押し出し表面張力

 帰りのHR。

 岩塚教諭がいつもと何ら変わりのない淡々口調の業務連絡を終え、涼川の号令がかかる。


 え、もう放課後になっちゃうよ?

 五人どころか一人か二人しか会話してないよ?


 慌ててきょろきょろしてしまった俺に、背後から山目の声がする。


「何してんだ夏樹。気持ち悪いぞ」


 お前には言われたくねえ! と叫ぶのを我慢して仕方なしに帰り支度をする。

 瞬間、窓を小さく叩く音が始まった。


「うわっ降ってきやがった! これじゃ今日はトレーニングだけになりそうだな」


 残念そうに言ったのは鞄を手に立ち上がったばかりの山目だった。

 瞬く間に窓を連打する雨粒。

 残念なのは山目だけではない。

 俺も今日は傘を持ってきていない。


 鞄を片手で背負いながら、ゆっくり昇降口に向かう。

 廊下の窓に当たる雨の強さと量からするに、流石に自転車で帰ることはできなさそうだ。

 最寄りの駅まで歩いて十分。走れば五分か。


 昇降口で靴を履きかえ、改めて外を見ると、更に雨脚が強くなっているように見える。

 どこかに落ちている傘なんて…………あるわけないよな。

 こんな時こそ傘を持って深月が登場してくれれば最高なんだが……っと、さすがに強欲になりすぎだな、戒めなければ。


 強めに息を吐き出して、鞄を頭上に掲げる。

 なーに、走れば五分だ。造作もない。


「あ、夏樹君、今帰り?」


 背後から俺の名を呼ぶ聞き覚えのある透き通った声。

 鞄をそのままに振り返ると、無感動な笑顔がそこに居た。


「ああ、雪は部活か?」

「んー、とねー、なーんか今日雨だから無くなるっぽいんだよねー」


 上下テニスウェアの雪が、人差し指を顎に当てて首を傾げている。やっぱり可愛い。


「まあこの雨じゃそうか……」

「夏樹君、傘ないのー?」


 掲げた鞄を大きな瞳で見つめながら雪が訊いてきた。


「え、ああ……」

「貸してあげようかー?」

「……いいのか?」


 雪はラケットを持っていない側の手でピースサインを俺に向けた。


「じゃあ、ちょっとここで待っててー」


 雪はそう言うと短いスカートのようなテニスウェアをはためかせながら体育館の方へ走って行ってしまった。

 見えなくなるまで目で追った後に、自分の胸がやはり高揚しているのを感じる。


 やっぱり俺は、だ。


 短絡的と言われても構わない。もう周りの目も気にする必要もない。

 いくら周囲の視線が突き刺そうが、死にはしないからな。

 死ぬよりも怖いことなんてあるものか。


 っとと。

 危うく忘れ去るところだった。


 妹を入れるなら、雪で三人目、だ。

 やはり雪が俺を殺そうとしている人間ではないという事で間違いはないようだ。


 十分程して、昇降口でしゃがむ俺に声をかけた女の子がいた。


「あ、風林さん、さようならです」


 小さなピンクの傘を片手に持った涼川だった。


「おう、じゃあな」


 会話はこれだけ。

 妹を入れて四人目。怒涛の会話ラッシュだ。


 涼川が見えなくなってから、更に十分が経った。

 まだ雪は来ない。


 別にあれだ、待つのは嫌いではないが、傘を一本貸すのにこんなに時間がかかるものだろうか。

 まあ雪だから許すけど。


 バサリと傘を開いて下校していく生徒たちをもう五十人は見送っただろうか、そんな頃合いに漸くお待ちかねの声が掛かった。


「夏樹君、お待たせー! ごめんねー、マネ、まいてくるのに、手間取っちゃってー」


 現れた雪はいつの間にか制服に着替えており、手には鞄と大きなビニール傘を抱えていた。

 珍しく息を切らしている。


「いや、大丈夫。こっちこそ傘ごときで態々ごめんな」

「いいよー。夏樹君にはお詫びしなきゃだしー」

「お詫び?」


 雪は目を閉じ小刻みに首を振った。


「んーん、なんでもなーい。じゃあ、いこ?」

「いこ?」

「うん。ほら、傘ー」


 雪はそう言って大きなビニール傘を広げた。


「…………え?」

「ほーら、いくよー。持って持ってー」

「え、あ、おう」


 俺が受け取って、差す傘に雪が入ってきた。


「駅までゴー!」


 眼を細めながら俺に身体を近づけてくる雪。


 うっそーん!?

 相合傘ってこと?


 そんな青春イベントなんて聞いてない、どんな顔してるだろう俺、気持ち悪くないか心配だ。

 ちらりと目だけ横にやると、いつもの無感動めの笑顔がそこにある。


 唐突な急接近に左手の震えが始まった。

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