雨のち婀娜

 雨。

 雨である。


 あるものには憂鬱や落胆を与え、またあるものには安らぎや落ち着きを与える。

 人々に対しては多面性を持つ地球の普遍的な気象の一つではある雨は、今、一人の男子学生に対して莫大な緊張と興奮を付与していた。


 言うもでもなく俺の事なんだけども。


 俺は傘の柄を握る左掌に掻いたことの無い汗を滲ませながら、果たして今こうして雪と相合傘をしながら帰っているというこの状況が起こった原因は何なのかを深く考えることにした。


 結論から言うと、どんなに考えても全く分からなかった。

 というかもうそんなのどうでもいいって感じだった。


 世界五分前仮説を信じるとするなら、こんな始まりを用意してくれた神様に百回でも一万回でも感謝の手紙を書き連ねて送ってやりたいところだね。


 駅までのひたすら真っ直ぐの歩道を速いとも遅いともいえない絶妙なペースで肩を並べて歩む俺と雪。

 会話は殆どない。

 雨粒がビニールに弾ける音と、時折車道に通る鉄の塊が濡れた路面を駆け抜ける音が聞こえるくらいだ。


 それでもこの特別な状況に俺の心臓は常にサンバwithヘッドバンギング状態だった。

 気まずい様な心地いい様な、早く終わってほしいような終わってほしくないような、言葉に出来ない初めての感情が渦を巻いている。


 多少右肩が濡れるくらい平気である。

 こんなに近くで並んで歩けるなら安いものだ。


 間を見て盗み見る雪の顔はほんのりと笑顔で、それが気まずさからなのかどうなのかはよく分からなかった。


 そんな時間が十分程あって、駅が見えてくる。

 意図せず発生した幸せな時間も終局が近づいていた。


「なーに変な顔してるのー?」


 横から俺の顔を覗き込んでくる雪。顔がすごく近い。


「いや、ちょっと……何とも意外な状況だったからさ」

「そうー? 同じ方向だしー」


 長い髪を大人しく振り回して正面に向き直る雪。天に召されそうなほど良い匂いがした。

 湧き出たピンク色の意識を首を振って紛らわし、右手の拳を握りしめてから話題を探す。


「えーと…………この雨じゃ、流石に部活だって中止にもなるよな」

「なってないよー」


 素っ頓狂な声色で返事する雪。


「はい!? え、ドユコト?」


 首筋を痛めそうな速さで雪の方を振り向くと、これまたいつもの無感動な笑顔で雪はこう続けた。


「体育館でトレーニングに変更にはなったけどねー。無理矢理抜けてきちゃったのー」

「抜けてきたって……」

「だーって夏樹君傘無いっていうしー。いいタイミングだし一緒に帰ろうと思ってー」


 ……いいタイミングって何だ?

 俺が短く自問自答をしていると、あと二十メートル程で駅の入口に着いてしまう辺りまで来てしまった。


「それは有り難いけども……でも、部活はいいのか? ……大会とか近いんじゃなかったのかよ」

「えー、夏樹君は私と一緒に帰るの嫌だったー?」

「そんな訳ないだろ!」


 驚く程の即時否定、ちょっぴり必死さも相まって俺キモチワルイ。


「あははー。そっかそっかー。それにねー。ちょうど、夏樹君に訊きたいこともあったしー」

「ん、なに?」


 俺が尋ねたと同時に駅の入口に着いた。

 自動ドアの前で先程まで二人で小さく入っていた傘の水滴を、雪にかからないように遠ざけて落とす。

 ぎこちない手つきで傘を巻き、一応律儀に帯のボタンを留め、改めて問い直そうと雪のほうを見た俺は、硬直してしまった。

 雪が見た事のない、妖艶な表情をこちらに向けていたからだ。


 七色の鱗粉を纏う羽根でも生えているかのような、虹彩の色が赤紫にでもなっているかのような、今まで感じた事のない色気を醸し出す表情をしていたのだ。


「夏樹君は、私のことどう思ってるー?」


 意表を突く問いを投げかけてくる雪は、今までの無感動な笑顔とは全く違う、上品で優艶な含み笑いをしている。

 俺の心音が故障しそうなほど暴走しているのも感じた。


 というのも。


 俺の返事次第では、これはになりかねない質問だからだ。

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