否定はしない

 俺が高級バニラバーを食い損ねてから数日経った日の事である。

 本日は勤労に感謝すべき祝日で、本来であれば学校はないのだが、俺は現在学校に着いたところだった。

 態々祝日に学校に赴いた理由は、昨日の夜に愛しの鏡からのハートフルなメールで呼び出されたからだ。


『アンタどうせ明日暇でしょ。昼に学校にきて』


 あーなんて心温まる文章だろうね。涙が出そう。

 ったく、決め付けでメールしやがって、俺が忙しかったらどうするんだよ。

 たまたま暇だったから来てやったけども。たまたま、ね。


 休日に学校に忍び込むのはなんだか悪いことをしている気分になる――別に何も悪くはないのだが――ので、やはり可能な限りは学校には来ないようにした方が精神衛生上良いな、等と考えながら昇降口で靴を履き替えた。

 して、来たはいいがどこに行きゃいいんでしょうかね? 鏡さんや。

 取り敢えず廊下をうろちょろとしていると、柔道の授業でしか足を踏み入れたことのない格技場の方から様々な音が聴こえてきた。

 バチンという鋭い音、地響くダンという音、人間の叫声。恐らく剣道部だね。

 ということは、鏡はそこにいるのだろう。

 しかしながら無防備帰宅部な俺がとても近づけるような雰囲気ではないし、いつ終わるのか分からない稽古とやらを待つのも気が引ける。

 どうするか迷った挙句、俺はいつもの自分の好きな空間に行くことにした。


 * * *


 流石にコートを羽織ったまま、俺は屋上のいつものベンチで仰向けになった。

 こうして空を見上げていると、やはりあいつのことを思い出す。

 初めて会ってからまだ一ヶ月ちょっとくらいしか経っていないというのに、ずいぶんと昔の記憶のように思える。

 会うたびに成長していったその理由も、深月の苗字も、俺との関係も、未だ謎はたくさんあるのだが、しばらくの間、恐らくだが数十年はもう会えないのだろう。

 それは同時に俺に降りかかる死の危険が無いことも意味しているが、今となってはもうそんなことはどうでもよかった。いや、よくはないんだけども。


 深月が現れている時は、いつもいつも慌ただしくて余裕が無くて、要件と要点だけの会話で、ゆっくりと過ごせた事はなかったな。

 もし可能であれば、ゆっくりと話をしたかったな。


 冬の匂いのする風を肌に感じながら、深月との今までのやりとり全てを記憶から掘り出して頭の中で整理をしていると、論理的思考は俺の期待とは裏腹な結論を提示し、淡く輝き始めた光が握り潰される様な感覚に襲われた。


――ゆ、夢鏡さん! あの、わ、は、初めまして! お会いできて光栄です!!

 深月が『cafe miya』で鏡に発した言葉。

 

――私が生まれたころにもう夏樹さんに会っているのですから。

 深月を抱きしめた日に、去り際に言い放たれた言葉。


――そのおじさんが言うには、亡くなった奥さん? に私が似てたらしくて思い出して泣いたって……。 

 鏡が深月に指示を出す未来のについて話をした時の言葉。


 それら全てを踏まえて、俺の推測が正しいなら――。


「あ! いたいた! こんなとこにいたのね」


 俺の極めて冷静な邪推を吹き飛ばしたのは女の声だった。

 上半身を起こして声の方に顔を向けると、両サイドの髪をおさげに纏める道着に袴姿の綺麗な女性が俺のほうに向かって歩いていた。

 裸足でペタペタと歩くそいつはかなりの美しさに見えたが、よく見るとよく見た顔で、よく似た顔だった。


「なんだ、彩か」

「なんだとは何よ」

「いや、すげー綺麗な人だなって思っちゃって」

「はぁ?」


 袴って、女性が装備すると例に漏れず魅力が増すよな。

 妹に「綺麗」という感想を抱いてしまったのがその証拠だ。

 

「急にどうしたの、妹属性でも取得したの?」

「いや、そうじゃないけど。普段見ないお前はなかなか凛々しいなって思ってさ」

「……悪いものでも食べた? 残念ながら剣道着でも中身は普段と何も変わらないよ」

「まあ、普段のお前も俺は好きだけどな」

「な、何言って……」


 おうおう、照れてる照れてる。彩をからかうのは何年ぶりだろう。

 緩く動揺する妹を見るのが楽しくなって、からかいを続行しようとしたところで、いつの間にか彩の後ろにもう一人袴姿の女性がいる事に気付いた。

 そいつは俺にハートフルなメールを送りつけた張本人だった。


「……シスコン」


 鏡は数人殺ってそうな冷酷な目でそう言い放ち、俺は鳥肌が立った。

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