五人目
振り返ると、一丈程先にぽつんと小さな女性が立っている。
俺は勿論そいつの事を知っていた。
「いや、なんだ、涼川か、びっくりさせるなよ」
一気に緊張が抜けていく。ドッと汗が全身に滲んだ。
涼川とは昇降口で俺の本日四人目の会話相手として既に話したのだ。
メンタルそんなに強くないんだからあまりそう頻繁にビビらせないでください。
しかし俺の安堵とは裏腹に、涼川の様子がおかしい。
先程から目が据わったまま微動だにしていない。
「涼川どうした?」
俺の問い掛けにもすぐには返答がなかった。
腹でも痛いのか? それとも学校に定期券でも忘れてきたのかな。
少し心配になった俺は涼川に近づこうと歩みを一歩、二歩と進める。
瞬間、涼川の口が小さく動いた。
雨音と盲導鈴ではっきりと聞こえなかったので、聞き直そうと歩みを進めたまま、
「なんだって?」
と俺が口を開いた瞬間の事だ。
涼川の右手に持っている
一瞬にして先程まで全身を這っていた緊張感が倍増して舞い戻ってくる。
進む足は止まり、全身も同時に止まる。
涼川はだらしなく右手に持つ
外から差し込む自動車のヘッドライトがその鋭い
瞬きをしなくて良かった、と心底思う。
常にどこにでも動けるように構えた状態で凝視を続けていなければ飛び退くことはできない程の、文字通り目にも留まらぬ速さで涼川が俺に向かって包丁を突いていたからだ。
間一髪斜め後ろに飛び退いた俺は、突いたままの姿勢の涼川の表情を見て強烈な寒気を感じた。
「なッ、やめッ」
ひどい緊張で上手く喋ることが出来ない。そして逃げようにも上手い逃げ場も無い。
何より背を向けると一発アウトな気がする。
なんでこんな時に限って周りに誰もいないんだよ。
誰かに助けを呼ぼうにも上手く声が出ない。
本当に恐ろしい時は声が全く出せないということを知った。
ちょっと待ってくれ、五人目はどうした?
涼川は四人目の筈だ。
俺が数え間違ったのか? 深月が伝え間違ったのか?
将又、深月の知り得る未来の情報との間に齟齬が発生したのか?
目まぐるしく思考する俺に対し、凄まじい蔑視の眼を向けて再び包丁を構える涼川。
爆発しそうな心臓を浅い呼吸で何とか抑えつつ、次の突きに備えて傘を構える。
震える両手で力強く柄と先端側を持ち、ゆとりを持たせて前に突き出す。
またしても女の子とは思えない機敏さで突進してくる涼川を、俺は運よく真横に躱すことができた。
のだが、幸運はここまでらしい。
避けた際に俺は盛大に転んで尻餅をついてしまった。
同時に弾みで蹴ってしまった傘もビックリするくらい遠くにぶっ飛んで行った。
じわりと近づいてくる涼川を見上げる事しかできない。
床にへこたれる俺に包丁を向ける涼川。
天井の照明の逆光で表情は良く見えない。
最後の力を振り絞り、俺は涼川に声をかける。
「なんで、こんなことするんだ!」
悲鳴に近い俺の声に、動かないまま涼川が答えた。
「不幸になる因子は、根絶やさないといけないですから」
身の毛もよだつ様な聞いたことの無い低い声だった。
「意味わかんねぇって!! 分かるように言ってくれよ!!」
俺が大声を上げたからか、窓張りの駅員室の中から人が出てくるのがチラリと見えた。
しかし涼川から目を離すわけにはいかない。
涼川は凄まじい軽蔑の表情を変えないまま、
「あなたがいると、あのお方はずっとつらい思いをするんです。それならいっそ消えてくれた方がつらさは一瞬で済みますから」
「……あのお方?」
駅員がゆっくりとこちらに近づいているのが見える。もっと速く来てくれ、頼む。
「死んでください」
そう言って涼川は包丁を高く振りかざした。
駄目だ、駅員も間に合わない。万事休すだ。
身体に力も入らず、避けられないと悟った時――。
――お兄ちゃん、その牛乳腐りかけだからやめときな?
前触れもなく妹とのやり取りが脳内にフラッシュバックした。
今日の朝の、朝食の時のやり取りだ。
「うそ、まじかよ…………うわ、ホントだ、消費期限一昨日じゃん」
「二日はまずいとおもうよ。牛乳は足が早いから」
「あっぶね。ありがとな、彩」
また、走馬灯だろうか。
前にもあったな、この感じ。確か事故った時だっけか。
「教えた代わりに、今日新しい牛乳買ってきてね」
「えー、面倒くせえ」
「アンタ、彩に命を救われたんだから、そのくらい安いもんでしょ。買って帰りなさい」
「いやいや、命って大げさな!」
――???
