第5話後編「海の都市」
・セイレーン
美女の上半身と熱帯魚の下半身をもった姿で、肺呼吸と鰓呼吸機能を併せ持つのが特徴。
男はおらず、繁殖には人間の男が必要。元は望んで海神に祝福されて使いとなった人間の一族である。
陪神に及ばないが使徒としては上位。宮殿実務を多岐にこなす家事使用人である。
■■■
準備には時間を掛けた。
エリクディスは賢者とはほど遠い、腰みの一つの漁師姿になり、鉢巻をして船に乗り、帆を広げ、櫂を漕いで操船の練習に励んだ。顔以外日焼けしていなかった肌も若かりし頃のように黒くなった。商船に乗りつつ、仕事の無い時は漁師をしていた若者の時代があったのだ。
シャハズはヒュレメが見守る中で海中行動訓練。海で一度恐れを為して溺れたが懲りずに挑戦している。今度は考えあって弓を持ち、そして海中で視界を確保するために、精錬されていないマナ鉱石を入れた光の精霊を長時間扱う海中用ランプを腰に下げる。
ランプはエリクディスが特注で職人に作らせた。かなりの出費であるが、使い終わったら転売すればいいと算段している。そしてその指には海の加護の指輪。信心深くないシャハズには効き目が薄いが、信心深いエリクディスが彼女の無事を願って貸した物となれば話は別になる。奇跡とはそういうものだ。
二人は連携する。エリクディスが海上にて小船で待機し、海中に錘を付けた綱を垂らす。シャハズは疲れたり、不安になったら小船に戻って休憩するのだ。泳ぐ自信も失せて来たときはその綱を伝って昇れば良い。
これより探索する海洋宮は恐ろしく広い。アプサム師が古代の品を発掘しているということを、不明の指輪を捧げた時にエリクディスが地上の海神の神殿で確認したが、その該当区画の広さは尋常ではない。
シャハズは潜り、発掘現場があると思われる区画を探す。目で見て、音で聞く。疲れたら浮上し、探した場所をエリクディスに伝え、そして得意の地図作成で未探索場所を図上で消していく。
エリクディスもただ船上におらず、箱型水中眼鏡で海を覗いて位置を把握する。重点探索地点も指示する。
広く表層をなめるように一通り見て回るだけでも大変であった。これは海上、海中行動の慣らしも兼ね、簡単に見つかることを期待しての行動である。勿論、そんな簡単な試練ではないので簡単に見つからなかった。この海底一面に広がる海水と海流、海草や魚介類や付着生物に侵食されて緩やかに砂へと還りつつある古の旧南帝国の都は縦横に広く、海底より深くにまで至る。
都市は広い。かつての栄光を偲ばせる林立する塔や建物が崩れ、半ば姿を留めている。その上に沈没船が散らばり、海草や珊瑚が生えて森になっている。ただ見下ろすだけではなく、場所によっては横から見たり、森の中に分け入らなければならない。その上疲れたシャハズは小船へ戻る度にエリクディスから旧南帝国の建築様式や生活様式のうんちくを聞かなければならないのだ。苦行である。本人は探索の助けになると思って朗々と語るのだから手に負えない。
不幸中の幸いであるのは、この海域が祝福されて荒天にならないことだ。たまに雨は降るが通り雨程度、むしろ涼しさをもたらして快適の足しになる。
知神の迷宮ほどではないものの、探索は虱潰しになる。朝から潜り、水上と水中から探索して地図を作り、日が暮れる前に錨に繋いだ浮きを目印に残して戻って、エリクディスの馴染みの店で腹一杯食って寝る。天候は奇跡にて安定こそしているが海日和ではない時もあり、疲労が蓄積し過ぎていたら休日も取る。その繰り返し。
初めは順風が無ければ沖まで漕ぐだけで息が切れ、シャハズの魔法に流して貰わないと該当区画まで到達出来なかったエリクディスだが、今ではこれが海の男だ! という顔になって元気になってきている。故郷の水と風が合い、食べ物が不安定な上に体力を消耗する野宿生活とは無縁になったこともある。また力の加護の指輪が持ち主に応え始めたのも大きい。痩身でも肥満でも無かったが老いて皮膚が弛みがちだった老体の肉が張った。
