茨の空気

 鏡の言葉に涼川はピクリと肩を動かし、口は開いたまま黒目だけがゆっくりと鏡に向けられる。

 徐々に表情が悲嘆に満ちてゆくように歪み、震えた両手を頭に持っていきながら、


「かが……み……さ……ま………………あぁ……ああああああああああああああ!!」


 秒針の刻音が反響するのが聴こえてくるほど静まり返っていたこの面会室は、涼川の悲鳴で満たされた。

 あげられた叫声に俺は情けないことに顔と身体が強張るのを感じた。

 しかしながら奥の留置官は微動だにしておらず、横目で見た鏡も全く動じていない。寧ろいつもより勇ましい目つきにすら見える。みんなメンタル強いのね。


「楓!! 時間があまりないから手短に言うわよ。ちゃんと聞いて」


 鏡が涼川の劈く悲鳴をも上回る大声で言い放った。

 涼川は頭を抱えたまま、悲鳴を止めて上目遣いに鏡を見つめている。

 どうやら俺は眼中にないのか見えてないのか、一切目が合わない。


「どうして夏樹を襲ったの?」

「……鏡様、申し訳……ありま……せん」

「その呼び方やめてって言ったでしょ!」

「申し訳……ありません、夢鏡ちゃん……」

「口調も普通にして。あと質問に答えてちょうだい」


 鏡から放たれる冷たい言葉の数々に、俺が苦しくなってきた。

 当の涼川も、目が充血しているのが見える。


「はい…………。夢鏡ちゃんを……助けようと、思って」

「助ける?」


 俺はこの凍てつく空気の中、震えながら話す涼川と、切れ味のあるつり目を逸らさない鏡をちらちらと交互に見ている事しかできなかった。

 無意識にパイプ椅子の上で背筋まで伸ばしてしまっている。


「ふざけないで!!!!」


 唐突に鏡が怒号を上げ、俺は伸びていた背筋が更に伸びた。

 涼川も頭を抱えたまま驚嘆顔をした。


「助けるってどういうことか、あなたは絶対間違えちゃいけないでしょ! 私が楓を助けたときと、楓が私の為に夏樹にしたことが同じって事だと思うの!?」

「…………」

「助けるっていうのはね、どんな形であれ、困っている人を救う行為なの。その為に他の誰かをいためつけたり、陥れたりしていいものではないの」

「でも、夢鏡ちゃん、凄く困っていたから……私にとって、夢鏡ちゃんが全てだから……」

「楓にとって私がそうであるように、私にとって夏樹は全てなのよ!? 楓は、私から私のすべてを奪おうとしたのよ!?」


 おおう? なんちゅう恥ずかしいことを……シビアなやりとりの中、俺だけ脳内悶絶している気がするぞ。

 鏡は更に、


「もし仮にあの時、楓のせいで夏樹が死んでしまっていたなら、私、絶対に楓を一生許さない」


 凍てつくような冷たい口調で言い放った。

 涼川は頭を抱えている両手の指を髪の毛に食い込ませ、呻きながら表情が見えなくなる程俯いた。


「いつも言ってるでしょ。もっと楓は、自分の為に行動しなさいって。私の為に何かやっても、それは楓の為にならないの。私の幸せは楓の幸せじゃないし、楓が考える私の幸せは、私にとっての幸せでもない。そこを穿き違えて、押し付けないで」


 分かるような分からないような、そんな辛辣な言葉を浴びせる鏡を横目に見ると、キリッとした表情のまま眼から大粒の雫を垂れ流していた。

 きっとそうだ、鏡も俺の想像を絶する思いを抱えて悩んだだろうし苦しんだんだろう。

 俺だけ、鏡に庇われて怪我もせず脳天気に生きている気がして、凄く恥ずかしくなった。


「ごめん……なさい…………ごめんなさい……」


 涼川は俯いたまま掠れた声で謝辞のみを述べている。


「これはお願いじゃなくて約束よ。金輪際、私の為に生きるのはやめて。楓は楓の為に生きて。その中で楓に私が必要なら、勿論一緒にいるし何でもするわ、助けてだってあげるから。だからもっと、自分の為に生きてね」

「ごめんなさい……夢鏡ちゃん……本当にごめんなさい」


 涼川が両手を下げて顔を上げ、涙と鼻水でグシャグシャの顔を鏡に向けた。

 その顔を見た鏡がようやく顔を綻ばせた。同時に両頬に水脈が伝う。


「なんて顔してるのよ、楓。可愛い顔が台無しよ。それに、謝る相手が違うでしょ?」


 そう言って鏡は服の袖で両目をゴシゴシ擦ってから、俺のほうを向いた。

 ちょっぴり腫れぼったい目でニカリと笑う鏡が、心底愛おしく思え、抱きしめたい衝動に駆られた。

 勿論場違い且つ勇気も無いので思っただけではあるが。


「風林君」


 アクリル板の向こうから俺を呼ぶ涼川に俺は眼を遣る。


「本当に、本当に、ごめんなさい。風林君が権田さんに告白しているのを、見てしまって……。その、夢鏡ちゃんがこれ以上苦しむのを見たくなくて……。本当に、ごめんなさい」


 嘘!? あれ見られてたの!?

 ぎゃー! 恥ずかしー! 死にてぇ!!

 そしてその後に茫然自失となる無様な俺も見られたんだろうな。


――でも、そういうことか。腑に落ちるな。

 要するに、雪に思いを告げる俺を見て、確実に鏡のものにならないと判断し、鏡の苦悩の種である俺を消そうと思ったんだろうな。

 いやでもあの包丁は? 常に持ち歩いてたのか? それともそもそもであの日に殺そうと予定していたのか?


 まあ、その辺は、全部が全部よく分からなくてもいいか。

 俺は鏡と約束したからな。


「いいよ。全部許すから」


 涼川おまえのことは許すって。

 鏡に免じてだ。それに……。


「俺にとっても、鏡に苦しい思いをして欲しくないのは一緒だ。だから――」


 俺は一度鏡に顔を向けてから、改めて涼川を見つめてこう言った。


「その為に俺は、ずっと鏡と一緒にいる」


 スッキリとした開放感が俺を襲った。

 言った後で、改めて再認識した。

 俺はどうやら、鏡の事が好きらしい。


「は、はぁ!? あんた何言ってるのよ!!」


 鏡が今日一番の怒号を上げて太腿を叩いてきた。だから痛ぇっての。

 顔を濡らしながらきょとんとした涼川から、鏡の方に目を移すと、鏡はハの字眉で頬に朱を差していた。

 困惑するのも無理はない、俺も半分混乱してるし。

 でも、そうしたいと思ってしまったのだからしょうがない。

 自分に嘘はつけないしな。


「鏡、俺はお前とずっと一緒にいてもいいか」

「な、な、な、な、な、な」


 顔の赤さが増しながら目に見えて狼狽える鏡。珍しや、目に焼き付けとこ。

 なんつー俺も多分顔赤いんだろうな。恥ずかしいこと言っている自覚はバリバリあるし。

 でも目は逸らさない。逸らしたくなかった。

 先に鏡が目を逸らし、綺麗な長髪を指で弄り始めた。


 つい数日前にほかのひとに告白しておいて、全くもって説得力の欠片もない話だと自分でも思う。

 それでも、この名称未設定な感情が、感情で間違いないというのは、規定事項が口癖の天使の上司が裏付けてくれている。


 そうだろ? よ。

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