夜更け、共依存
明くる朝。私は久しぶりの休暇。
目覚ましのならない朝は時間が曖昧だ。遮光カーテンのせいだと思う。
一番最初に心配したのは怜の食事だが、眠い頭をぐるぐる回転させながら記憶を巡らせて、もう一度枕に顔をうずめた。
昨日ほとんど怜が手をつけられなかったおかずに、アレンジを加えて朝ごはん仕様にしたものを、作ってから寝たのだ。
たっぷり二度寝を味わって寝室から出た時には、食事が残さず食べられていて、家中のどこを見回しても怜の気配はなかった。
リビングのやたら広いソファに腰掛けて、ぼうっとお昼のニュース番組を眺める。
確か……と、寝る前の会話を頑張って思い出す。寝る直前はかなり眠いので、どこから夢なのか実を言うと曖昧だ。
怜は昼間から用事があると言っていて、はっきり告げられなかったことを考えると、多分あまり私にとって気分のいい用事ではない。
例えば、女性の買い物に付き合っている、とか、食事をしている、とかだと思う。
この一年で、たくさん見抜けるようになってしまった。
嘘に気づけるようになったことはいいことだけども、その反面知らなくてもいいことまで知ることになってしまう。
本当は、彼の嘘に鈍感で居られる方が、楽なんだと思う。
――自分の家に、帰ろう。
持ち主のいない彼の家は、とても広く感じる。
高級な家具で整えられたリビングも、使わない癖にやたら機能性が充実したキッチンも、彼のためにあるのだ。私のためではない。
この家にいて息苦しく感じる時、私は自分の一人暮らしのアパートに避難する。
自分にだけ逃げ場があるのは卑怯かもしれないけど、呼吸を整えることの方が大事だ。
軽い身支度を済ませて、電車で二駅ほど離れた、自分の家に帰る。
自分の家の玄関ドアを開けると、安堵からか一気に身体から力が抜けた。
怜の家と違って狭いアパートは数歩程でベッドにたどり着く。
ボスッと、淑女が立てるような音ではない重低音を響かせながら、自分の匂いしかしないベッドに飛び込んだ。
この家には友達はおろか、怜すらあげたことはない。私だけの城だ。
安心したと同じ頃には深い眠りに落ちていた。
寝坊したのにな――。
それでも彼のベッドでは、浅い眠りしか貪れない。
『みや、みやって、どう書くんですか?』
夢の中はいつだって、一番幸せだった、自分に都合のいい場面ばかりを映し出してくる。
『美しい夜って書いて、美夜』
『すごくいい名前ですね』
『それに、音がまるで猫の鳴き声みたいだ』
それの何が嬉しいのか理解に苦しんだ。
まあいいか。はにかんだ怜の顔は綺麗だし、嬉しそうに、みや、みや、と拙いイントネーションで私を呼ぶのは、くすぐったくて、心地いいし。
深く、深く物事を考えず、見える怜を素直に信じていれば、
――ううん、信じているフリをすれば
幸せに満ちた恋人ごっこは、永遠のものになるのだから。
◆
「ただいま。……怜?」
靴があるので怜がいることは間違いない。
が、返事はない。寝てるのだろうか。
結局自分の家で深い眠りから覚めたのは夜だった。
一度帰ってくると怜が言ってたことをすっかり忘れて、食事の準備を怠っていた私は、ラインで謝罪と、昨日作ったケーキが冷蔵庫にあるからそれを食べて、とだけ送った。
既読はついたが、返事は返ってこなかった。
怜なりの了承の意思表示だと思って、深く考えなかった、けれど。
怜の家は玄関から向かって、真っ直ぐの扉をあけるとダイニング、リビング、続き間で寝室という構造になっている。
右横の扉を開ければ脱衣所とお風呂。
左の扉を開ければトイレ。
だからどこに行くにもまずダイニングを通る。
靴を脱いで、訝しげに正面の扉をあけると、ダイニングの椅子に深く腰掛けたまま焦点の定まってない怜がいた。
半分寝てる? いや、目は開いているのだけど。
「れい……怜?」
「ん? ……ああ、みやだ」
「美夜だよ。ぼうっとしてた?」
「考えごとというか、あれ? 今何時ですかね?」
「終電で帰ってきたから……ああ、1時過ぎね。怜、ずいぶん早く帰って来たのね?」
時間をみてむしろ出勤してないのではないかという疑念を抱く。
急に店が休みになったのだろうか。
「というか、たぶん家から出てなくて、……もう、1時過ぎ」
そう言う怜の瞳には力がない。
「寝坊?」
「起きてはいました。ただの遅刻ですね」
「不思議なこともあるものね。目の前に携帯があるのに」
