噤まれた過去

「十二歳になったばかりの頃、私は自殺をしようとしたことがあるの」

「え…………」


 あまりにも軽々しく発せられた鏡の言葉に俺は心底驚いた。

 明るく前向き、破天荒がお似合いのこいつとは最もと言っていい程かけ離れた単語であったからだ。


「…………あまり楽しい話にはならないけど、本当に聞く?」


 鏡はおでこに手を当てたまま八重歯を出して切なそうな笑顔を俺に向けている。

 俺は一つ深呼吸をしてから、


「頼む」


 と掠れてしまった声で言った。


「そうね……私の父親ってなかなかに最低な奴でさ。仕事も何度もクビになってたみたいだし、お金遣いも荒いし酒癖は悪いし、平気で母親にも私にも暴力を振るう奴だったのね。それで、小学校四年生の時に母親は突然いなくなっちゃったの。前触れは無かったけど、片方だけ記入済みの離婚届がテーブルにあったのと、母親の荷物だけ纏めて無くなっていたから、子供ながらにどういう事かは分かった」


 鏡は何かを嘲笑するような顔で続ける。


「それからの日々もなかなか凄惨で。暴力は相変わらずだし、母親がやってくれていた家事もやらなくちゃならなかったし。……それでも私は一人っ子だからどうしようもなかったし、友達にも家庭の事情を話そうとも思わなかった。子供なりにそれは恥ずかしいことなんだなって思っていたから。ただ、私が我慢していればいいって、そう思ってたの」


 ひどい話だ、と俺は思った。

 しかしそれはある程度家族関係に俺が恵まれているからそう思う話であって、こんな話はどこにでも起こりうることなのだろう。

 そして、当事者がそれを不幸と感じるか当たり前と感じてしまうかの度合いは、当事者にしかわからない。軽々しく口を挟めるような事でもない。


「そんな生活が続いて、六年生になったばかりの頃、父親は再婚した。婿養子入りって言われて、当時はよく意味が分からなかったけれど、父親には、苗字が変わるよ、とだけ聞かされた。その時の私はこれでやっと暫く居なかった母親ができて、家事から解放される、と思って、少なからずいい方向に向くのではと期待したの。でも…………」


 鏡は話しながら徐々に顰め面になっていった。


「新しい家族に私の居場所はなかった。どうやったかは分からないけど、新しい母親は父親の事を物凄く好いていて、ちょっと気持ち悪いくらいだった。ベタ惚れってやつ? ただ、私に対しては冷たかった。本当、死ぬほど冷たかった。暴力こそされなかったけど、蔑むような眼でしか見てこないし、まともに会話もしてくれない。多分邪魔な奴、としか思われてなかったと思う」


 鏡はおでこに当てていた手を下ろし、お腹の上で両手を組んだ。

 そのままどこか遠くを見つめるような顔になった。


「それでも私は我慢した。家事を結局やらされることになっても、邪魔扱いをされても、ご飯を食べられて寝る場所があれば生きていけるとは思ってたから。それでもさ…………まだ私も小学生だったから、我慢も本当辛くて、毎日布団で泣いてた。でも私さえ我慢さえすれば大丈夫と思ってた。夏になって私の誕生日が来て、せめて誕生日くらい祝ってくれないかなぁ、なんて子供なりに期待してみたけど、案の定何もなかったのね。それだけならまだよかった、慣れてはいたし、再婚相手の子供の誕生日くらい分からなくてもしょうがないかなとも思ったし。でもね」


 俺は聞いていて、どんどん心に鈍色にびいろの感情が溜まっていくのを感じた。

 裏腹に鏡は嘲笑うかのような顔になっていく。


「その日の夜、寝る前に洗面所で歯を磨いていた時に、たまたまその母親とそこで鉢合わせたの。その時にね」


 鏡の両眼にみるみる水分が湧いているのが見える。


「アンタなんか生まれてなければよかったのに。…………って言われたの」


 鏡は寂しそうな笑顔を作って、両目から雫を零した。


「よりによって誕生日の日に、仮にも母親に。言われた瞬間にもう何が何だか分からなくなって、世界が不規則に揺れているような感覚のまま、寝る事もできずに朝になって、身体中が締め付けられているみたいな気持ちのまま学校に行って。なんにも頭に入らないまま、友達の言葉も聞こえないくらいになって。もう要するに、その母親の一言で、我慢が限界を超えて一気にになった」


 鏡は震える事なく真っ直ぐな声で喋っているが、眼からは止め処なく涙が流れ出ている。

 駄目だ、鏡の思い出は俺が軽々しく想像できるようなものをとっくに逸脱している。


「ずっと悲しくて、ずっと苦しくて、多分これから先もずっとこんな気持ちで、もう何にも希望を見出せなくなって。そしてパッと一つアイディアが浮かんだの。死んだら楽になるのかなって。それで学校の屋上に行ったの。そこから飛び降りようと思ってね。転落防止の高いフェンスがあったから、私はそれによじ登った。そしたら途中で男の子に声を掛けられたの」


 鏡はそこまで言うと両手の甲で両目を擦り、俺のほうをしっかと見た。


「その男の子が夏樹、アンタよ」

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