暴走トラックが突っ込んだ少年の顛末
山本アヒコ
ある日の朝、ひとりの少年が歩いていた。ブレザーの制服から近くの高校に通っている生徒だとわかる。
天気は曇りだが予報では雨は降らないので、その手に傘はない。肩にかけた学校指定のバッグだけが荷物だ。
少年はいつもの通学路である坂を下っていると、後方からいつもとは違う音が聞こえた気がした。近づいてくる音がなぜか気になり振り向くと、大型トラックがかなりのスピードでこちらへ向かっていた。
この坂は角度が急で、カーブも九十度曲がって見通しが悪いのでほとんどの車がスピードを落とす。しかしこのトラックは全くスピードを落としていないようで、そのエンジン音が聞き慣れなかったため、少年はこれに気が付いたのだ。
だが気付いたところでどうしようもない。すでに大型トラックは少年の目の前、ガードレールに触れそうなほどの距離。もう逃げることもできないと、少年はなぜか冷静な気持ちでそれを確認する。
極限状態で遅くなった時間のなかで、少年はトラックの運転手の顔も確認した。中年の男。その目は真っ直ぐ少年の顔を見ていて、白い歯が見えるほど歯を食いしばっている。
ガードレールは大型トラックの運動エネルギーに耐え切れず、簡単に破壊された。
少年は運転手の顔を見ながら、なぜあんな泣きそうな顔をしているのだろうと思った。
***
中年の男はなぜこんな事になってしまったのだと、すでに自分が泥沼に頭の先までつかってしまっていることに気づきながら、何度も自問することをやめられなかった。
彼はどこにでもいる一般人だ。とある運送会社で大型トラックを運転して荷物を配達する仕事をしている。勤務態度は真面目で社内での評判は良い。タバコはすでにやめていて、酒はほどほどに飲み、ギャンブルはしない。家族は妻と四歳になった娘がひとり。裕福ではないが、借金もなく普通の幸せな生活をしていた。
しかし、それが崩壊したのは三日前のことだった。
「ただいまー」
仕事を終えてアパートへ帰宅した男は、そこで違和感に気づく。いつもはドアを開けると走ってくる娘の姿が無い。それどころか、狭いアパートのどこからも人の気配がしない。
「おい? 誰もいないのか?」
キッチンへ向かうと、コンロには調理途中のフライパンが置かれ、まな板の上にも半分だけ切った野菜が置いたままである。テレビもついたままで、こんな状態で放置して外出するのは違和感があった。念のため寝室やトイレと風呂ものぞいてみたが、妻と娘の姿はない。
「どこへ行ったんだ?」
首をひねっていると、アパートのドアが開く音がした。二人が帰ってきたと思いそちらへ向かうと、見えたのはまったく知らない人物だった。一人ではなく、何人も。
「誰だあんたら? ここは俺ん家だぞ?」
つい大声を出してしまったのには訳があった。入ってきた男たちの雰囲気が明らかに異様だったからだ。
男たちは全員、黒いスーツを着ていた。顔も全員がかなりの強面で、石像のようにまったく表情を変えないうえに、大きな傷が見える人間も多い。スーツで隠されていても体格の良さがわかるほど大きく、狭いアパートのドアに引っかかりそうなほどだ。見るからにヤクザ者といった雰囲気である。
「お、おい! 何なんだお前ら!」
このような人間との接点を持たない男は狼狽して声を荒げる。しかし男たちは眉ひとつ動かさず、声も発しない。靴を脱がず土足でフローリングの床に上がっているが、その事に気づく余裕もなかった。
狭いアパートにひしめく屈強な男たちに圧倒されていると、男たちが左右に分かれた。すると奥から誰かが歩いてくる。
「やあやあ、夜分にすまないな」
おそらく六十才前後の男だ。周囲に立つ黒スーツ達より頭ひとつ以上は背が低い。スーツを着ているのは同じだが、ストライプ柄のダブルだ。シャツも白ではなく青でネクタイも派手なデザインをしている。
「仕事が終わって帰宅して、やっと家族の団らんという時間を邪魔して申し訳ないと思っているよ」
明らかに申し訳ないとは思っていない口調で話す。それはよく知っている態度だ。自分たちドライバーを、ただの荷物運びだと馬鹿にして見下す取引先の人間たち。しかし彼らと目の前の男とでは、圧倒的に格が違った。
身にまとうストライプスーツは見るからに高級ブランドもので、腹の出た体型なのに整って見えるのはオーダーメイドだからだろう。革靴は磨かれて輝き、腕時計は黄金とダイヤモンドの塊のようだ。
それよりも違いがあるのは、その目だ。目尻に何本もしわがある細い目の奥にある瞳には、傲岸不遜と書かれているのではないかとすら思える、人を従えることに慣れきった強者の落ち着き。自分より背が低く、体力も筋力も無いはずなのに、負けるどころかこちらを人ではなく虫か何かとしか思っていないような目。これに睨まれただけで体が動かない。
「私の名前は戸嶋だ。まあ覚えなくていい。それより見てもらいたいものがある」
スーツの男が一人、タブレット端末をこちらへ見せる。そこには妻と娘の姿が映っていた。口をテープで塞がれ、腕も後ろで縛られているようだ。
