パーキングエリア

酒津 司

第1話 休憩

 どうして、この季節の夕暮れは、こんなにも哀愁で満ち溢れているんだろう。永岡美幸はテーブルを拭く手を止めて、閑散としているレストランの窓の外の景色をしばし眺めた。

 遠くに見える黄金色に輝いた扇状地から手前に向かって伸びている高速道路。隣県へのアクセス向上というお題目のもと、美幸が生まれて間もない頃に計画が承認されたこの高速は、気の遠くなるほど長きにわたる用地買収交渉と、全線で二十本以上もあるトンネルを含む建設工事を経て、十七年前にようやく全線開通した。十七年前という正確な年数を覚えているのは、開通して間もなく、夫の永岡秀之と東京の下町にある古い賃貸マンションで一緒に暮らしていた美幸が妊娠し、仕事が産休に入ってすぐ、夫が運転するクルマに乗り、出産準備のために新しくできたこの高速道路を通って実家に帰ったのを覚えているからだ。長旅の疲れで少しまどろむ中、フロントウインドウの向こう側から視界に入ってくる、光沢のあるどす黒い路面と道路の両端に延々と続く真新しい白線が、何故か今でも美幸の記憶に鮮明に残っている。

 この高速道路の途中に設置されている、山の麓の小さなパーキングエリア。扇状地に広がっている市街地を抜けてきて、これから隣県に向かって長距離にわたる峠道と何本も続くトンネルを攻略せんとするドライバーや同乗者たちが、一息つきに大勢立ち寄るこの場所で、美幸は今年の春から働いている。

「あんたに、お願いしたいことがあるんだけど」

 年明け、実家のこたつで横になっていた美幸の反対側に、美幸の母の初江がそう言いながらこたつに入ってきた。美幸は返事をする代わりに身体を起こした。

「秋山さんって知ってるでしょ?」

 初江はほとんど空になっている美幸の湯呑に、持ってきた急須から熱々のお茶を淹れた。

「うん」

 知っている。といっても、実際には数えるほどしか会ったことがなく、顔もあまり覚えていないが、小さい頃から事あるごとに初江から話を聞かされているから、頻繁に付き合いがあるかの如く、秋山のことについては詳しい。初江の古くからの友人で、美幸の妹の愛美が小学生の時の同級生の母親である、秋山朋子のことである。本人たちは小学校から中学校へ進学し、別々の高校へ進んでから疎遠になってしまったが、母親同士の交流はずっと続いており、二人でよく一緒に旅行に出かけたりもしている。一緒にいてもお互い気を遣わなくて済むから仲が良いのだと初江はよく口にしており、その度に、この人が普段誰に一体気を遣っているんだろうと美幸は疑問に思いつつ、初江の話を聞いていた。

「秋山さん、今、あそこの高速のパーキングエリアで働いているんだけど」

 お茶を淹れ終わった初江は、高速道路のある方角を指差しながら言った。

「うん」

 それも前に聞いている。パーキングエリアには、小さな売店とレストランが併設されており、秋山は三年前から週に三回程度、売店に働きに出ている。

「今、人手が足りなくて大変みたいなの」

「そうなんだ」

 何でも、レストランで働いているスタッフが二人、同時期に辞めてしまったらしい。一人は親の介護の手伝いのため、もう一人は寿退社だったそうだ。さらに追い打ちをかけるように、売店のスタッフも心臓の持病が悪化して入院してしまったため、残りのスタッフは出勤頻度を増やし、秋山はレストランの方にもヘルプで入るようになった。店長の喜多村は急遽求人広告を出すなどして人員を確保しようとしているが、なかなか応募者が現れず困っているのだという。

「あんた、手伝ってくれないかね。秋山さんたちの仕事」

「私が?」美幸は顔をしかめた。

「いいじゃないの。どうせ毎日、家でごろごろしているだけなんだから」

 そう言うと、初江はお茶を一口すすった。

「別に、好きでごろごろしているわけじゃないし」

 美幸は猫背のまま、自分の湯呑に手を伸ばした。

 すると、初江は身を乗り出して言った。

「じゃあ、なおさらよ。少しは外へ出て、気分転換した方がいいわよ。ね、そうしなさいよ」

 半ば強引に迫ってくる初江に対し、美幸は両手を前に出して初江を制し、とりあえず秋山や店長に会ってみてから決めると返事した。すると、初江はすぐさま秋山に電話をかけ、翌日の午後にアポを入れてしまった。

