第4話 ニートの話
「名前は?」
「ハラグチ スグルです。原っぱの原に、口に、江川卓の卓です」
ご丁寧に、漢字まで説明してくれた。
「話は何だ?」
「はい。何だか、人生がつまらなくて悩んでるんです」
「いきなりだな」雄爺はソファからずり落ちる仕草をした。「卓、お前、歳はいくつだ?」
「今年で四十になります」
四十か。それにしては何だか幼く見えるわね。美幸は卓の顔を見ながら、心の中で呟いた。
「四十には見えないな」
雄爺も同じことを思ったのか、ぼそっと言った。
「まあいいや。人生がつまらないと。でも、人生って、基本的にはつまらないものなんだけどな。どうして、つまらないって思うんだ?」
「自分のやることなすことが、どれも上手くいかないからです」
卓は詳細を話してくれた。
卓は、美幸と同じ高校を卒業し、大学に進学するため上京した。家賃や生活費など、必要な資金は、全部親が面倒を見てくれていた。そのせいもあり、大学の授業は適当にこなし、アルバイトやサークル活動も全くせず、自宅に引きこもって、インターネット、ゲーム、漫画、アイドルといった、いわゆる秋葉原系の趣味にのめり込んでいった。
大学三年から周りの雰囲気に流されつつ始めた就職活動も、全然うまく行かず、就職留年をしても企業から良い返事を貰うことはなかった。とりあえず大学は卒業してくれと親から言われたため、大学を卒業し、再び実家生活に戻った。
弁護士になろうと、司法試験の勉強を始めるものの、難易度の高さに挫折。公務員試験に目を向けるも、科目の多さにうんざりして投げ出してしまう。実家で暮らしているうちに、このままでいるのが一番居心地が良いことに気づく。何もしなくても、食事は三食出てくるし、衣類は洗濯してくれるし、部屋も掃除してくれる。欲しいものがあれば、すぐに手に入る。いつしか卓は、就職活動をしなくなっていた。
「じゃあ、所謂ニートってやつか、あんたは」
「ニートとは違いますね」
雄爺が言うと、卓はすぐさま否定した。
「でも、今、働きも勉強もせずに、親御さんのもとで暮らしているんだろう? それはニートじゃないのか?」
「僕と彼らを一緒にしないでください」
卓は少し不機嫌そうな声で答えた。
「それじゃ、あんたとニートは一体何が違うんだ?」
「僕は東大を卒業したんです」
「そうなんだ、凄い」
感心している美幸を尻目に、雄爺は卓との会話を続けた。
「他に違うところは?」
「特にないです」
「え、それだけ?」美幸は唖然とした。
「はい」
卓は何がおかしいんだとでも言いたげな表情で美幸を見た。
「というか、東大を出ているから、他のニートよりもアドバンテージがあるんです」
「どんなアドバンテージだよ?」
雄爺は後頭部に両手を置いて枕代わりにすると、冷めた声で訊ねた。
「東大に入った人間は優れているんです。優れているから、どんな場でも優遇されるんです」
「そうか。でも、優遇されるんなら、とっくに就職してると思うんだが」
「それは、周りが僕の優秀さに気づいていないからです。みんな、僕を見る目がないだけなんです。ちょっと本気を出せば、就職なんて何とかなりますよ」
「お前、友達や恋人はいないんだろう?」
「はい。今まで、全く」
「だろうな」雄爺は吐き捨てるように言った。
「でも、インターネットなんかで、アイドルとか同じ趣味を持つ友達はいるんでしょ?」
美幸は、徐々に機嫌が悪くなっている雄爺とのバランスを保とうと、ポジティブな質問を卓にぶつけた。
だが、卓が返事をする前に、雄爺が口を開いた。
「そんなのは、まやかしだよ」
雄爺は、窓の外の駐車場を指差して、卓に訊ねた。
「あのクルマ、お前のだろう?」
雄爺が指差した先には、ピンク色のボディに、アニメの女子高生キャラクターが描かれている、痛車仕様の日産・S15型シルビアがあった。
「ああっ、そうです。よく分かりましたね」
卓は、目を大きく見開いて、嬉しそうに言った。
雄爺は無視して、美幸に言った。
「あんなクルマに乗っていたら、誰も近づかないだろうよ。そりゃあ、友達もいないわけだ」
「え、ええ……」
美幸は返事にならない返事をした。
「いいんです。凡人にはきっと理解できないでしょうから。分かる人にだけ、分かってもらえれば、いいんですから」
卓は、二人を見下すように言った。
「で、お前は一体ここに何しに来たんだ?」
雄爺は腕組みをして、卓に訊ねた。
