第10話後編「待望の主都」
・アラクネ
怖ろしい八つ目、女の上半身、蜘蛛の下半身をもった姿で、糸を自在に使いこなすのが特徴。
男がおらず、繁殖には人間の男を苗床にする必要がある。元は罰として竈神に呪われて使いとなった人間の一族である。
陪神に及ばないが使徒としては上位。領域に仇なす外敵を払う守護者。
■■■
エリクディスは地下坑道を進む。かつてなら松明を握っていた手には骨の杖があり、常人の目から暗闇に沈み、呼吸もせず心音も無く、何もいないかのよう。
老いを止めた賢者の肉体は死しても魂、精神は生きている。この杖をシャハズから”これ私のだっけ?”と譲って貰うまでは二重の死への不安と恐怖があったぐらいだ。
地上では地下作戦の成功率を上げるため、守備の目を反らす陽動に砲撃が行われている。火炎砲弾が着弾する地響きが伝わり、木材で補強した板天井の隙間から土がこぼれる。
砲弾はアラクネの巣ではなく城壁を直接叩いている。また城壁から城外へ巣を張ろうとするアラクネは矢玉の射撃で撃退されている。
包囲から更に時間は経ち、攻城兵器の準備も着々と整い、増加している。弩砲には燃える槍を備え、巣の編み目を縫って都内へ着弾させることに成功した。大型投石機程ではない作りの簡素な投石機を使い、これもまた巣の編み目を縫う程度の拳大の石を無数に飛ばしてアラクネ、守備兵を直接撃ち殺すようにしている。
物資が揃えば火の点いた油樽まで放られて巣の上で熱に耐えられなくなって砕け、編み目から燃える油が落ちて都市を焼く。無敵の堅牢さを誇るアラクネの糸は糸であり、鍋底などではない。弱点が露呈する。
補給体制が整えば支配地域からも増援が駆け付ける。この主都を旧市街地とするならば、包囲陣は雑然としているが新市街地と呼べる規模にまで発展。戦災で放棄されていた周辺の畑の復興、利水工事まで始まり植民の活況。
主都に流れ込む生命線、上水を供給し下水を押し流す川は完全に堰き止められており、その旧市街地を囲む城壁を兼ねる堤防が築かれている。堰を崩せば、最終手段だが水攻めが完成する。
城壁の敵守備兵達は返し付き攻城梯子、攻城塔を連結した移動要塞、屋根に櫓まで備えた破城槌、包囲陣から城壁へ半ばまで掘られた縦の攻撃塹壕を目の前にしている。攻撃力の高さに比例して必要となる守備力は右肩上がりを続け、兵士の疲労限界を常ならば越えるような守備当直体制を強いている。
今後の展開としてより精確、より威力を高めるために投石機を設置するための高台が築かれていて、近い内に砲弾の撃ち下ろしも出来るようになる。そこから突堤を築けば城壁の上に接続する道路とすらなる。数はまだ揃っていないが、アラクネの糸を切り裂けぬかと鎌刃を付けまくった特注砲弾も用意されている。
時間が与えられる度に強化されていく包囲陣。アラクネの守備を前提にしても劣勢は火を見るより明らかだが、まだ降伏勧告に応じない。反乱が起きてもおかしくはないがその気配が無いことも不気味である。
この不気味さをエリクディスの勘と経験が良く察知。異常事態が予測され、地下坑道からの潜入は不測の事態に対処出来るであろうエリクディスだけで行われる。
暗闇の地下坑道は、元は城壁を地下から崩す目的で掘られたものだったが地上の都市より広い、沈んだ古代都市に突き当たってしまってその計画は頓挫した。その古代都市自体が強大な基礎となっており、壁崩しは不可能と見込まれた。しかしそこは地下迷宮、ダンジョン、侵入が可能なのだ。
この主都には以前から沈んだ古代都市の話は秘密とならずに広まっており、住むには寒いが酒蔵にはうってつけと言われていた。