シャハズの習熟は凄まじかった。肩を使う人の泳法にも習熟したが、精霊術を使った魚を超える速度での泳法も習得する。腕は体側につけ、足腰を尾のように曲げて突き進むのだ。水に対する抵抗が一番少ない姿勢が最速。
工夫のついた弓一つで鮫などの邪魔者を排除出来るようになった。矢羽を板にした特製の矢を精霊術にて細かい気泡で覆うことで、空気中程ではないが十分に威力を持って飛ばすことが出来たのだ。これにはヒュレメも目を見開いた。
海への恐怖も実力で押さえつけた森出身のエルフにはもう怖さなどなくなったらしく、一度の潜水時間が伸び続ける。下着姿で当初は活動していたが、鮫革の頑丈な潜水服を着るようになってからは海底の岩や珊瑚に貝類、棘皮生物、都市の瓦礫にそこから伸びる鉄筋が突き出す怪我しやすい場所の探索も楽になった。
■■■
海に沈む都市区画の地下部分の探索に移る。単純な地下室だけではなく、今度は海溝部の壁面に築かれた場所、そして海溝の底に崩れて落ちた都市の残骸も含まれる。
表層をなめる探索は終わった。こうなるとエリクディスは海上で綱を垂らして待つしかない。音の精霊術で遠隔会話をするにも、温かい水と冷たい水と空気の三層も越えなければならないので流石の天才でも不可能。そうして待っている間に試練の達成と弟子の後学のためにとうんちくを練り上げる。
老人のうんちく、耳にうるさいだけでは無かった。多少は役に立っている。
森のエルフであるシャハズなら気づく要素はあったが気づけなかったことの一つに、海草や付着生物の削れ具合である。魚介類が食べた跡と、海流などで流された跡と、人が穿り返した跡では違うという助言だ。
草の折れ、苔の削れ、土や泥の凹み、糞尿とその臭い、葉に残る血や毛などの残留物で獲物を追跡出来る森の狩人ならばそれで目標を追える。オアンネスのアプサム師は泳いで動いていただろうが、発掘を行うとなればどこかに手を掛け、足を掛け、海に腐る家具を退かし、何かを拾い上げているに違いない。魚の付ける跡、貝の付ける跡、海流が付ける跡、全て違う。
疲労と日照の兼ね合いでまた何度も陸に戻り、海へ行く。ヒュレメは常に海では傍にいたが只管見ているだけだった。用事の多い海神の使いがただ遊んでいるわけはない。
そして体力が充実して明らかにエリクディスが大喰らいの大酒飲みに変身し始めた頃、遂に手がかりが見つかった。該当区画の内、海溝に都市の一部が崩れて落ち、両岸に渡っていた大橋が崩れた姿を見せていた場所だ。
崖の際にあった、海溝に崩れて落ちていった巨大な部分が何となく想像が出来る建物の入り口、巨大な錆びた門の、人の手が触れるところに人が手で触って付着生物が削れた跡があったのだ。削れた跡にまた付着生物が生え始めていたので見逃すところであったが、目敏いエルフは違った。
実はエリクディスのうんちくも手伝って旧南帝国の建築様式などが頭に入っていたので朽ちても門と分かって取っ手部分がそれだと理解出来たのだが、疲労などで師匠のお陰だなどと思い至らず、特に尊敬の念は生まれてこない。
この門しか無い場所にアプサム師と思われる手が触れていたことで更に気づく。何も無いところで遊んでいる暇も無さそうなのに痕跡があるということは、何か有ったのだ。そして注意深く観察すると建物が崩落した断面が新しいと分かった。見えていなかったものが切っ掛けで見え始めた。ここまで要領を掴んだのならば天才シャハズ、痕跡を見逃さない。
海溝壁面の新しい傷を辿って深く潜るか、一端海面に上がってエリクディスに報告すべきか光の届かぬ暗い海溝の底を覗いて考えていたシャハズは後ずさる。
視界を塞ぐ動体、巻き起こる水流に身体が流される。