「だから、どうしたら、皆が僕を正当に評価してくれるのか、それを教えてもらいたいんです。世間が僕を認めてくれたら、人生も面白くなるのかなと思って」
「俺みたいな、中卒の凡人に相談したって、しょうがないだろう」
「そこを何とか」
「お前さあ、さっき、ちょっと本気を出せば何とかなるって言ってたんだから、本気出せば済む話だろ?」
「本気を出すにしても、周りが自分のことをちゃんと見ようとしてくれないから、困ってるんじゃないですか」
訳が分からない。こんな低次元の話を聞かされるなら、さっさと帰れば良かった。というか、そろそろ帰ろう。
美幸がそう思って、雄爺に話しかけようとすると、雄爺は席を立った。
「どうしたんですか?」
「トイレ、行ってくる。あんた、こいつの相手をしててくれ」
「えっ、ちょっ、ちょっと!」
美幸の声を振り切り、雄爺は一目散にレストランを出ていった。
「あんなに速く歩けるなら、杖、いらないんじゃないかな?」
美幸は、レストランの出入口を眺めたまま、卓に聞こえない音量で呟いた。そして渋々、卓の方に身体の向きを戻した。
相手をしててくれ、か。しょうがない。トイレなら、すぐ戻ってくるだろうし。
美幸は、卓に話しかけた。
「あのクルマ、凄く目立ちますね」
「あ、ありがとうございます」
卓は嬉しそうに礼を言って、クルマの方を見た。
褒めたつもりじゃないんだけど……。
美幸は頭をかきながら、視線をクルマに向けた。クルマの女の子が、こちらに可愛らしい笑顔を振りまいている。
「あの女の子のキャラクターは、なんていう名前なの?」
「ゲームで、『ドリームハイスクール!』っていうゲームがあるんですけど、それに出てくるキャラで、『愛田モカ』っていうキャラなんです」
よくぞ訊いてくれたと言わんばかりの表情で、卓は答えた。興奮気味のせいか、同じ単語が何度も繰り返し発せられた。
「そ、そうなんだ。でも、あれだけデコレーション? するとなると、結構お金かかるんでしょ?」
「まあ、それなりにかかりますよね」
「じゃあ、結構貯金、大変だったんじゃない?」
「いや、金は親が出してくれたんで」
卓は、事も無げに答えた。
「えっ?」
美幸は絶句した。だが、すぐに思い直した。世の中には、奇特な親もいるんだと。そして、さらに訊ねた。
「でも、このクルマは自分で買ったんでしょ?」
「いいえ、クルマ本体も親が」
「それじゃあ、維持費は? 税金とかは?」
それくらいは自分で負担しているだろう。いや、負担していてくれ。美幸はそんな期待を込めて訊いた。
だが、美幸の期待は裏切られた。
「それも出してもらってますけど」
美幸は開いた口がふさがらなかった。
どれだけ親のすねを齧れば、気が済むのだろうか。四十のいい大人が、こんな趣味のために親の貯金を食いつぶしているのかと思うと、美幸は頭がくらくらしてきた。
親も親だ。卓が小さい頃からずっと、彼の我儘は何でも叶えてあげていたのだろう。クルマを維持費から改造費まで込みで買い与えているくらいだ。きっと、好きなアイドルのライブのチケット代や交通費、ゲームのハードやソフト、漫画本やグッズなども、躊躇せず出してあげているのだろう。奇特な親なんかではない。子への愛情がすっかり歪んでしまっている、異常な親だ。
美幸はだんだん腹が立ってきた。雄爺がいないこともあり、卓を擁護するのが馬鹿らしく思えてきた。
「いいわよね」
ため息交じりに、美幸は言った。
「四十年もろくに働きもせず、親御さんがずっと面倒を見てくれているのに、『人生がつまらない』だなんて贅沢を言えるなんて、いい御身分だよね」
卓は、口調が冷たくなった美幸の顔を、不思議そうに見ている。
「東大って言っても、ピンキリなんだね。私は東大を卒業する人は皆、エリートで、皆、日本の最前線に立って活躍しているものだと思ってたけど、あなたみたいなニートもいるんだね」
「僕はニートじゃないです」
卓がすかさず反論した。
「そうね。ニートって呼ぶのも、おこがましいかもね」
美幸は作り笑いを浮かべながら、応じた。
「東大に入っただけで偉いと勘違いしちゃっている童貞無職男、とでも呼べばいいのかな?」
卓の顔が強張っている。
「馬鹿にしないでください」
「誰だって馬鹿にするわよ。あなたの親以外は」
美幸は、卓を睨みながら言った。
「社会人経験もなく、東大に入ったことだけを拠り所にして、自分から動こうともせずに、つまんないつまんないって言って、周りや社会のせいにしている人のことを、一体誰が認めるっていうのよ」