 翌日、美幸は渋々、実家の買い物の足として使っているスズキ・アルトを借りて、パーキングエリアに向かって車を走らせた。パーキングエリアは、美幸の実家から車で十五分。都会と違って信号も交通量も少ないので、移動距離は東京都内での車移動と比べると、かなりある。

 初江が教えてくれた道を進み、パーキングエリアの裏側にある従業員用の駐車場に車を停めると、美幸は事務所の建物に入り、受付の社員に秋山を呼んでもらった。

 程なくして、売店の制服姿の秋山朋子が現れた。

「まあ、美幸ちゃん、久しぶりぃ。良かった、思ったより元気そうじゃない。ちょっと太った?」

 秋山は勢いよく美幸に近づくと、美幸の二の腕を叩きながら、大きい声で嬉しそうに言った。類は友を呼ぶと言うが、小太りの体型といい、強引でややデリカシーに欠ける性格といい、まるで初江とそっくりだ。

「ご無沙汰してます」

 美幸は少し苦笑いしながら、お辞儀して挨拶した。

「積もる話もあるし、レストランで、お茶でも飲みながらどう?」

「でも、秋山さん、仕事中じゃ――」

「大丈夫よ。あなたが来るって聞いていたから、キッチンの人に頼んで交代したの。この時間はレストランも暇だから」

 さあさあ、こっちこっちと、秋山は手招きしながら美幸をレストランに案内し、隅のテーブル席に腰かけた。

「美幸ちゃん、何飲む?」

 秋山は、メニューを美幸の前に置いて訊ねた。美幸が、一番安い「ホットコーヒーを」と答えるや否や、秋山はすぐ脇のキッチンに向かって「コーヒー、二つ持ってきて」と大声で言った。

 人手不足ではなかったのか。店内を軽く見渡しながら、美幸はふと思った。

「人、足りてるんじゃないって思ったでしょ?」

 美幸の思いを見透かしたかのように、秋山は言った。

「この時間帯は、まだ何とかなっているのよ。問題は、食事どきと休日」秋山さんは、美幸の目の前で、やや大げさに右手を縦に一振りした。「最近、交通量が増えたのよ。ほら、アレが出来たもんだから」

「ああ、アレ」

 美幸は思い出した。「アレ」とは、隣県に出来たばかりアウトレットモールのことだ。この先の県境でもある峠の向こう側は平野が広がっており、その中心部にかつてあった某自動車メーカーの工場跡地に昨年の秋にオープンしたそのモールは、県内最大級とされる広大な敷地面積と豊富な店舗数を誇っており、連日、県内外の大勢の客で溢れ返っている。

「まだ、私も初江さんも行ったことないのよ。もう少し空いて来たら行こうって。とりあえず、今は様子見」

 秋山は苦笑しながら言った。そういえば初江も、ローカル局のテレビ番組でここのアウトレットモールが紹介された時に、秋山さんと一緒に行きたいと言っていた気がする。

 そこに、厨房作業着姿の中年の男性が、作り置きと思われるホットコーヒーを運んできた。秋山はコーヒーを飲みながら、地元の近況や、愛美の同級生だった自分の娘の話などを、ほぼ一方的に話して聞かせた。話の内容があちこちに飛ぶせいで長話だったが、長話は初江で散々慣れているため、美幸は特に苦痛とも思わず、適宜相槌を打ちながら聞いていた。

 秋山のコーヒーが底を尽きかけたところで、彼女は急に神妙な表情になり、美幸に言った。

「しかし、美幸ちゃんもいろいろ大変だったんだね」

「ええ……」

 美幸はやや俯いて答えた。

 初江から事細かに聞いていたのだろう。何故、美幸が昨年の暮れに一人で実家に戻ってきたのかを。そして、そのままずっと実家に居続けている理由を。

「もう、東京に戻るつもりはないの?」

 秋山が訊ねた。

「分かりません」美幸は首を左右に振った。「今は、そのことはあまり考えたくないんです」

「そっかあ」

 秋山は、テーブルの上で両手を組んで、しばらく沈思した後に口を開いた。

「まあ、とりあえず、ここでしばらく手伝ってもらって、そのうち東京に帰りたくなったらさ、その時は遠慮しないで帰ってもらって全然構わないから。何、それまでには、新しいアルバイトさんも入って来るでしょうし」