光無き迷宮は道が入り組んでいる。元は地上にあった都市で、多少は整理されずとも都市計画に基づいて、人々が生活出来るようにと築かれていた。だが崩落や、都市放棄後の居住者達の局地的な改装が重なっている。常人ならば迷走必至だが、死せる魔法使い、陰行精霊術の多くを習得したエリクディスは正解の道を探し当てる。
闇の精霊の力を借りた光陰反転する視力が今は整っていない道の進みやすいところを捉え、手探りならば分からないが、丁寧に瓦礫を撤去すれば向こう側に行ける通路を進む。
音の精霊の力を借りた反響でも観て、闇の視力でも捉えられない向こう側まで把握。総当たりなどせず、把握した道を地図の把握作成に優れた頭脳で整理して無駄を省き、行き止まりの道を捨て、先へと続く道を選び、その中から今の都市住民が利用している地下区画、噂の酒蔵などがある方向へと方位磁針を用いて感覚だけに頼らず進んでいく。
迷宮の通路はお世辞にも整備がされていない。瓦礫や崩れ込んだ土、屑になったかつての家具や転がる骨が足場を悪くする。地盤の変動で大穴が開き、地下水の流入で川や沼すら出来上がっていて、足を置けば崩れて水中に落ちるような自然の落とし穴すらある。かつての地下室への、埃被った扉が腐って落とし穴と化した足場もあり、常人には耐え難い環境だ。
行く道はかつての都市の通り沿いとは限らず、潰されていない家や、砦か塔か城か判別不能な軍事施設の中を通り抜ける必要が出てくる。古代でも大都市だっただけあり、民家でもちゃんと扉は施錠され、錆に癒着して壁と化している。そして錆鉄とはいえ一部は頑丈。朽ちて打ち壊せば突破出来るような物もあるが、無理をして衝撃を与えれば崩落、生き埋めの可能性がある。いくら死を乗り越えたからといって、生き埋めとなったら死んだも同然、否、なまじ死んでも死ねないだけに神々に呪いを受けたように半永久的な苦しみを受けることになる。これは単純に恐ろしい。
『ゆっくり、少し腐れろ』
エリクディスの解決方法は腐の精霊術で僅かずつ扉の鍵、金具、腐れた厚い木の板を更に腐らせ、崩れる錆とし、必要なだけ脆くして開く。時には小さな穴だけ開け、そこへ猫のように這い蹲って抜ける。
道は立って歩ける場所ばかりではない。天井が半ば崩れ、宰相閣下がすべきではないような匍匐前進が強いられる。柱が倒れ、底が抜け、石像が倒れた道ではない道の連続。これらは劣化と崩壊の連鎖によって成り、人を通す前提ではない。そこを強引に、しかし無理をして生き埋めにならぬように進まなければならない。経験豊富な冒険者というより鉱夫の腕の見せどころ。
それにしてもここは常人には辛い迷宮。迷宮などと、人を迷わせる建物という表現すら生温い。半ば枯れた地下水脈を強引に這って進んでいるようであった。
この崩れかけの地下都市には水気がある。這い蹲って進むような隘路ですらないような隙間、これらには水が溜まっていることがある。清浄な水の場合もあるが泥水の場合も地上の下水が漏れて降りて来たような汚水もあり、鼠や虫の住処、墓場と化して汚れた場所もある。
このような常人には耐えられない、ガイセル、チャルカンでも音を上げるどころか諦める道ではない道をエリクディスは死せる鈍感さと明敏さを生かして潜り抜け、遂に今、人が利用している地下部に到達した。それは古代都市の物とは違う石材、加工様式の石壁であることから分かり、生活する空間が向こう側にあると音で分かる。当然だが、あの不潔な地下崩壊部と飲料物が保管されている酒蔵は厳重に隔離されている。
ここからまた探索となる。音の精霊術の感触で、壁の脆いところを探る。人が作る物には新しい古い、出来の良し悪しがある。その中で一番に脆い部分を見つけ、腕力でどうにか出来ないかと試して諦める。
『音を近くに限定しろ』
音の精霊術にて、その広がりを限定した上でエリクディスは雷の薬を脆い箇所に設置して距離を取る。