思わずタブレットへ手をのばそうとすると、黒スーツ達が一歩前へ出てきたのでそれ以上動けない。恐怖で涙する妻と娘の顔を見ることしかできず、痛いほど拳を握る。
「慌てるな。お前が私の願いを聞いてくれれば、二人には何もしない」
「…………何をしろって?」
男が醜悪に笑う。
「ガキを一人、殺してほしいのさ」
断ることもできず、ついに実行日になってしまった。いつも乗っている大型トラックのエンジンを起動させる。いつもはここで仕事のスイッチが入るのだが、憂鬱な気分は晴れない。重いため息をつき、バックミラーを見ると目の下にクマができた青白い自分の顔がある。
三日前、アパートにやってきた男は写真を見せながら言った。
「このガキはいつもこの道を歩いて高校に行く。そこをお前の運転するトラックでひき殺してもらう。大丈夫だ、お前は罪に問われないようにしてやる。会社にこのルートを通るように依頼を出す。お前にこの仕事を振るようにもする。で、ガキを殺した後だが、トラックの欠陥ということにしてやるから安心しろ。警察も保険屋も、こっちの手が入ったやつらだから問題ない。それに報酬もやろう。三千万だ。これで文句は無いだろう? もし断ったら、大事な奥さんと子どもはどうなるかわかってるよな?」
冗談だとは思えなかった。あの男の目は本気だったうえに、妻と娘がアパートに帰ってくることもなかった。そして言われた通りのルートを走る荷物も自分の担当になった。依頼した人物は、戸嶋。アパートに来た男の名前だ。
落ち着かなくて赤信号を無視しそうになりブレーキを踏む。集中しなければ。もし途中で事故でもすれば、妻と娘は戻ってこない。
「いた……」
ついに標的の少年を見つけてしまった。アクセルをゆっくりと踏む。下り坂で普通ならブレーキを踏むべきだが、カーブに近づいてもアクセルから足を離さない。少年がこちらを向いた。痛いほど奥歯をかむ。
ガードレールを破壊したトラックはそのまま壁へ激突した。シートベルトが体へ食い込み膨らんだエアバッグに顔面を打ち付け、意識を失った。
目が覚めたのは病院のベッドだ。それに気が付いた妻と娘が男の胸へ顔を埋めて、大声で泣く。あの男は約束を守った。
そのあと警察や保険会社の人間から男は話を聞かれたが、トラックに欠陥があったということになり逮捕されることはなかった。後日、三千万円も口座に振り込まれ、そちらの約束も履行される。
トラックに轢かれた少年だが、死んだかどうかは実はわからない。死体が無かったからだ。事故現場には血痕もなかったが、少年のバッグは発見され数人の目撃者もいた。しかし少年は見つからなかった。その日以降、少年は行方不明になってしまう。
***
「死体が消えたというのはよくわからないが、行方不明になったならどうでもいい」
腹の出た中年男は笑いながらワインを飲む。ここは戸嶋の自宅である高級マンションだ。くつろいだ姿で大きなソファーにだらしなく座っている。
「これで遺産は私たちのもの」
テーブルを同じくしていた中年女性が高い声で笑い、ワインを飲む。同席している人間たちも満足そうに笑っていた。
ここに集まった戸嶋の近親者や、事業の関係者たちだ。彼らは全員、共犯者だった。
戸嶋が殺すように依頼した少年は、彼の親類である男の孫にあたる者だ。その男は莫大な資産を持つ実業家である。その娘が駆け落ちして産まれたのが少年だった。
実業家の男は先日に寿命を迎えた。そこで遺書には遺産をすべて自分の娘とその子供に渡すと書かれていた。戸嶋たちはその遺産を奪うため娘たちを探す。そこで見つけたのが少年だった。この少年は幼いころに事故で両親を失い、児童養護施設で暮らしていた。
これを知った戸嶋たちは、少年を殺せば遺産を奪えると気付き、それを実行する。自分の手を汚さず、善良な男の妻子を人質にして。
彼らは笑う。自らの悪行を、手柄だと。醜い笑顔を浮かべて酒を飲む。
汚れた酒宴をしていると、頭が薄くなったひ弱そうな印象の中年男が走ってきた。額には汗が浮かび、乱れた髪の毛が数本貼りついている。
「と、戸嶋さま! 大変です……!」
「うるさいぞ、何があった?」
「い、遺産が……あの遺産がすべて無くなっていますっ……!」
「は?」
***
「あー、トラックが突っ込んできたと思ったら異世界転生って本当にあるんだな。ということは……ステータスオープン! ってマジでなんか出てきた! えーと……なんだこれ? 体力とか魔力とかスキルとかの表示が無いな。所持品が制服とローファーと財布? もしかして、自分が持ってるアイテムがわかるってだけなのか? そんなの何に役立つんだっていうんだよ……ん? 他にも表示されてるな。所持金が【2775219378825円】!? バグってるなこれ!」
暴走トラックが突っ込んだ少年の顛末 山本アヒコ @lostoman916
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