第2話 主婦の話

 一時間後、私服姿の美幸が、老人のもとに戻ってきた。

「よかったら、もう一杯、いかがですか?」

 美幸は老人と自分の分のアイスコーヒーをテーブルに置いた。

「ああ。済まないね。じゃあ、頂くよ」

 老人はアイスコーヒーを自分の前へ引き寄せた。

「じゃあ、早速、話しますね。ええと、どこから話そうかな……」

 美幸は少し考え込んだ。

「どこからでも構わんよ。こっちはどのみち暇だから」

「分かりました」

 美幸は、軽く深呼吸すると、話し始めた。

「私、ここで働き始めてから、もう半年以上経つんですが、ここに来るまでにいろいろとあって……」

「そうか」

 老人はじっと美幸を見つめている。

 美幸は、話を続けた。


 美幸は、進学校と言われている地元の高校を卒業後、実家を離れ、東京都内の大学に入学した。その後、複写機で定評のある大手電機メーカーに就職し、営業として働くことになった。仕事は土日出勤が避けられないほど忙しく、大学時代から交際している同い年の相手と会う頻度も徐々に少なくなっていった。

 彼はよく美幸を責めた。仕事が忙しいのはこっちも同じだ。都合がつくように仕事を回せるのが会社員としてあるべき姿であると。美幸は片腹痛くて仕方がなかった。冗談じゃない。そんなことができるなら、もうとっくにやっている。たまに電話で愚痴を聞けば、あの仕事は俺には向かないから断っただの、俺がやりたいことはこんなんじゃないのに、上司や周りは誰も認めてくれないとかのたまう人が、一体どうしてそんなことを平気で言えるのだろうか。電話で話す度に増えていく彼の愚にもつかない説教に付き合いきれず、美幸はだんだん彼を煩わしく思うようになった。

 そんな生活が続き、入社三年目に、美幸は取引先である官公庁の職員である永岡秀之と初めて出会った。複写機の契約書類を提出しに秀之の職場へ向かう途中で、美幸は書類の不備に気づき、慌てて一旦会社へ戻って書類を修正し、約束の時間に間に合うよう、タクシーで再び向かった。庁内に入り、急いで階段を駆け上ったが、最後の段で躓いて転倒してしまい、手にしていた書類を床に思い切りばらまいてしまった。

 足の痛みのせいではなく、みっともない状況下に置かれた自分が情けなくなり思わず顔をしかめた美幸の目の前に、一人の男性が「大丈夫ですか?」と声をかけた後、しゃがみ込んで、床に散らばった書類を拾い始めた。美幸は男性のその姿が何故か愛おしく思え、しばし見とれてしまった。

「どうしました? もしかして、怪我しましたか?」

 動きが止まったままの美幸の方を向いて、男性は再び心配そうに声をかけてきた。

「あ……、大丈夫です。すみません」

 美幸は我に返り、慌てて一礼し、男性と一緒に書類を拾い始めた。

「もしかして、あなたが、高山さんですか?」

 男性は拾い集めた書類を美幸に手渡しながら訊ねた。「高山」は美幸の旧姓である。

「はい、高山です。ということは……」

「ええ。僕が永岡です。お待ちしておりました」

 秀之は、首から提げた職場のネームプレートを美幸の目の前に示しながら言った。

 その時の秀之の笑顔が美幸にとっては印象的だった。取引先の人間に対して好意を抱くことなんて、これまで一度もなかった。当然だ。美幸には彼氏もいたし、仮にいなかったとしても、会社員としてそのような私的な感情を仕事の現場に持ち込むことは許されない。そんなものは、自分の鞄の中にしまったままでいい。そう思っていた。

 だが、さっき転んだ拍子に、鞄からこぼれ落ちてしまったのだろうか。その後、秀之と仕事で会う度に、美幸の思いは膨らんでいった。自分でもよく分からなかった。今どき映画やテレビドラマでも描かないであろう、ありがちな展開に、正直戸惑っている自分もいた。だが、日に日に美幸の心は、秀之に惹かれていった。

 交際していた彼にはいろいろ適当な理由を話して、別れたい旨を申し出た。彼は縋ってくるのではないかと思ったが、あっさりとこれを受け入れ、交際に終止符を打った。そして美幸は、秀之と交際することになった。秀之には美幸の方から思いを打ち明けた。初めてだった。今までの交際は皆、男性側からのきっかけで始まるものばかりだった。秀之の答えを待つ間の期待と不安が織り成す緊張感と、望んでいた答えを聞いた時の胸の高鳴りは、美幸にとって新鮮だった。