『雷の薬を少し燃やせ』
大分苦手になってしまった火の精霊術で、神経を集中し、疲れを感じる程度になったころにようやく火花か火か分からない程度の小さな発火が起こり、周囲に音が伝わらない爆発が起きて壁に穴が開いた。音というのは空気以外にも震えて伝わる。それが限定されて局所的になると、非常に破壊力がその部分だけ向上することをエリクディスは発見している。これはおそらく、知神に捧げられる価値がある。いつか訪れる機会に取っておきたいところ。
エリクディスは酒蔵と思しき地下室に侵入する。開けた穴は近くにあった道具箱や椅子などを自然に見える形で再配置して隠す。
並んだ酒樽の醸造年月日や、開ければ中身がこぼれ出すだろう栓を見て、改めてこういったものはもう二度と味わえないのだと、干からびた舌を想って空しくなる。そこでエリクディス、己の愚に気付いた。
『この身、衣服の汚れを風化させろ』
臭い消しである。汚水を被った己を、嗅覚が死んでいたことで忘れていたのだ。腐の精霊術により、半端に腐った汚れを完全に腐り果てさせて無害な塵と化した。
『乾かせ』
そして濡れた身体と服を気の精霊術で乾燥させ、準備を整えた。
人が通るように作られた地下通路を行く。酒樽以外にも未だに余裕がある穀物庫、宝物庫などがあり、そして苗床になっている人間の男達がいた。彼らは妊婦のように腹が膨れていて、何れも戦で負った傷跡が生々しく、先が見えている。負傷兵がアラクネ達に捧げられていることが分かる。元気な健常者ではなく負傷者に限るとは、他の神々より竈神の使徒達は情けが深い。
アラクネの苗床になったのは最近のことではないようで、破れた腹から生まれたアラクネの赤子が一人で死せる父を食っている姿が見られる。
また今も生贄が続いている証拠にアラクネが、人事不詳となった男の下腹部に尻から卵管をやさしく挿している姿も見られた。その挿し傷は綺麗に縫って手当がされ、それから看病するように男の体が清潔に拭かれ、食べ物が口移しで与えられる。
負傷したアラクネが、腹が割けた男を抱いたまま二人の赤子に食われている姿さえ見られる。侵し難さが漂う。
これらが竈神に捧げている代償だろうか? 些末ではない犠牲だが、この主都を長期間防衛するには全く足りない。
包囲が始まってしばらく、地下坑道を潜ってからも相当な日数が経っている。それでもまだ主都は持ち堪えている。決して多くはない男の腹と精だけで賄える規模の奇跡ではない。
考えることはエリクディスの得意で、今日はそれが弱点になった。
床ではなく、天井と壁に八脚を突っ張って歩いていたアラクネと遭遇したのだ。完全に不注意、八つ目と目線が合った。止まった心臓が動揺する心地。
『凍てつき乾け』
ロクサールに受けた複合精霊術は、死とともに技術も授けた。冷と気の複合精霊術が声を上げようとしたアラクネの口に直撃し、喉も肺も凍傷に荒れた上、極端に乾かされ瞬時に半ば木乃伊化して命も警戒の声も奪った。
人間より重いアラクネが落ちて来て、エリクディスは全身でそれを壁に押し当てつつゆっくり降ろして音を殺した。音の精霊術を使えば、とは後から気づいた。シャハズならば難なくやれそうだ。己の未熟を自覚する。吃驚して殺してしまうとは何事か、失態である。意図したならともかく咄嗟だ。
地下作戦で行うべきことは様々にある。内側から城門を開けて突破口を開くこともあるが、それよりも攻略すべき対象がある。破るべきは兵力や防御施設より奇跡それ自体だ。これをどうにかしなければ、おそらく世界最強の軍隊を突入させても奇跡に敗れかねない。
奇跡を発現し続ける、何か、おそらく定期的に生贄を捧げ続けるような祭壇を壊す。これが勝敗を決する。