「大げさじゃないわよ。食中毒で命を落とすことだってあるッピ!」
「いやいやいやいや、それは歳取ってからの話でしょ! 母さんみたいにさ」
「……夏樹、小遣い半年無し」
――ああ、母さんか。そうだ。
「嘘でございますお若くてお美しいお母様」
「ふむふむ、分かればよろしいッピ!」
「ふぅ」
「夏樹、アンタも誰かの命くらい救えるような男になりなさいよ――」
朝、珍しくまだ出勤していない母さんと、一緒に朝食をとった時に、会話したんだったな。
五人の女の子……母さんを含んでいなかった。女の子としてなんて見てなかったしね。
ということはそうだ、昇降口で挨拶をした時点で、涼川が五人目だったという事だ。
そんなことを今更気づいたところで遅いのだ。
このしょうもない走馬灯で解答を得たところで、俺が包丁の餌食になるのは変わらない。
「――そこの子たち!! 何をやっている!!」
振りかざした涼川の手が一瞬止まる。
数メートル先の駅員がこちらに声を掛けたのだ。
このチャンスを逃すわけにはいかない。早く逃げるんだ、俺。
という思考も空しく、相変わらず身体は震えて言う事を聞かなかった。
今この瞬間に全てを尽くして考えろ。どうすればいい。
どうすればこの状況から命が助かるんだ。考えろ。
命……助かる……救う……。
――そうだ、深月だ。
駅員が背後から涼川の腕を掴んだ。
それに対して必死に抵抗する涼川。ナイフを交えた揉み合いになっている。
俺は相変わらず震えて体が動かない。
考えろ……深月は何と言っていた? 脳味噌をフル回転させて思い出せ。
そうだ、言ってほしいことがあると言っていた。
正しいタイミングで、俺を殺そうとするものに言ってほしいことがあると。
それは確かこうだ。
『俺が関わる、俺の知らないことを、その人に訊け』
俺が関わる事、それでいて俺の知らない事。
それは一体なんだ。
思い出せ、考えろ。
深月に出会ってから今日まで有ったこと全てを思い出せ。
一体何があった? 俺の知らない、俺の関わる事だ。
それは何だ。
知力を尽くして考えろ! 一瞬で思い出せ!
小柄な駅員が、涼川によって吹き飛ばされた。
その一瞬の隙に再び包丁を振りかざした涼川に、俺は声をあげた。
「俺が鏡を助けた事があるってのは、本当なのか!?」
「…………」
ピタリと涼川の手が止まる。
これが正解か?
「鏡……様を……助けた…………?」
何だって? 鏡様?
俺の一か八かの言葉に、涼川は明らかに動揺し訝しげな表情をした。
しかしながらそれも束の間、十秒もせずにすぐに憤怒に満ちた表情に変わり、包丁を持つ右手が動いた。
再び危機、万策尽きた。俺は目蓋を強く閉じる。
ダメじゃねえかよ、深月! 十秒弱延命したに過ぎなかったぞ!
死に物狂いで言われたこと考えたのに!
歯を食いしばって目蓋の裏で深月に文句を言っていたが、なかなか振り下ろされる包丁の鋭利な感覚はない。
少しだけ間があって、鋭利な感覚の代わりに俺の脚に柔らかく体重がかかるのを感じた。
恐る恐る眼を開けると、長髪の女が俺の両足に凭れ掛かる様にして倒れこむところだった。
視線を上にやると、蒼白く怯えた表情の涼川がわなわなと震えている。
どういうことかは一呼吸置いて理解できた。
涼川の手には包丁がなかったのだ。
俺に凭れ掛かる女に視線を戻すと、そいつは器用に顔だけを俺に向けてニヤリと笑った。
「良かった、わ……お返しができて」
八重歯の似合うそいつは、少し荒い呼吸のままそう言った。
そして、俺の足元に赤く染まった刃物と、ゆっくりと広がる毒々しい赤色の液体が見えた。
「ぁあああああああああああああああああああ」
奇声のような涼川の悲鳴が聞こえる。
俺も何が起きたか理解するまでのラグに必死に耐えながら、
「おい!! 鏡!!」
と叫んでいた。
――夏樹、アンタも誰かの命くらい救えるような男になりなさいよ。
俺も守られてばかりじゃなくて、誰かの命を救えるようになりたいよ。
肚の中で母さんに叫んでから、震える手でスマホを取り出して救急の番号を押した。
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