「すみません。よろしくお願いします」

 美幸は頭を下げた。

「ううん。こっちこそありがとうね。美幸ちゃんが来てくれて、すごく助かる」

 秋山は優しい笑みを浮かべて言った。

 その後、秋山の付き添いのもと、美幸は店長の喜多村に挨拶し、簡単な面談を済ませ、翌日から早速、業務に就くこととなった。

 仕事は当初、売店とレストランの接客が中心だったが、慣れてくると、売店の商品の棚卸や厨房での簡単な調理などの裏方の業務も任されるようになった。秋山が気を利かせてくれたおかげで、他のスタッフともすっかり打ち解けた。気がつけば、美幸は半年以上、ほぼ毎日パーキングエリアに通うようになっていた。

 美幸がしばし手を止めて、夕暮れを見つめながらこの半年のことを回想していると、レストランの入口から騒がしい声が聞こえてきた。

 美幸は慌ててテーブルを拭き終えると、入口に小走りで向かった。入口には、ヒップホップ風の出で立ちの若い男が二人と、ギャル系の化粧と服で飾り立てた女が、大きな声で談笑していた。仕事でなければ、極力、いや、一切かかわりたくない類の客だ。美幸は一瞬だけ嫌悪感を抱いたが、すぐに営業スマイルを浮かべ、三人をさっき水拭きしたばかりの窓際のテーブル席へ案内した。三人は、身に着けている金属製のアクセサリーをじゃらじゃらと鳴らしながら席に着き、談笑を再開した。

「ご注文が決まりましたら、お声かけ下さい」

 美幸は軽く一礼し、素早く立ち去った。

「たちの悪そうなのが来たわね」

 厨房へ入ると、一緒のシフトに入っている秋山が、顔をしかめたまま言った。

 美幸は秋山に向かって、少しだけ肩をすぼめるポーズをして応じた。

 厨房にいても、三人の話し声が響いてくる。時折、スマートフォンの着信らしき電子音が鳴り響く。かと思えば、男たちの野太い笑い声と女の甲高い笑い声が耳を突き刺してくる。足で床を鳴らしたり、テーブルを何度も激しく叩く音も聞こえてくる。

 一体何がそんなにおかしいのだろうか。美幸は、不思議に思いながらも再び客席スペースに入り、他の客たちの応対に回っていると、煙草の煙の臭いを感じた。レストランは昨年四月から、終日全席禁煙となっている。煙が臭ってくる方向に目を向けると、若者三人が美味しそうに煙草を吸っていた。美幸は慌てて三人のいる席へ行き、声をかけた。

「お客様、申し訳ございません。当店は終日全席禁煙でございまして――」

「え? いいじゃん、別に。こんだけ空いてんだし」

 横文字が書かれたキャップ帽を被っている男が、美幸を見上げて言った。

「ですが、他のお客様のご迷惑になりますし、決まり事ですので」

 フロアには、彼らの他に三組ほど客がいる。

「一本だけ。これだけ吸ったら、もうやめるから」

 帽子男は吸っていた煙草を手に取り、美幸に向かって軽く突き出しながら言った。

「ご遠慮願います」

 美幸は毅然とした態度で、突っぱねた。

 すると、帽子男の向かいに座っているサングラスの男が舌打ちをして、少し苛ついた口調で言った。

「おばさん、そんな固いこと言わないでさあ、客のお願いを聞いてくれないかなあ。一本だけって言ってんじゃん」

 すると、隣のテーブル席に座っていた猫背の老人が振り向き、三人に向かって言った。

「お前ら、未成年の分際で、生意気に煙草なんか吸ってんじゃねえよ」

「あ? なんだてめえは」

 サングラス男が、老人に向かって凄んでみせた。

「俺は煙草が嫌いなんだよ。今すぐ消せよ」

「何? この爺さん」

 帽子男の隣で煙草を吸いながらスマートフォンを弄っていた女が、顔を上げて老人を睨んだ。

 あれ? このお客さん、前からいたかしら……。

 若者たちと言い合いをしている老人を見ながら、美幸は頭の片隅で記憶を辿っていた。窓際には四人掛けのテーブルのボックス席が五席設置されている。美幸は普段、外の景色が良く見える真ん中の席から客を案内しており、もし両隣に先客がいる場合は、もう一つ隣の席を案内し、なるべく隣り合わないようにしている。客に少しでも快適に過ごしてもらうための、美幸なりの細やかな配慮だ。