海中に自信のついたシャハズでもこれは恐怖に値した。ただし、空気を取り入れる術だけは統制し続ける。
私掠党の母船殻を背負っていない姿の巨大烏賊。陸の高台から遠巻きに眺めても恐ろしげだったが、海中で出会うとなれば正に伝説級の怪物。英雄譚にて海で遭遇する最強の敵の一角。
烏賊は海水を噴いて急上昇する。その先には黒い影、走る船。エリクディスではなく洋上を通過する別の船。この海域はあの大市場に繋がり、交通は激しい。
獲物の見定めも無く、躊躇せずに烏賊は船底に体当たり、海中にも重低音が響く。それで船の行き足を止めてから触腕を海面に伸ばして抱きつき締め上げて一挙に粉砕。
砕けた船から重しの砂利が降り、比重の重い荷も空気泡を出しながら沈み出す。貴重品の類か輝く物も混ざる。浮き易い割れた船材や荷は一端沈んでも海面に浮いて散らばり、簡単には沈まないが策具類に溺者は徐々に沈んでくる。
エリクディスの教えを思い出せば溺者は良識的に救助すべきであるが、破壊と殺人に躊躇しない烏賊に近づくことは馬鹿げている。自殺同然の人助けは名誉的であるが良識的とは言えない。
シャハズはヒュレメに目配せしてみるが、返答は「まあ、見てなさいって」と、ゆらりとその場で旋回するように舞っているだけである。
やはりセイレーン、怪物の類かと思い始めたが、溺者が人間とは思えないくらいに沈み始める。急に錘でも付けられたかと思う程で、ふと姿が消えて衣服だけになる。何事かと考える間も無く、それぞれの衣服の中から魚が一匹ずつ泳いで出て、慌てるように海の底へ隠れた。一部は海底で待ち伏せている魚に食べられる。
「海神様への貢物を奪った海賊ね。ちゃんと選べば呪われなかったのに」
烏賊は不届き者を狙って撃沈しに現れたのだ。そう思えば怪物ではなく神の使いである。ただやはり怪物でもあった。
『ジイの方に向かってない?』
「あらやだ」
使徒の起こした海難から逃れるために移動を始めたエリクディスの小船に向かって明らかに烏賊の怪物が進んでいるのだ。理由は怪物故分からないが、標的を厳格に絞るような知性があるか疑わしい。全てを奪って海へ沈める私掠党の一員に慈悲を期待することは間違っているのだ。
シャハズは機転を利かせる。いくら若さを取り戻しつつある海の爺さんとはいえ海の怪物から自力で逃れることは不可能。また魔法を使おうにも海中では怪物烏賊とは初遭遇で性質も良く分からず、明確な対処方法を編み出している時間は無い。だが黙って見ているわけにはいかない。
シャハズは海の加護の指輪を己の手から外し、矢に嵌めて『ジイの手元まで固まって』と氷の精霊に凍る期間も指定して固定し『船の側面に当てる』と気の精霊に気泡で作る抵抗薄い進路を定めさせてから『流して』と水の精霊に矢を推進させた。
瞬時に三精霊の力を合体させた魔法の矢は水中を、むしろ空気中より驚く程に速く飛んでエリクディスの船に当たる。そしてまだ頭の鈍っていない老人は海中から船体に突き立った矢を鍛え上げた手で折り、丁度氷が溶けて取れるようになった指輪を手にして嵌める。すると海難から守る加護によって、一番にその影響を受ける烏賊の使徒は追跡を諦めて身を翻した。
「野蛮よねぇ。だから私、私掠党って嫌いなのよ。話通じないし」
そして次に、烏賊が触腕を広げて嘴を広げて向かう先は信心が浅く、狩猟を妨害したエルフである。怪物は恨むだけの知性がある。
人に不都合な時だけ獣性や知性を発揮してくるあたりが下位の使徒たる所以であろう。
『うっそ』
セイレーンに支援を期待するところ大であるが、まずは自力救済の姿勢で臨む。
『追い払っても?』
「殺しても大丈夫」
ヒュレメが歯を見せて笑った。
上位の使徒のお墨付きを得たならば遠慮の必要は無い。シャハズは気と水の精霊の力を借りて矢を放ち、武器であり弱点であるその烏賊の嘴の中に突き立てる。巨体で圧倒的と勘違いしていた怪物が不意の反撃に暴れる。
