないけど。
こうして私は何かに縋ることを覚えた弱い人間になり始めた。
もちろん、強い人間になる為に。
* * *
月に一回くらいしか会う時間は取れない。
それでも、その時間の為なら何でも我慢できたし、何でもやってのけた。
億劫な部活動も勉強も人間関係も全部上手くこなせた。
相変わらず、
私の事をちゃんと理解してくれるのは、
だから、
正式な恋人になってくれたわけでもないけど、私に初めてできた、親以外の大切な人。
高校生になって、私も多分女らしくなった。
そんな風に色付いていく春、私の元に二人の女の子が現れた。
その二人は私の事を「おばあちゃん」だなんて呼んできた。本当に腹が立った。
でもね。
二人ともそっくりなの。
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