 若者たちが来るまでは、窓際のテーブル席は全て空いていた。だから、美幸は不本意ながらも、いつものマイルールに従い、彼らを真ん中のテーブル席に案内した。老人がその時点で既に隣の席に座っていたなら、真ん中の席は避けていたはずだ。

 となると、若者たちが来た後に老人が隣に座ったことになるが、美幸は接客した記憶がまるでなかった。レストランのマニュアルでは、客を席に案内したら、すぐにメニューと水を出すよう定められており、老人のテーブルには水の入ったグラスが置かれている。現在、接客対応のスタッフは美幸しかいないので、別のスタッフが水を出すことはあり得なかった。

 また、その老人は、隣の若者たちが着ていても違和感がない、赤色のネルシャツとデニムパンツを身に纏っており、年老いた顔や佇まいとは裏腹にコーディネートは相当若々しい。そんな特徴のある老人を接客していたら、覚えていない訳がないのだが。

「喧嘩売ってんのか、このクソじじい」

 男二人は、既に水を飲み干したグラスに煙草を捨てると、席を立ち、肩を怒らせながら老人にゆっくりと歩み寄った。それに応じるかのように、老人も傍に立てかけていた杖を手に取り、杖を使ってゆっくりと立ち上がった。

「もう少し、言葉を勉強しろよ。そんな漫画みたいな台詞でしか威嚇できないなんて、はっきり言ってダサいぞ」

 老人は呆れた口調でそう言うと、男たちの目の前に立った。

 まずい。

 美幸は、老人と若者たちの間に歩み寄り、声をかけた。

「お客様、他のお客様の迷惑になりますので――」

「引っ込んでろ!」

 帽子男が、美幸を思い切り突き飛ばした。美幸はその勢いを受け止めきれず、尻餅をつき、床に倒れ込んでしまった。その傍の席に座っていた二人組の熟年女性の客が悲鳴を上げ、席から離れた。

「貴様! 女に手を出しやがって!」

 老人が帽子男を、鬼の形相で睨みつけた。

「てめえも同じ目に遭わせてやるよ」

 サングラス男が老人に掴みかかった。

 老人は、杖を捨て、サングラス男が伸ばしてきた腕を両手で掴み、地面の方向に思い切り引っ張った。すると、サングラス男の身体は宙を一回転し、その直後、腰から床に着地した。