暴れる巨大な触腕が海底都市の残骸を打ち、崩して泥を巻き上げて水中を濁す。
視界が悪くなる。嘴のような急所の類はかなり狙いづらい。目玉を狙うことも難しくなった。何より呼吸が泥で苦しい。シャハズは二の矢を構えるどころではない。
でたらめに振るっている触腕、それが飛ばす都市や岩盤の残骸に触れるだけでも死にそうであったので『氷の壁、縦に厚く』と海中に防壁を展開しつつ魚より早く泳いで難を逃れる。
奇跡を纏うヒュレメは泥の影響は余り受けずに動き、手近な珊瑚に手を触れ、奇跡にて鉾へと変じて手にする。半魚の全身で泳いで捻って全力に加速した投擲が烏賊の頭、腹に突き刺さる。致命傷ではない。神々同士で争うこともあれば使徒同士で争うことも稀ではないのだ。
『急所?』
海中が暴れる怪物に乱される。シャハズは奇跡で喋っているわけではないのでヒュレメに接近して精霊を通して喋る。
「眉間だけど、暴れてて厳しいわね。私そこまで上手くないし。荒事って苦手なのよね」
『当てる。水流が止まれば』
「止まればいいのね」
セイレーンは海神に仕える上位の使徒である。目を閉じて手を組み、己の主神にこの場の水流を収めて欲しいと祈って奇跡を起こす。
荒れ狂っていた水流が止まり、平時の海流の流れ程度に収まる。視界を塞ぐ泥も沈み、いくら烏賊が触腕で海底都市を砕いても、その石造りが倒壊して轟音こそ立てるものの乱れは一切無くなった。海のことは海の支配者に任せるべきであろう。
次は魔法の弓術の出番となる。『烏賊の眉間』と気の精霊に当てる場所を告げ、『最速、当たっても押し込む』と水の精霊に矢の飛び具合を告げた。
シャハズの二の矢、正確な狙いで放たれる。鏃が気泡を纏って最低限の軌道修正で烏賊の急所たる眉間へ突き立つに留まらず押し入り尽くして矢羽の板が折れて全没。即死である。
海中にて響かぬはずの拍手が鳴る。
「あらすっごい。本当に凄いわね」
神の奇跡であの烏賊を退けてくれれば良かったのだが、賞賛しつつ脱力を始めた烏賊の巨体を嗤うヒュレメを見るにその気は全く無い。
愛する男を狙った怪物に掛ける慈悲などあるわけが無かった。
シャハズは烏賊を討伐してから一度海面に戻ってエリクディスに状況を説明した。
「海神様は横暴な海賊にも祝福を与えるがしかし、その懐に手を伸ばしては呪われる。きっと知らずに神殿の荷に手を出したのだろう。その向こう見ずさがまた海神様の好みなのだが」
そううんちくを垂れながら、粉砕した船からこぼれ、浮いている荷、箱や樽荷をエリクディスは開封し始めた。
「海洋と深海、海水を司る海神よ。御柱様の元へこれらをお返しします」
そして海中に荷が引っ繰り返されて没し、神意に動く海流に浚われて消える。何れ海中に没するか、開封されずに海へ飲まれず漂流物として何者かの物になるはずだったが敢えてここでエリクディスは何を願うでもなく手間を取る。ご機嫌取りと言って良い。神の領域ではそれが明暗を分けることもある。
そして目印の浮きと錨を設置したら早々に二人は陸へ帰る。早期決着とはなったが命の取り合いをしたのだ。疲れている。
■■■
シャハズとエリクディスは死に直面した緊張が解けるまで休んでからまた探索に赴いた。
海溝の下は暗い深海である。色鮮やかな海草や珊瑚は消え失せ、岩の上に灰色の泥と砂が溜まっている。
地上では有り得ないような奇怪な生物が、浅い海より遥かに無機質な顔で泳ぎ、這い回っている。全く得体が知れない。
ここでの孤独は耐えられそうにない。海中用ランプの明かりで照らしても不安は拭えず、明かりに寄って来る生物もいて恐怖が募る。
深海はあの烏賊が浮き上がってきた通りに私掠党の住処にもなっている。