「東大は、ちょっとやそっと勉強したくらいじゃ、入れないんですよ。世の中はそれを分かってないんですよ」
「努力して東大に入ったことは、素直に凄いと思う。相当勉強しないと入れないだろうから」
その時、美幸は秀之の顔を思い浮かべた。彼も東大出身で、「東大はブランドだ」と、幾度となく言っていた。
「確かに東大は、一つのステータスかもしれない。でも、東大に入っただけで、将来が約束されるわけじゃないでしょう。そりゃあ、東大に入った方が、他の大学よりも就職活動などいろいろな面で可能性の幅が広がるというか、多少有利になることはあるかもしれない。でも、それはあくまでも相対的に有利になるだけであって、在学中も本人が切磋琢磨することは必要だと思う」
まるで、大学受験を控えた高校生に説教しているようだ。美幸は話しているうちに、徐々に疲労が増してきているのを感じていた。
だが、目の前の男は、そこらにいる分別のある高校生よりも理解がなかったため、美幸の疲労度はさらに膨らんだ。
「いや、僕はそうは思わないですね。東大卒は、もっと高く評価されるべきです」
「そういうことは、親や他人に甘えるのをやめて、自立してから言ってくれる?」
美幸は思わず大きな声で言ってしまった。
この人と真正面から話していると、イライラする。雄爺、早く戻ってきてよ。
美幸が心の中でそう呟くと、背後から声がした。
「あんた、ちょっと来てくれ」
美幸が振り向くと、雄爺がそこに立っていた。
「あ、はい」
卓は席を立つと、既に外へ向かって歩き始めた雄爺の後を追った。美幸も慌てて立ち上がり、その後をついて行った。
外に出ると、雄爺は、真っ直ぐ、大型車専用駐車場の方へ歩いていった。駐車場の脇の喫煙スペースの前に、がっちりとした体格の集団がたむろしていた。
「連れてきたぞ」
雄爺は、集団に声をかけると、皆が一斉にこちらを向いた。
「この人たちは……?」
美幸が雄爺に訊いた。
「ここのパーキングエリアの常連で、皆、トラックの運転手だ」
雄爺は美幸の方を見ずに答えた。
「さっき雄爺が言ってたニート野郎って、こいつのこと?」
集団の中では比較的若く、背が低く前歯が出ている、調子の良さそうな男が、卓を指差しながら、雄爺に訊ねた。
「ああ、そうだ」
「だから、ニートじゃないって」
雄爺が答えると、卓は否定した。
「面倒臭そうな野郎だな。線も細いし、大丈夫かよ」
年配のパンチパーマの男が、しかめ面で言った。
「こんなところまで連れてきて、一体何をするんですか?」
卓は雄爺に訊ねた。
「お前さん、人生がつまらないって言ったよな?」
「はあ、まあ」
「だから、人生を面白くしてやろうと思ってな」
そう言うと、雄爺はトラック野郎たちに「おい、頼む」と声をかけた。
若手の男たちが動き、あっという間に卓を担ぎ上げた。
「な、なっ、何するんだよっ」
卓が上から怯えた声を上げると、さっきの出っ歯が言った。
「ボクちゃん、これから楽しいことしようぜ。怖くないでちゅよ」
トラック野郎たちが一斉に笑った。
「やめろ、降ろせっ」
卓は大声を上げて、激しく暴れ出した。
「五月蝿えんだよ」
脇を歩いていたパンチパーマ男が、卓の頭を拳骨で小突いた。卓はあまりの痛さに両手で頭を押さえたため、おとなしくなった。
男たちは、大型車専用駐車スペースの一角に止まっている、一台のトラックの前まで、卓を担いできた。
「芹菜さん、連れてきましたよ」
トラック野郎の一人が、運転席に向かって声をかけた。
運転席側のドアがゆっくりと開き、女性が颯爽と降りてきた。服装は他のトラック野郎たちと大差ないが、身長は高く、体型は華奢で、髪型がポニーテールのせいか、顔の小ささが際立っている。
「綺麗。モデルみたい」
美幸は思わず呟いた。
「ああ、雄爺、お疲れ様です」
女性は嬉しそうな笑顔を見せ、雄爺に向かってお辞儀した。
「悪ぃな。変なお願いしちゃって」
雄爺は済まなそうに、軽く頭を下げた。
「いいんですよ。雄爺にはいつもお世話になっているし。私なんかで良ければ、いつでも力になりますから」
「そう言ってもらえると、ありがたい。こいつなんだが、よろしく頼む」
「分かりました。原口卓さんですね。宮本芹菜といいます。よろしくお願いします」
芹菜は卓に向かって一礼した。
「敬語なんか使わなくたっていいぞ。徹底的に鍛えてやってくれ」
