刻みあう蝶番
今までにない程の難易度の高い問題を出されたような、途方もなく答えに窮する俺を、取り敢えずは中央分離帯に伸し上げてくれたのは鏡の続く言葉だった。
「でも、いいの。夏樹の気持ちは知っているし、私は夏樹を応援するから。できる限り協力する。だからさ……」
真っ赤な顔のまま鏡は俺から視線を逸らし、一つ大きめの呼吸をしてから、
「私の事、忘れないでいてね。例え卒業して別々になったとしても、私のことは忘れないで。私が夏樹に望むのはそれだけ。夏樹が私のことを覚えていてくれる……それだけで私は生きていけるから。お願い」
「…………忘れないよ」
ああ、忘れないね。
人生で一、二を争う心臓の暴走体験だ、向こう十年は忘れられないね。
「そーんなこと軽々しく言って、十年後にはポッカリ忘れてそうよね、夏樹」
いつの間にか赤が青白さに戻った鏡がジト目を向けてくる。
……だからさ、心読まないでってば!
「お前みたいなインパクトの強いやつは忘れたくても忘れられないから、安心してくれ」
「また、失礼な言い方ね。アンタの頭にダイレクトインパクトかますわよ」
そう言って、鏡は左手の拳を強く握りしめて震わす。
見ていた俺は無性に可笑しくなり、音を立てずに笑ってしまった。
俺につられて鏡も笑う。
本当に何だろうこの感じ。
感じたことのない居心地の良さがある。
少し疲れているような、それでいて無垢な笑顔の鏡を見ていると、身体の至る所に蔓延る暗い
鏡が目を覚ましてから二十分弱、本来なら
「知っていたら教えてほしいんだが……どうして涼川は俺を襲ったんだ? 俺、そんなにあいつに恨み買うようなことしたっけか」
「ああ……あはは……えっとね……」
この反応からするに思い当たる節はあるようだな。
やはり、深月の言っていたことは大体がそのまま正解のようだ。
「楓があんなことしたのは、多分私のせいなの」
「鏡の?」
鏡はバツが悪そうに眼をパチクリし、控えめに俺を見た。
「……詳しくはあの子のためにも言えないけど、楓は私のことが本当に好きでたまらないみたいでね」
「す!? ……き?」
まさかの百合展開ですかそうですかって違うよな。
「うーん……好きっていうよりは、盲信っていうの? あの子最初の頃なんか私の事、鏡様って呼んでたのよ」
……今日も大きな包丁振り回して言ってましたよ。
「それはやめさせたんだけど、どうにも私のためになんでもするって利かなくてね……どうしても楓にとって私は特別な存在みたいなの」
それって何タースオリジナルなんですかね。
どういう出会い方したらそんなに信仰されるんだ?
俺もそんな信者が欲しいところだが、どうしてか山目の顔が浮かんで考えるのをやめた。
「それで、その……ちょっと恥ずかしいんだけど、私が夏樹のことを好きってことを結構前に楓に話したこともあるのね」
またしても心臓が勢いよく跳ねた。
俺は名称未設定のそわつく感じを押し殺して鏡の続きの言葉を聞く。
「そのときにね、まあ、色々と話しちゃったのよ。夏樹は雪が好きってことも、私の片思いってことも、報われなくてもそれでいいってことも。小学生の頃の夏樹との出会いのことは言ってないけどね」
雪、という言葉に俺の脳裏が翳った。
俺がした頓痴気な告白と、帰ってきた奇想天外四捨五入な反応を思い出したからだ。
俺はとりあえず首を振って、
「それで、涼川が嫉妬に狂ったってか?」
「んなわけないでしょ。単細胞な夏樹じゃあるまいし」
誹謗中傷、よし、法廷で会おう!
「一回楓に言われたことがあるの。そんなに夢鏡ちゃんを苦しめる人なら居なくなってしまえばいい、そうすれば苦しむこともなくなる、って」
「…………」
「もちろん、馬鹿なこと言わないでって言ったわ。でも、あの子実は根はかなり強情というか頑固なのよ。それにさっきも言ったけど、本当にあの子は異常なまでに私の事盲信しているの。それで、その、アンタが雪と話しているのを見て私が落ち込むのを見てられなかった……んだと思う」
鏡は天井の蛍光灯に視線を合わせて言った。
同時に俺の脳裏に涼川の言葉がよみがえる。
あなたがいると、あのお方はずっとつらい思いをするんです。それならいっそ――。
「それが理由で……要するに鏡の為に涼川は俺を殺そうとしたのか」
「そうかもしれない……っていうか多分そう。本当ごめんなさい。でもどうか、楓の事は許してあげてほしい。勝手なこと言ってるのは分かってるんだけど、あの子本当は悪い子じゃないの。それは私が保証する」
鏡が眉を寄せて縋るような表情を向けてくる。
そうは言われても、命を奪おうとしてきた人間を易々と許せるはずもない。
俺は、あの涼川の冷徹な表情、震え上がるほどの冷酷な声を覚えている。
しかしだ、命の恩人のお願いときたもんだ。
聞いてやらないといけない気もする。
それに、深月はこれが「最後の危機」とも言っていた。
なんとも痛烈なジレンマだ。
どちらにせよ、いずれ涼川ともちゃんと話をしなければならない気がするな。
俺は後頭部を掻きむしってから、
「そうしたら、涼川を許す代わりに一つお願いを聞いてくれ」
「……何かしら、貞操に危険を感じるわ」
おーい。
一体鏡の中で俺はどんな野郎なんだよ……。
「鏡もずっと、俺の事を忘れないでいてくれ。それだけだ」
何故こんなお願いをしたのかは自分でもわからない。
ただ格好をつけたかったのかもしれない。
それでも俺は、どうしてだろうか、鏡と何かを共有したいと思ってしまったのだった。
人はこれを何と呼ぶ? 俄かに自分でも分かり始めていて口角が上がってしまうのを感じた。
「忘れるわけないじゃない」
鏡は言いながら柔らかい笑顔で左手を俺の顔の前に突き出した。
俺はそれを両手で包み込んでから、
「じゃ、鏡に免じて許す」
「ありがとう」
ほんのり頬を赤らめた鏡を見つめる俺の頬も、きっと朱に染まっていることだろう。
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