ランプの弱い明かりに照らされ、サハギンが深海の異形の魚を骨の銛で突いて捕り、その食いかすに奇妙な甲殻類や魚が群れる。烏賊が傍を通り過ぎ、その巨大な目玉と目が合う。
それに冷たい。深海は冷たく、シャハズの体力もそう長く持ちそうにない。深海の水圧に耐えるように精霊術で緩和しているがこの持続も疲労に繋がる。
ヒュレメは海の者なのでそんな苦労も無く、興味本位に寄ってくるサハギン共に電撃の魔法を軽く放って追い払っている。弓矢で下手に追い払うと群れで逆襲しに来るのでシャハズは手を出せない。
海溝の底には、壁面の傷の数相応に崩落した都市の瓦礫が積み重なっていて、食器類など腐食に強いものが泥に半ば埋まって散在している。海草や珊瑚だけではなく付着生物も少ない上に泥がかぶっているせいかここの建物の残骸、品々は保存状態が良いように見える。古代の発掘品の中でも状態の良い物を探すのならば腐食し辛い深海だろう。
シャハズに長くここに留まっていられる能力は体力的にも精神的にも無い。二つは連動し、均衡が崩れれば精霊術にも影響して更に疲労し、疲労が術を鈍らせ死に至る。ヒュレメの救助はあるかもしれないが完全に頼ってはいけない。これは試練であり、使徒に人と同じような情を期待するものではない。エリクディスはシャハズへ陸に上がる度にヒュレメに期待するのは危険だと言い聞かせていた。
「ヒャ!?」
シャハズの周辺でゆっくりと泳いで回っていたはずのヒュレメが突然乙女のような悲鳴をあげた。シャハズは周囲をランプで照らして見て回るが彼女とは今距離が遠いらしく、暗闇の向こう側。
ここでヒュレメに何かあればシャハズがまずいし、その何かがどれだけ危険か想像も出来ない。それに一筋縄ではいかないが仲間であり、心配もする。
『どうしたの?』
声の方向へ行くとセイレーンが似合わずに海底に手を突いていた。海の者でも深海は慣れぬのかもしれない。
「えー、別に、何でもないわ。ボーとしてたら何か見えた気がしちゃっただけよ」
『ふーん』
短時間で成果を上げる工夫は世に幾つもあり、誰もがそれを求める。それが複雑怪奇な手法であるとは限らない。
シャハズは重要なことを今の悲鳴で思い出した。人探しをする上では基本中の基本である。むしろこんな簡単なことを今まで忘れていたのが恥ずかしいぐらいだ。
『アプサムさんいる!?』
大声である。水の精霊術によって増幅するという技術こそ使っているが、発想自体は赤子ですら生まれた時に習得している。
そして次は逆に水中の音を拾うように術を使ってシャハズは耳を澄ませる。
声は? しない。
声ではないが反応する音は? サハギンや烏賊や深海生物の一部が蠢いているようだが。
反応する音を聞き分ける。海の生物が出す音は最近聞いて覚えているが、深海生物だとやはり異なる。しかしオアンネスのアプサム師は深海生物ではない。知性の高いサハギンと言えるようなオアンネスである。知性ある反応があるはず。
唸るような音。寝起きの声に近いかもしれない。その音に神経を集中させる。
「おーい! ここだ!」
はっきりした返事。声の方角へ進めば、崩落した建物の塊。その塊には深海には生えない海藻がついている。つまり、最近浅いところから落ちて来たということだ。ここの海溝壁面には盛大に削れた、新しい跡がある。
『アプサムさん?』
「おお、深海に救助が来るとは海神の計らいか」
『どこ?』
「建物の中の小部屋だ。落下した時に扉が歪んで開かない。窓は少し外を向いてるようだが、これが無かったら声も蟹も来なかったな!」
『待って』
