見えない八重歯
遠くからの自動販売機の鈍い唸り音と、時折通る医師だか看護師だか分からん奴のスリッパの音くらいしか、ここ緊急用入口付近の待合所には鳴り響かなかった。
深月が去ってから更に三十分程経つ。
果たして俺はこのままここで待っていて正しいのかそろそろ不安になってくる。
看護師には「こちらで暫くお待ちください」と言われてはいたので間違ってはいないが、そういう事じゃない。
俺が一体何者なのか、鏡とどういう関係であって、待つに値するような関係の人間なのか、という事だ。
異常に背の高い看護師に「待て」を宣告されてすぐ、俺は妹に連絡した。
事態を鏡の肉親に伝えてもらう為にである。
連絡してからそろそろ一時間半。今頃はこの病院に両親のどちらかでも駆けつける頃合いだろうか。
携帯電話で確認した現在時刻は十九時の少し前。一般的なお仕事をする人間なら終わっていてもおかしくない。
やけに冷え込む中、吐息を両手に当てて擦り合わせていると、近づいてくるスリッパの音が一つ。
先程と同じ高身長の看護師だった。
「鏡さんのお連れ様、どうぞこちらへ」
相変わらずのほぼ無感情のトーンで看護師はスリッパをパスパスと鳴らす。
俺もそれについていく。
感情を殺さないと、緊急病棟では勤務が難しいのだろうか。
まだ俺には知る由もない社会人の陰を垣間見た気がした。
* * *
のっぽの看護師に案内されている途中、鏡の手術の成功を告げられ、意識が戻り次第ナースコールを押すように命じられた。
俺の了承の返事と同時に到着したのは一つの病室だった。
ベッドが計二台、手前のベッドは空で、カーテンがL字に掛けられている奥のベッドに鏡は仰向けに眠っていた。
事前に手渡されていたパイプ椅子を音を立てずにベッド横に置いて腰を下ろす。
鏡は穏やかな表情ですうすう寝息をたてている。
長い睫毛が生えている瞼が、時折ごろりと左右に波打っている。
夢でも見ているのだろうか。
それにしても鏡の青白い寝顔はどこか月にように綺麗で、普段のあの小うるささ――なんて本人に言ったら小が大になるところだ――とのギャップだろうか、やけに惹かれるものがあった。
思えば、鏡にも助けられてばかりだった。
気落ちする修学旅行でもコイツの明るさには救われたし、鼻をへし折られた時も、手術の時も、雪の事でさえ……。
どうしてここまで鏡は俺によくしてくれるのか。
――私は、アンタに助けられたことがあるからよ。
俺の知らない、俺が関わること。
鏡が話してくれるかは分からないが、俺は知らなければならない気がする。
というより、知りたくてたまらないというのが本音だ。
そうだ、もう認めてしまおう。
俺は鏡に対して、
それが何度も助けられたからなのか、過去に会ったことがあるかもしれないからなのか、何なのかは自分でもわからないが、雪に対するものともまた違う理解できない感情が俺の中に巣食っている。
考えていて我ながら小恥ずかしいが、それは好感であることには間違いない。
今こうして静かに眠る鏡の顔に触れたいとも思うし、手が目の前にあるなら握ってやりたいとも思う。
こんなことを面と向かって行ったら、コイツは照れるだろうか、それとも怒るだろうか。
残念ながら向こう側にある点滴のついた右腕以外はしっかりと布団の中にインしているし、気安くご尊顔に触れるわけにもいかないので、ただこうして寝顔を見つめている事しかできないのだが。
差し当たってはそう、術後の鏡には酷だとは思うが、意識を取り戻し次第、話さなければならないことを頭の中で整理しておこう。
それにしても鏡の肉親の到着はまだであろうか。
妹からの返信によると、一時間以上前に既に連絡完了との事なのだが。
どちらにせよ話がある以上は親族が来ようとも俺は残らなければならないし、鏡の寝顔を独り占めできるので、まあ取り敢えずは良しとしようか。
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