怜が座る席のテーブルには、しっかりスマホが置いてあった。
カチッと怜が、ホームボタンを押すと大量の着信通知が入っていた。
名前から店の人間だろうということがわかる。
目の前に携帯があって、意識もあるのに、これだけの着信を無視できる考えごとってなんなんだろう。
気になって、「何をそんなに瞑想してたの?」と聞くと怜は困った表情を作る。
「いや、いいや。言いたくないことなら」
「みやは優しいですね。気になるんでしょ? 聞いてくださいよ」
「無理はさせたくない」
本心だった。別に怜に無理をさせたくて一緒に暮らしてるわけではない。
上着を脱いでダイニングの椅子に無造作にかけた。
「お腹は? 空いてる?」
「それが、空いてなくて」
「ケーキ食べたの?」
「いいえ。食べられませんでした。……美夜に言ったら怒るかもしれないけど、」
歯切れ悪く言い淀む。
ああ、そういうことか。
たぶん、怜は懺悔をしたいのだ。
私が食事を作らなかったこと、私が不機嫌になったせいだと思っているから。
正直、単なるタイミングの問題だったのだが。
「なに? 怒らないよ?」
「さっき、自分で、吐いたんです。それで食欲がなくなった、感じです」
「どうして吐いたの?」
「美夜に、嘘をついたから」
怜が罪悪感で嘔吐することは今に始まった事ではない。
だから冷静に話を聞ける。
それにその嘘については、あたりが付いている。
私は怜の座る椅子の横にしゃがんだ。
視線を怜より下にすることで、怜が素直に言えるように。
「ごめんなさい。さっき他の人とご飯を食べて来ました」
謝るということは、十中八九、相手は女だ。
同僚との食事なら、同僚というから、怜を気に入って店に来てる客だろう。
「謝ることじゃないんだけど」
「昨日も、そうだったんです。美夜に早く帰るって言って、美夜が食事を作って待ってることもわかってたのに」
「怜からそう思ってくれただけで私は充分。だから気にしないで」
怜は、繊細すぎる。
最初にそれに気づいた時、大変だ、扱いが難しい、と思うより先に、美しいと感じた。
まるで精巧なガラス細工を手に取った時の危なっかしさ。
落としたら壊れてしまうかもしれない。
けど、触れずにはいられない。
「みやが作るもの以外、食べたくないのに」
「嬉しいけど、怜。それは極端だよ」
怜は、嘘つきだ。
これまでの短くはない人生で、数え切れないほどのたくさん嘘をついてきて、今でもちょくちょく嘘をつく。
あまりにも多くつき過ぎて、癖のようになってしまってる。
相手の求める言葉を、行動を、たとえ自分の意志に反していても取ってしまう。
時に残酷に人に期待をさせて、時に残酷に裏切る。
そんな自分が嫌いで、自己嫌悪に苛まれてる。
繊細で、臆病で、―寂しがり屋。
そんな怜だからこそ、惹かれたのだ。
「……みやの、そういうところが好きです」
怜は、もちろん私の言って欲しい言葉だって、知ってる。
その言葉を言ったはずなのに、私が決して手放しに喜ばないから、だから怜は私を好きだという。
「私はきっと怜に優しい人間じゃないね」
「けれどいちばん俺の本質を理解してる人間です。だから、みやが家にいてもいいと思った。たとえ、優しくなくても」
怜に優しい人間は、怜の嘘に素直な人間だ。
扱いやすく、楽で、けれどたぶん、それでは空虚は埋まらない。
「仕事には行くの?」
「多分今日は行ってもあまり役に立たないから、体調悪かったことにして休みます」
「怜はちょくちょく体調を崩すのね」
「みや、それは意地悪ですか?」
「ううん、別に」
私がそういうと怜は椅子から立って、私の手を引いた。
自然と私も立たされる形になって、そのまま怜の腕に抱きすくめられる。
「みや。お腹はすいてない。家事も別に明日でいいです。疲れてるだろうから」
「気遣いはいいよ」
「抱きたい。みやを抱きたいです」
「……うん」
確かめたいんだろう、と思った。
自分が、自分の嘘で嫌われてしまっていないこと。
言葉だけではなく、行動で確かめたいんだろうと思った。
「いいよ、怜。ベッドに行こう」
こうなった怜を私は拒まない。
拒んでしまったら、たぶんきっと。
「みや、好きです。美夜」
――この綺麗な人は、壊れてしまうんだろうから。
0の恋人 紅葡萄 @noircherry44
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