■■■
エリクディスは地下室から、地上へ出たりまた地下へと入ったりを繰り返して都市中心部の宮殿へと続く道を探る。ここは古代都市をある程度なぞって作られているのでそのような構造になっている。
地上に出ると空一面にアラクネの巣が張り巡らされている光景は現実離れしていて、どのような構造なのか、どのように糸を巡らせているのかと観察したくなるエリクディスだが、鎌刃を高速回転させて巣を切り裂き、アラクネの脚を切り落とし、道路にめり込んで折れた刃が散乱してオーガ兵の頭に角が増えたように刺さって即死させるのを見て、これは早く戦争以外の手段で解決しなければ無用に多大な、後々に影響が出るような犠牲が出てしまうと確信する。
宮殿正面は当たり前だが警備厳重で、重装のオーガ兵とアラクネ兵で固められている。魔法も得意そうな雰囲気があり、エリクディス独りで強行突破など出来ようはずがない。
そこで考えたのは地下から、音を局所的にして雷の薬で爆破して道を強引に開く方法。この地下の古代都市をなぞり、使える部分は地下倉庫などにしている複雑な構造を利用したい。複雑であればあるほど隙が生まれる。音も出さずに、都市内部から宮殿の底に穴を開けるような想定外が重複したような潜入の隙を見つけるのだ。
目を付けるのは宮殿近くの民家や商店、その地下室。
住民は根こそぎ動員されていて男は全て兵士となっていて、抜け目なく夜間でも都市中を警備している。昼夜問わず火炎の砲弾、槍、油が降って来るので消火活動を行うためでもある。
エリクディスが行動するのは夜間、闇夜に紛れた上に闇の精霊術で隠れ、音を精霊術で消して、留守の家へ鍵は腐の精霊術で破壊して忍び込み、地下室へと入る。地下室から音の反響で宮殿に通じる近道が無いか探る。時に帰宅した兵士と遭遇し、それを気の精霊術で静かに酸欠、気絶させては布団を裂いた物で拘束して無力化。一度は潜入した家の屋根に燃えた油が降り注いで半狂乱になりかけたものの、遂に宮殿地下への近道を発見した。
発見した後は音限定の爆破で石壁を崩し、使用されていない古代都市の道無き道を這い蹲って進み、そこから宮殿地下に入るために石壁を音限定の爆破で崩して開ける。
宮殿の地下部にあるのは倉庫か、ある程度身分ある者を幽閉する牢獄か。エリクディスが引き当てた壁は牢獄だ。それも丁度、一名が幽閉されている一室、座敷牢。
そこに横たわる者の顔は精気減退し、顔が死人より悲惨なほどに弱っている。
この顔は見たことがある。何をしても餓え渇き寒さに苛まれ、しかも死ねない竈神の呪いだ。自決を試みてもその転じて情けの無い癒しの力で傷は瞬く間に塞がり、死に至れない。
この顔を良く知っている。エリクディスは跪き、力無いヤハルの痩せた大きい手を枯れた手で握る。
『エリクディスだ。分かるか?』
ヤハルは視力疑わしい濁った目をぼんやりと合わせた。
『一体どうしたのだ? 何故こんなところに』
かつては声が大きいと時にうるさがられた彼女が、老いてなお勇ましかった姿も嘘のようにか細い声を絞り出す。
「降伏しようとしましたが、召喚した使徒傾城がそれを認めませんでした。加護の奇跡は承った、しかしその方法まで指導される覚えはないと」
『使徒傾城!? 召喚……そこまで』
陪神格たる使徒を召喚するとはヤハルの奇跡、例え今、失敗が重なっていたとしても尋常ではない。魔法使いの至りである。
「傾城様は今、私の似姿を取っています」
エリクディスが一度、城門にて兵士達を迎え入れるヤハルの姿が遠目にも美しいと見えたのは思い出の補正があったかと思ったが、違った。あの時、既にすり替わっていた。略奪軍の帰還阻止の時だ。本来ならあそこで降伏、終戦となっていたはずだったわけだ。
