潮吹き面の下の爪

 一時限目が始まる直前の事である。

 この時間には珍しく校内放送を知らせる爆音が鳴り嫌な予感がしていると、その音声はハッキリと俺の名前をフルネームで二回呼びやがった。

 音声はそのまま職員室を訪ねるようにと続けた。

 教室中の視線が俺に集まる。


「夏樹、やっぱりお前なんかやらかしたのか?」


 後ろから山目が背中をつつきながら訊いてくる。

 取り敢えずの何のことやら顔を山目に見せてから、俺は居心地の悪い教室をできるだけ早く抜け出した。


 職員室に向かう足取りも重たくなる。

 歩きながら俺は昨夜の病室での警察の短い訪問を思い出していた。


 まあ、そうですよね。未成年とは言え傷害事件での当事者の一人である俺があんなにさっくりとした聴取のみで終わるはずがないですよね。

 面倒事は早期に片付けたい性分の俺からすると、どうせ満足に寝られないのだったら昨日のうちに全てを済ませてほしいものであった。

 鏡のところにもきっと今頃何かしらの面倒が舞い降りているんだろうな。怪我人なのにお気の毒極まりない。


 まるで滝にでも打たれているように重たい手をスライドドアの取っ手に当て、控えめに職員室に入室する。


「失礼します」


 入ってすぐに、生まれてから一番見たであろう女性の斜め後ろ姿がそこにあった。

 紛れもなく俺の母親だった。

 昨日は何故か家に帰ってこなかった為、会うのは昨日の朝食ぶりだ。

 俺の入室に気付く様子も無く、教頭 (だったかな) と生徒指導の教師と三人で立ち話をしていた。


「あの、職員室に来るように言われたんですけど」


 俺のぼそっとした言葉に気付いた三人は俺の顔を見て、母親が俺に近づいてくる。

 そのまま俺の顔をペタペタと触りだした。


「あら夏樹、こんなにひどい顔になって……相当痛めつけられたのね」

「生憎無傷だったよ。この顔は生まれつきだ」

「まあ、誰に似たのかしら」

「アンタだよ!」


 親子芝居をしていると、生徒指導教師の咳払いが聞こえた。

 母親はくるりと振り返り無言で浅いお辞儀をする。


「それでは風林さん、相談室に向かいましょう」


 教頭(だと思うんだけど) が俺らに向けてそう言った。

 

 生徒指導の教師の先導で辿り着いた相談室には昨日病室で見た警察のうちの一人と見た事のない男の計二人が、先にふかふかのソファに座っていた。

 俺と母親はニス光沢の茶色い長テーブルを挟んで彼らの対面に座り、教頭 (ですよね?)が議長席に着く。


 それから昨日と同じような事情聴取が有り、昨日と同じように俺は答えた。

 横目で見る母親が見た事のないような重い表情で警察の弁を聞いていて、俺は改めて事の重大さを認識した。

 殺人未遂だ。そりゃそうだろうな。


 昨日鏡の病室で聴聞をしてきた頭の薄い警察の男があまりにも専門用語ばかりを使うもので俺にはピンとこなかったが、要するに示談にするか被害届を出すか、出すにしても実被害は精神的被害に焦点があてられる為その辺りの塩梅をどう形にするか、というような事であった。

 本来保護者である母親に概ね決定権があるらしいのだが、話の切れ間で母親は俺の顔を見つめて、


「アンタが決めなさい」


 と真面目な顔で言った。

 普段見慣れない、しかし教師としての勤務中はこんな感じなんだろうか、とも思いながら俺はテーブルを見つめて一言だけこう答えた。


「全部許します」


 * * *


 面倒なやりとりはお昼前まで続いた。

 こんなことなら普段億劫で仕方ないと思う授業を受けていたほうが幾分マシだなと思う。


 終わり際に判明したのは、もう一人の男が弁護士だったということと、涼川は現在留置所にいるということだ。

 後日改めて加害者側との話し合いが必要らしい。

 ……いやいや、被害者ってのも楽じゃない。悲劇のヒロインが大げさに嘆きたくなるのも頷けるね。


 午後からの授業は出席するよう言われて解放された俺は、昼休み現在、いつもの屋上ベンチで仰向けになっている。

 残念ながら何かを胃に入れる気分ではなかった。


 それにしても、普段おちゃらけっぱなしの母親が、あれ程まで真剣な顔で「息子の意思を尊重します」の一点張りだったのは少し胸が熱くなった。

 やりゃできるじゃないか、というよりはあの普段のちゃらんぽらんこそが母親なりの、母親としての振舞いなんだろうな。


 話し合いが一通り終わってから、母親が年相応の笑顔で俺の肩を叩き、そのまま一回頷いてから「そろそろ風呂のカビ掃除しておいて」とだけ言い放って帰って行ったのを思い出す。

 その一言が場違いでアホくさくて、実に母親らしい。


 軽く周りを見ても屋上には誰もいない。

 流石にもう寒すぎる気温で、制服のみでは厳しい風が吹き付けているからだろう。

 しかし刺さるような冷たい大地の息吹も、雑多な思考が跋扈ばっこする今の俺にはちょうど良い放念剤だ。


 雲間の淡い水色を見て、思い出す光景が一つ。(断じて妹のパンツではない)

 空を見上げる俺の視界を遮る童顔少女。

 初めて会った時も、二回目に会った時も、この場所だった。


 思い返せば深月は常に怒っているような口調で、それでいていつも俺を助けてくれた。

 その俺にとっての救世主が、最後にくれたヒントを、俺はこのタイミングで思い出す。


――私に過去に飛ぶよう指示する人は、実は今日、鏡さんに会っているはずです。


 昨日、病院からの帰りしなに「別に無理してこなくてもいいわよ」と鏡が言っていたのも思い出した。

 そして鏡は素直じゃない女の子であることも思い出す。


 どちらにせよ鏡に訊けなかったことがあるのだ、ちゃんとした理由を獲得した俺は放課次第、名沙総合病院に向かう事を決めて、眼を閉じた。


 今は何も考えなくても許される俺の好きな昼休みである。

 深月がもう来ない以上、何人たりとも俺を邪魔するものは居ない筈だ。



「ナツキサン!!」


 確かに振動した俺の鼓膜は神経を辿り、脳は遅延して俺の心拍を加速させた。

 ………………嘘だろ。

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