「鍛えるって?」
雄爺の言葉に、卓が反応した。
「お前、これから、芹菜と一緒にトラックに乗って、芹菜の仕事を手伝え」
「ええっ?」
卓は目を丸くした。
「い、今からですか?」
卓の傍にいた美幸は、雄爺に訊ねた。雄爺は構わず話を続けた。
「芹菜は、長距離トラック運転手として、日本全国を走っている。芹菜の仕事を手伝いながら、世の中を見てこい。もちろん、ただ働きとは言わん。バイト代は出すから、心配するな」
「そんな、嫌ですよ」
卓は首を左右に振った。
「どうしてだ?」
「だって、トラック運転手なんて、中卒や高卒の人がやる仕事でしょう? 僕みたいな人には相応しくないですよ。こんなきつい仕事」
「てめえっ!」
パンチパーマが卓に掴みかかろうとした。美幸や他の男たちが必死で止めに入った。
「ろくに働いた経験もねえくせに、生意気なことほざいてんじゃねえぞ、コラ!」
羽交い絞めにされたパンチパーマは、卓に向かって怒鳴った。
「お前さん、つくづく、情けないよ」
雄爺は、ため息交じりにそう言うと、芹菜に向かって言った。
「あんた、自分の出た大学名、こいつに教えてやれ」
「私ですか? 私は、東大の文学部を卒業しました」
芹菜が手を前に組みながら、そう答えると、卓は驚きの表情を浮かべた。
雄爺はそんな卓の様子を見て、舌打ちをしてから言った。
「全く、世間知らずというか、職業差別も甚だしいな。どうせ、インターネットの情報の上っ面だけを見て、知ったような気になってるだけなんだろう。だから、お前の言うことは、何もかもが薄っぺらくて、説得力がまるでないんだよ」
卓は口を半開きにしたまま、黙っている。
「おいおい、そんなに驚くようなことか? 今どき、一流大学を卒業したトラック野郎なんて、いっぱいいるぜ。まあ、芹菜は『野郎』じゃないけどな」
雄爺が言うと、トラック野郎たちは笑った。
「まあ、お前に相応しくない仕事かどうか、実際に自分の目で確かめてみるんだな。言っておくが、トラック野郎は、ただトラックを目的地まで走らせるだけが仕事じゃないからな。荷物の積み下ろしや、仕事のスケジュール管理や、運行ルートの検討など、やることはいっぱいあるぞ」
「でも……」
「何だよ、まだあるのか?」
雄爺はうんざりした顔をした。
「心配するな。お前さんの親には、俺から話をしておくから。あのシルビアも、ここで預かっとく」
「……」
「何だ。いい歳をしたおっさんが、半べそなんかかきやがって。いいから、四の五の言わずに、とっとと行って来いや。こうでもしなけりゃ、お前の腐った根性は直らないだろうし、人生も面白くならねえだろうよ。だから、俺はこいつらにお前のことをお願いしたんだ。そしたら、こいつらは、俺のお願いを快く引き受けてくれた。お前、こいつらの厚意を無にするつもりか? 俺はそんなことは絶対許さねえからな」
雄爺は厳しい表情で、卓に言い放った。
美幸はようやく気付いた。さっき雄爺はトイレに行ったのではなく、芹菜やトラック野郎たちのところへ行き、卓の面倒を見てもらえないか交渉していたことに。
よくやるな、と思う。自分だったら、卓にそこまでのことをしてあげる気にはならないだろう。さっきのように苛立って、感情のままに喋って終わるのが関の山だ。
美幸が、雄爺を見ながら、そんなことを思っていると、雄爺が卓に声をかけた。
「ここは、パーキングエリアだ。お前さんは、もう十分に休んだだろう? そろそろ、人生の本線に合流する時間だ」
「うわっ、雄爺が、なんかクサいこと言ってる」
さっきの出っ歯のトラック野郎が、からかった。
「五月蝿え、お前ら、さっさとこいつを、トラックに乗せろ」
雄爺は持っていた杖を振り上げて、出っ歯を追いかけた。
その間にトラック野郎たちは、まごまごしている卓を再び担ぎ上げ、芹菜のトラックの助手席に押し込んだ。
「じゃあ、お預かりします」
運転席に乗り込んだ芹菜が、窓を開け、雄爺に言った。
「よろしく」
雄爺は芹菜に手を上げた。
勇ましいエンジン音とともに、トラックはゆっくりと動き出した。
「今日も荒っぽく解決しましたね」
美幸は雄爺に言ったが、雄爺は聞こえなかったのか、特に反応しなかった。
二人の前で、トラック野郎たちが、本線に合流しようとしている芹菜のトラックに向かって、ずっと手を振っていた。
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