 二年後、美幸は秀之と結婚した。結婚を機に会社は辞めた。秀之の意向だった。兼業主婦は何かと大変だからと。そうは言っても、いわゆる二馬力の方が経済的にゆとりが出るからと、当初、美幸は固辞したが、秀之は笑いながら心配は無用だと言った。自分はこれからキャリア官僚の道を歩むことになる。道は決して平坦ではない。道が途中で途切れるかもしれないし、最後まで進めたとしても、その果てに待ち受けているものが幸なのか不幸なのかも分からない。だから、お前は家庭に入り、自分を支えてほしい。金のことは大丈夫だ。俺一人で何とか養えるだろう。そう答えた秀之に対し、美幸は本当に一馬力でいいのかとしつこく確認した。今の仕事は決して嫌いではないし、兼業主婦で生きていく覚悟もできている。もちろん、あなたのことも全力で支えていくと。だが、秀之から返ってくる答えは変わらなかった。こうして美幸は専業主婦として、秀之との新婚生活を送ることとなった。

 それからさらに二年後、美幸は長男である義秀を出産した。これを機に、永岡家は都内の賃貸マンションを退去し、一軒家を建てて、そちらに住み始めた。

 義秀は大きな病気を患うこともなく、順調に成長した。そう。順調だった。高校に進学するまでは。

 義秀は、小学校、中学校と学業成績が優秀だった。高校受験を控えた中学の三者面談の場で、担任教師は、頑張れば行けると、日本で一、二位を争う某有名私立大学の付属高校の名を、受験の候補に挙げた。

 その夜、自宅のリビングで美幸からそのことを聞いた秀之は、義秀の両肩を掴み、絶対にその高校に合格しろと、鬼気迫る表情と強い口調で言った。

 ここ数年、秀之は自分のキャリアや世間体を殊更気にするようになっていた。そしてそれは、家族の美幸や義秀にも影響が及んでいた。美幸には、普段の生活態度や身だしなみにまで注文をつけるばかりか、美幸の交友関係にも口を出してきた。地元の友人とはあまり付き合うなと釘を刺され、自分の上司の妻が主催するホームパーティや自分と好みが合わない観劇などのイベントに、半ば強引に出席させられたりすることもしばしばあった。

 今回の義秀の件についても、絶対に受かれと口を酸っぱくして言っている様子から、高級官僚への階段を着々と上っている秀之のプライドや見栄が、美幸には垣間見えた。言葉や仕草の端々から、俺の出世を阻むような真似だけはしてくれるなと言っているように思え、辟易した。

 美幸は、義秀の進路には特にこだわりがなかった。義秀の人生は義秀のものだから、本人のやりたいようにやれば良いと思っていた。だから、義秀がその高校を受験すると決意表明した時も、担任教師も背中を押してくれているし、受けるだけ受けてみて、仮に落ちたとしても、滑り止めの高校に受かれば十分と、内心考えていた。

 それでも、両親に従順だった義秀は、父親の期待を裏切るまいと、文句ひとつ言わず、受験勉強に打ち込んだ。そして見事、本命の高校に合格し、四月にはその高校の制服の袖に腕を通すことになる。

 だが、その制服は、わずか一か月で義秀の部屋のクローゼットの中で眠ることになった。

 義秀は、ある日を境に突然、学校に行きたくないと言って、部屋から出てこなくなってしまった。ちょうど五月の連休明けだったこともあり、美幸は軽い五月病の類だと思い、そっとしておいた。しばらくすれば、元気になり、自分から進んで登校するようになるだろうと楽観視していた。

 だが、美幸の期待とは裏腹に、義秀はなかなか部屋から出てこようとしなかった。一週間が経ち、仕事から帰ってきた秀之は業を煮やし、義秀の部屋に乗り込んだ。そして、ベッドで横になっていた義秀を力づくで引きずり下ろそうとした。だが、義秀は激しく抵抗した。もみ合いが続いた末に秀之は激高し、義秀の左頬を思い切り引っ叩いた。そして、義秀を睨みつけ、こう言い放った。こんなことをして、俺の人生に泥を塗るつもりかと。