「痛え!」

 腰を強打したサングラス男――サングラスは、その拍子に明後日の方向へ飛んで行ってしまったが――は陸の魚の如く、床の上で激しく悶絶している。

「この野郎!」

 帽子男が老人に殴り掛かった。

老人はそれまでの動きが嘘であるかのような素早さで、帽子男のパンチをかわすと、繰り出してきた拳の方の手首を両手で掴み、力いっぱい捻りあげた。

 帽子男が、店内に響き渡るほどの悲鳴を上げた。

「どうする? このまま折ってやってもいいんだぞ」

 老人が帽子男に問いかけた。

「か、勘弁してください」

 帽子男は涙目で老人に懇願した。

「聞こえねえよ」

 老人はさらに帽子男の手首を捻りあげた。

「わ、分かりました! ごめんなさい、許してください!」

 老人は舌打ちをし、両手を離すと、帽子男はその場に座り込んでしまった。

「ねえ、大丈夫? ねえったら!」

 女が泣きそうな表情で、サングラス男のそばにしゃがみ込んで、声をかけている。

「あんた、怪我はないか?」

 老人は杖を手に取り、倒れている男たちの間をすり抜け、尻餅をついたまま呆気にとられている美幸に近づき、声をかけた。

「あっ、は、はい……」

 美幸は我に返り、慌てて返事をすると、老人は安堵の表情を浮かべた。そして、若者たちに向かって「帰れ!」と一喝した。

「す、すみませんでしたぁ」

 消え入るような声で帽子男はそう言うと、痛がっているサングラス男を、女と一緒に肩を貸して立たせた。そして三人は、よろよろと覚束ない足取りでレストランを出ていった。

 美幸はゆっくりと立ち上がった。身の危険が及ばない場所まで避難していた熟年女性二人組が、小さく歓声を上げ、拍手しているのが見えた。

「ああ、お姉さん」

 老人が言った。美幸は最初、自分に向かって言ったのだと気付かなかった。だが、老人が自分の方をじっと見ていたので、慌てて「は、はいっ」と返事した。

「アイスコーヒー、貰えんかね」

「か、かしこまりました」

 美幸は小さく会釈し、すぐに厨房へ向かった。


「お待たせしました」

 美幸は、自分の席に戻った老人のテーブルに、アイスコーヒーを置いた。

「ああ。ありがとう」

 老人は、すぐにグラスを手に取り、一気に半分近く飲み干した。

「ふう。久しぶりに運動したから、喉が乾いちゃってな」

老人は口元にわずかに残ったコーヒーを手で拭うと、満足そうにそう言った。「運動」とは、さっきの若者たちとの騒動のことであろう。

「あの……」

テーブル席の横で老人の様子を見ていた美幸が、おずおずと声をかけた。

「ん?」老人は美幸の方を見た。

「先ほどは、ありがとうございました」

「ああ」老人は右手を左右に振った。「大したことじゃない。気にするな」

「それにしても、お強いんですね。何か武道とか護身術とか、習っていらっしゃるんですか?」

 老人は猫背で小さくなったまま、美幸の方を見ている。さっき男を投げ飛ばした時の凛々しい様子は、今の老人からは全く感じられない。

「ああ、昔、ちょこっとだけ合気道を習っていたもんでな」

「そうだったんですね。おかげで助かりました。お客様がいなかったら、今頃どうなっていたか……。ところで」

 美幸は気になっていたことを訊ねた。

「どうして、あの人たちが未成年だって分かったんですか?」

「どうしてって、あんた……」老人は苦笑した。「あんだけ真後ろででかい声で喋っているのを聞いていりゃあ、話の内容から大体分かるだろうに。やれ、同じクラスの誰彼がどうのとか、担任がどうしたとか。ありゃあ、高校生だろう。多分な」

「そうか、そうですよね」

愚問だった。美幸は苦笑した。

「それから、お客様……」

 この際だから、訊いてみようと美幸は思った。

「何だ。まだあるのか」

 老人は、一瞬だけ苛立った表情を見せたので、美幸は少し後悔した。

「すみません。いろいろ訊いてしまって」

「何、構わんよ。どうせ暇だしな」

「お客様は、いつ来店なさったんですか?」

「あんた、さっきから変なことばかり訊くな」

 老人は、変わった生き物を見るかのように美幸をじっと見つめると、再び苦笑した。

「俺はもう一時間以上は、ここにおるぞ」

「えっ、そうでしたっけ?」

 美幸は思わず、目を丸くした。

「そうだよ。あんた、あいつらが来る前、テーブルを拭いておったろう」

「ええ、確かに……」テーブルを拭いてはいたが、その時は、誰もいなかったはずだ。

「途中から、あの夕焼けをじっと眺めてたな」

 老人は窓の外の、沈みかかった夕陽を指差した。

 見られていたのか。美幸は顔が熱くなるのを感じた。

「ええ、はい」

「何だか、その時のあんた、とても悲しそうだったぞ」

 美幸は無言で俯いた。

「あっ、俺、何かまずいこと言っちゃったか?」

 老人が美幸の様子を見て、慌てて声をかけた。

「い、いいえ。そんなわけではないんですが……」

 美幸は慌てて顔を上げて、答えた。

「そうか」

 老人はアイスコーヒーを一口飲んだ。

「俺ぁ、その時のあんたの様子がどうも気になってな。何か声をかけようときっかけを窺ってたんだが、その前に、やつらが来よったもんだから……まったく」

 老人は忌々しそうに頭をかきながら言った。

「はあ……」

 美幸はどう答えたら良いか分からず、曖昧な返事をして、会話を繋いだ。

 老人は、真剣な眼差しで、美幸に話しかけた。

「なああんた、何かあったのか? 話してみい。もしかしたら、俺が何かあんたに出来ることがあるかもしれない。だからと言って、あまり期待されても、それはそれで困っちまうんだが。ああ、他言とかしないから、安心しな。話相手も、今は滅法、少なくなったしな」

 美幸は少し迷った。このお爺さんは怖い人かと思えば、突然優しく接してくるし、性格がいまひとつ掴めない。でも、身体を張って自分を助けてくれたから、多分悪い人ではないのだろう。それに、今となっては、自分のことを多少誰かに話したところで、何かが変わるとも思えない。

 どうにでもなれ。美幸は意を決して、老人に言った。

「じゃあ、お言葉に甘えて、聞いてもらってもいいですか?」

 老人は満足そうに頷いた。

「ああ。仕事が終わったら、ここに来なさい。俺ぁ、まだここで、くつろいているから」


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