『奇跡の儀式はどのような?』
「女達は子供を、赤子を捧げ、妊娠しても直ぐに堕胎して捧げるを繰り返しています。祭壇は後宮に、傾城様が代わりに儀式を……」
『……分かった』
大都市住民が総出で産み出す子供達をそっくり生贄に捧げているのならば、十分にこの主都を猛攻撃から防護しつつ飢えも渇きも無くする程の奇跡の代償になる。規模と効果が見合っている。
普通はこんな状況、男達、兵士達が黙っているはずはないのだが、男であれば何をしても逆らえぬと言われる使徒傾城の前では操られる人形同然。これでは反乱すら起きない。
しかし何故そこまで? 弱ったヤハルにエリクディスはその言葉をかけることは出来なかった。使徒傾城にさせられたことだ。人の理と神の理は異なるとはいえ惨い。侵略者の立場ではあるが。
エリクディスは増援の必要性があると思ったがしかし、使徒傾城相手ではガイセル、チャルカンは役に立たないどころか相手の手駒に成り得る。そもそもここまで誰かを引き入れる道も無い。シャハズならばとも、来ない援軍を想像してみるがそれでも呪われる危険がある。
飲食物不要、寒気と渇きは関係なく、男だが枯れ果てている、数多の魔法使いが不可能と知りつつ目指した不死者になってしまったエリクディスしかこの場で活動出来そうな者がこの世に存在しない。
肉体は死しても魂、精神は生きている。
『何とかする。期待はするな、しかし全霊を尽くす』
ヤハルは信頼に目を閉じた。
■■■
座敷牢より宮殿内部へとエリクディスは侵入。常に闇の精霊術にて、その闇の霧の影が不自然にならないよう隅の方へ、照明が無い方へ、立って歩かず這い蹲って進む。
どうしても警備兵と鉢合わせになるときは気の精霊術で空気を若干薄くし気を遠のかせて過労にしたり、失神させる。
最初は上手く行っていたのだが、後宮への通路の途中で引っかかった。過去に似た失敗があったような気もする。
鳴子が鳴ったのだ。エリクディスはアラクネの張る、不可視に近いほど細い糸の罠に引っかかったのだ。
鳴子の音に警備兵、糸の振動にアラクネ達が集まる。
飛んでくる矢玉は闇で的を絞らせず、その上で神器”護風の衣”を模倣した風の防御で身に当たる物を反らす。刀槍などは腐らせて脆くした上で骨の杖で打って圧し折る。
松明を持って触媒にした火の矢、水筒から触媒の水を散らして撃つ水散弾、触媒の石を投じて必中軌道に変化させつつ尖る石弾も対抗術で『散れ』と反らす。精霊術の初級者でも触媒元になる何がしかがある時、その威力は馬鹿に出来ないものとなる。中級者以上ならばなおのこと。
傾城の能力か、彼らは統率が取れ、味方を誤射することなく猛射を加えて来る。あちらも対抗術を使って魔法を妨害してくる。可能な限り殺生しまいと考えていたエリクディスの考えを否定させつつある。
生前はある程度得意としていた火の精霊術、死してエリクディスは苦手とした。火を恐れるようになった。何か己の属性が反転したとかそういうことではなく、単純に枯れた体が抵抗無く燃えるからだ。火傷程度で済むのが生ける瑞々しい者の防御力である。
燃料と化しているエリクディスはその上で、通路の壁に立てかけてあった松明を拾い、炎を己の顔に近づける。
『火に慄け』
エリクディスが触媒としたのは火そのものではなく、怖ろしい火という恐怖の心象。これを火の精霊に正しく伝え、燃やすだけなら実用的ではない踊り、曲がりくねって明滅を繰り返す、恐れる異形の舞う火炎を作り出し、アラクネも警備兵も退かせた。
操られた男達だが、完全に一挙一投足まで管理されておらず本能に従った。アラクネも同様。恐怖だけはなく正しく焼かれ、死ぬまでもない火傷を負った時点でやはり退く。