 その直後、今度は秀之の左頬が引っ叩かれた。やったのは、義秀ではなく、美幸だった。

 我慢の限界だった。この期に及んで、自分の出世のことしか考えていない夫が、腹立たしくて、情けなくて、仕方がなかった。

 ベッドの脇で座り込んでいた義秀は、泣きながら言った。

 学校の授業が難しくて、ついて行けない。クラスメイトは付属中学からのエスカレーター組が幅を利かせており、勉強の出来ない自分は彼らから毎日のように馬鹿にされ、教室は息苦しくてたまらないと。

 それを聞いた秀之は、怒りの形相のまま、何も言わずに部屋を出ていった。

 六月、七月……、そして、夏休みが過ぎても、義秀は部屋にこもったままだった。最初のうちは、優しく声をかけて励ましていた美幸も、時間が経つにつれて、だんだん苛立ちが募り、義秀に辛く当たることも増えてきた。一体いつまでこの状態が続くのか。美幸は途方に暮れていた。

 師走で街が慌ただしくなってきた頃、美幸は家族へのクリスマスプレゼントを買いに、新宿の百貨店へクルマで出かけた。平日とはいえ、駐車場がなかなか見つからなかったため、百貨店から少し離れた路地裏のホテル街にあるコインパーキングに、クルマを停めた。

 買い物から戻ってきた時、パーキングの向かいのホテルから、一組の男女のカップルが出てきた。美幸は思わず立ち尽くした。

 カップルの男性は、秀之だった。

 その直後のことは、あまりに気が動転していたせいか、よく覚えていない。気が付いたときは、美幸は自宅の玄関で膝をついてうずくまって、泣いていた。

 もう疲れてしまった。どいつもこいつも、私の気も知らずに勝手なことばかりして。

 美幸はよろよろと立ち上がると、必要最小限の荷物を旅行カバンに詰め込み、家を飛び出した。部屋にこもっている義秀には何も声をかけなかった。もう、どうでも良かった。好きにすればいい。こっちも好きにさせてもらうから。

 クリスマスのイルミネーションと音楽から逃げるように、美幸は電車に乗り、実家へ帰った。

 数日後、秀之が実家を訪ねてきたが、美幸は会いたくなかったため、美幸の両親が応対し、帰ってもらった。

 年が明けると、美幸は、両親が数年前に実家の敷地の片隅に建てた賃貸アパートの空き室で暮らし始めた。実家に住んでいる両親や兄夫婦に気を遣ったり遣われたりするのが嫌だったし、一人で気ままに日々を送りたかったからだ。あれから何度か、秀之と彼の両親が実家へ謝罪に訪ねてきたが、このアパートのおかげで彼らとは一切顔を合わせずに済んだ。

 とはいえ、無料で部屋を借りているのが申し訳なかったので、昼間は実家へ出向き、初江の家事の手伝いをしていた。パーキングエリアの手伝いの打診を受けたのは、家事が一段落して、こたつでくつろいでいる矢先のことであった。


「そうか」

 美幸の話を一通り聞き終わった老人は、下を向き腕組みをした。

 外はすっかり陽が沈み、駐車場に停まっている数台のクルマのヘッドライトが、アスファルトを煌々と照らしていた。そして、駐車場の向こう側にある高速道路の本線を、時折クルマが右から左へ走り去っていく様子が見えた。

 喋り過ぎたかしら。美幸は内心不安だった。自分のことをここまで人に話したのは、親以外では初めてだったかもしれない。だが、老人は嫌な顔をひとつせず、美幸の話に付き合ってくれた。

「大変だったな」

 しばらくの沈思の後、老人は顔を上げて、美幸に言った。

 美幸は、こくりと頷いた。

「話して、少しは楽になったろう」

「はい……」

 美幸の声がかすれると同時に、涙がこぼれ落ちた。

「それで、あんたは、これからどうするんだ?」

 老人は微動だにせず、訊ねた。

「どうするって……?」

 美幸は顔を上げた。

「このまま、この生活を続けていくつもりなのか? 馬鹿旦那と馬鹿息子はどうするんだ? 見限るのか? それとも、いつかは東京に戻るつもりなのか?」

 老人は、気難しい表情のまま、矢継ぎ早に訊いた。

「馬鹿息子って、そんな」

 美幸は、自分の子を、そんな風に呼ばれたことにむっとし、声が大きくなった。

「馬鹿だろう。同級生にちょっとからかわれただけで、五月病をこじらせて、ひきこもりになって、親を困らせて。さっさと学校辞めちまえば良かったんだ」

「辞めさせようとは、何度も思いましたけど、主人が――」

「それを許さなかったって言いたいんだろう。てめえのことしか考えられない、息子以上の馬鹿だからな。だけど、学校にろくに行かずに在学させ続けるのと、志半ばで中退するのとで、旦那にとっては何か違うのか? 世間に対しての恥の度合いで見れば、俺にしてみたら、どっちもさほど変わらないように思えるがな。違うのか?」

 美幸は何も答えることができず、黙っていた。

「一流の学校にどれだけの意味や価値があるか俺はよく知らないが、例え登校拒否していても在学させ続けることが、あんたの旦那にとってステータスだと思ってるんだとしたら、実にくだらない話だよ。俺だったら、早めに見切りをつけて仕切り直す方を選ぶけどな。歳を取れば取るほど、やり直しがきかなくなるしよ」

 老人はそこでアイスコーヒーを一口飲んだ。

「そして、旦那は旦那で不倫しちまったと。浅ましいねえ。大体、キャリア官僚で上を目指してる人間がそんなことをして、もしバレたら、その時点で出世街道から外れてしまうことぐらい、分かりきってるだろうに。やるんだったら、バレないように徹底しろってんだ」

「じゃあ、バレなきゃ、不倫してもいいってことですか?」

 美幸は老人を睨んで言った。

 老人は軽く苦笑した。

「俺は別に不倫を容認しているわけじゃないんだぞ。それくらいの覚悟もなしに、軽はずみでそんなことするもんじゃないって言ってるんだ。バレたら、それこそあんたのように、誰かしらが辛く悲しい思いをすることになる。誰かしらに多かれ少なかれ迷惑をかけることになる。こんな簡単なことが分からない男が、あんたが思っている以上に、この世の中には多いんだ」

 老人はそう言うと、美幸を指差した。

「そして、あんたもあんただ。辛いだの、悲しいだの、疲れただのと言って、全てをほっぽり出して地元に逃げ帰ってくるなんて、やってることが、息子とまるで変わらないじゃないか。え?」

 美幸ははっとした。確かにそうだ。これじゃ義秀と同じだ。

 老人はさらに訊いてきた。

「あんた、どうするんだ、これから。いつまでもこんな状態を続けていたって、しょうがないだろう」

 美幸は、返事もろくにしないまま、考え込んでしまった。

 アイスコーヒーを飲み切った老人は、窓の外を見て呟いた。

「いい場所だな、ここ」

「えっ?」

 美幸は、聞き取ることが出来ず、顔を上げた。

「この場所、気に入ったよ。ここは景色も良いし、何だか落ち着くんだよな」

「はあ……」

 話が急に変わったので、美幸は少し戸惑った。

 老人は杖をついて立ち上がった。

「今日は俺ぁ、このへんで帰るわ。また明日も来る。あいつらが懲りずにまた、あんたのところに来るかもしれないからな」

「今日は、本当にありがとうございました」

 美幸は立ち上がって、出口へ向かって歩き出した老人に向かって一礼した。

「礼には及ばないよ。ああ、それから」

 老人は、歩みを止め、美幸の方を向いた。

「さっきは、厳しいことを言って、済まなかったな」

「あ、いいえ……」

 美幸は、慌てて返事した。

「息子のこともあるから、早く結論を出すに越したことはないが、急いては事を仕損じるという言葉もある。こっちでじっくり、今後の身の振り方をあんたなりに考えて、あんたが選んだ道を進んでいけばいいんじゃないか。また、相談したいことがあったら、いつでも付き合うぞ。こう見えて俺は、そういう相談に乗るのが、結構好きだったりするんだ」

 そうなんだろうなと、美幸は思った。

「じゃあ、また明日な」

 老人は軽く手を挙げ、再び歩き出した。

「ああ、それから」

 老人は、また止まった。

「俺ぁ、名前は飯山雄二。周りは、雄爺、って呼んどる」

 老人はそう言うと、歩き出した。今度は立ち止まることなく、出口へと姿を消した。



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