エリクディスは己が薪になる危険を冒し、恐怖の火炎の壁で道を作りつつ、宮殿に延焼しないよう、消火作業が間に合うように配慮しつつ後宮へと入った。
■■■
後宮へと侵入するに至り、ここまで来れば多少強引でも慎重さや精確さよりも拙速にことを運ぶべきとエリクディスは考えた。
屋内を闇に満たして進む。死者の闇の目を持たない女子供達、アラクネが驚いて声を上げている。
近寄る気配があればその方向へ希薄な空気の層を作って障壁とする。広い場所ならばともかく、狭い限定された空間でならば良く管理出来て襲撃を回避出来る。
闇と薄い空気で身を守りつつ、音で祭壇の場所、中枢区画と思われる場所へと、術に集中するためにゆっくり歩く。
屋内を闇に満たすのは護身だけではなく別の効果もある。精霊術の闇にも暗くならない、竈神の奇跡の灯りが効力を発揮し、扉の隙間から漏れている部屋を見つけることが出来るのだ。そして発見し、扉を開けた。
部屋の中には竈神に捧げる祭壇が築かれている。品々の配置は複雑、豪華である。一つ一つに意味があり、具体的に竈神にどうしてほしいかを告げていて、定期的に子供、赤子、胎児が捧げられるように生贄の台座にしては暖かな外観の揺り籠が置かれる。
その揺り籠に正対し、正座しているのは陪神たる使徒傾城、ヤハルに化けぬ姿は人か獣か、狐の相貌をした半獣半人。白無垢を着た狐女の姿は真に髄から枯れたるエリクディスの目でさえ佳い女と捉えてしまう。
「御機嫌よう」
『ご……ご機嫌麗しゅう』
挨拶が交わされた。焚いた線香の煙を見るだけの傾城からは敵意すら窺えず、アラクネは部屋の近くに寄って来ることもない。
敵対者を前にしているような気配がまるで無い傾城を前にエリクディスは気が抜かれそうになったが、目的を思い出す。
『祭壇、崩しますぞ』
「そう」
同意を得たという感じではないが、脅しをかけられたわけでもなく、エリクディスは儀式を打ち消すために祭壇を崩し始める。荒っぽいことはしない。広げられている物をまとめ、配置を変えて部屋の隅に置いて片付けた。ただ儀式ではなくするのだ。
片付けをするエリクディスに対して傾城は争いは下賤とする貴人のように特に手出しはせず、正座したまま眺めている。
几帳面に台座等は二つ上下に面を合わせ、竈神に語り掛ける道具類は箱に分類毎に整頓されて詰められた。空の揺り籠には布類が丸められて人が置けないように詰められた。部屋の中央に置かれた物はすべて隅へと追いやられた。また直ぐに儀式を再開出来るようにという片付けである。災いしたわけではないが性格が表れた。
元の儀式の道具配置で残るのは傾城が座る座布団一枚。何と声を掛けようとエリクディスが考えていると傾城はゆっくり立ち上がり、一歩二歩前へ。そして振り返り、座った跡の残る座布団を手に取ったエリクディスに相対する。この時初めて目線が合った。闇の視界でさえその目は心を奪われるようであった。死しても男という属性が残っているせいだろう。
儀式は崩された。アラクネの気配が消え、正気を取り戻した男達が混乱する声を上げ、女達は喜びか悲しみかこちらも声を上げ、泣いている。城の外からはアラクネの巣が消えたことが確認され、奇跡破れたりと兵士達の喚声が上がっている。大仕事の完了にそれぞれ感慨があった。
「死神の虜エリクディス。冬の魔女の首をここへ持ってきて御柱様に捧げなさい。オーガ族族長ヤハルの解呪と引き換えです」
そして試練が与えられた。
■■■
・竈神
家庭と孤児院、家を司る女神。
身寄りある者達を家庭で、無き弱き者達も孤児院にて排外的に守る。
怒りに触れれば餓えと渇きと寒さに苦しんで、死ぬことは許されない。
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