シャハズはアプサム師の声がする建物の周囲を調べ、その崩れた壁の穴や窓などから救出の手がかりを探る。結果、地道に瓦礫を撤去しても駄目なことが分かった。アプサム師のいる小部屋、小部屋のように巨大な金属製の頑丈な収納箱、中身は知れぬが宝箱なのだ。窓と言ったのは変形した蓋と箱の隙間である。どうやらアプサム師、自らの状況を正確に把握していないらしい。証言から推測するに建物が海溝に落下したはずみで宝箱に飲み込まれてしまった様子。試しに蓋と箱の僅かな隙間に手を入れて開いてみようとするが微動もしない。重たい箱側に瓦礫が乗って建物の残骸が引っかかる形で上、軽い蓋側が下になって変形し、泥を被って埋まっているのだ。
その隙間からオアンネスの、サハギンとはこれだけでは見分けのつかない手が伸びる。私掠党の蛮行が脳裏に巡るが、シャハズは激励に握手。まだ力は残っている。
『ヒュレメ?』
「エリクディスなら何か思いつくんじゃなぁい?」
海神の使いの助けはやはり最小限。何が目的で少し手伝ってくれるのかは神のみぞ知る。
『一回上に戻って対策考えてくる』
「そうか、頼むよ。ああ、君、名前は?」
『シャハズ』
「ではシャハズ、頼んだ。一人ではどうにもならん。生の蟹も食べ飽きた」
『うん』
「ああ、ヒュレメ殿。助けてはくれないのかやはり?」
「だってねぇ」
余程敵対的でなければこの非常時に救助を試みるのが人の情であるが。使徒の情ではない。
シャハズは暗い深海から脱出し、明るい海面に出る。体力の消耗で体に震えがくる。直ぐに船上へ、エリクディスに引かれて上がる。
「どうだ?」
「見つけたけど、大きい宝箱の中に閉じ込められて出られない」
「ヒュレメはやはり傍観か」
「うん」
「アプサム師はサハギンになっていないだけで呪われている。あの城のダンピール達のようなものだ。あまり彼女のことは批難しないでやってくれ」
「うーん」
「魔法は試したか」
「疲れた、無理」
「直ぐに救助する必要は? 怪我や病気は?」
「元気みたい。蟹とか言ってたから、下でも食べてる」
「うむ……良し、良い考えがある。専門家に任せるのが最良だ」
「うん?」
■■■
エリクディスの取った策は単純明快であった。
沈没船引き揚げ業者に対し、シャハズが調べたアプサム師の状況を出来る限り正確に伝えた上で見積もりを出して貰い、授業が受けられず困っている学生達やその親である超がいくつもつく資産家達から資金を集めたのだ。顔が広く、要領を掴んでいるエリクディスならではの物量作戦であり、迅速で文句のつけようがない。この状況を利用する話術は、環境を利用する精霊術の天才であろうとも若く経験が少ないシャハズには真似出来ぬ。絶対的な経験の差がある。尊敬の念が生まれる。
業者には優れた魔法使いが何人も高給取りで在籍していて、仕事がある時だけ雇われる非正規の一流もいる。莫大な費用が掛かるが、そこは子供の教育費に金を惜しまない親達が、貧乏人の感覚が狂う程に出す。
作業はまず、魔法使い達が潜水のための魔法を複数駆使して深海に至り、宝箱周辺の瓦礫を撤去する。筋力と魔法、洋上の引き揚げ船が垂らす太い綱を結びつけての機械動力を用いる。
宝箱に穴を空けて新しい出口を作る方法がまず試されるが通用しない。箱はオリハルコンの強度を誇って破壊不能。旧南帝国の不壊を謳われた特産金属がここで邪魔をする。
宝箱も瓦礫撤去の方法で動かせるか検討されたが、中のアプサム師を傷つける可能性があったので除外された。変形した蓋が曲者で、下側を支えるようにして綱で縛って引き揚げると中も潰してしまいかねなかった。蓋の端が一部内側へと曲がっているのだ。また蓋に掛からないように縛って吊り上げることは箱の形状から困難であった。
蓋が内部に曲がって入らないよう、オリハルコン板を内からアプサム師の手も使い重ねて最後に杭を噛ませて固定して支柱にする。それから縛り上げて、機械動力にて引き揚げが実行されたが重過ぎて引き揚げ船が転覆しかけた。ここで技術と資金力の高い旧南帝国の用心深い宝箱が祟る。盗難防止に金庫へりを入れるように、この宝箱にも入っていたのだ。おそらく、箱の底には分厚い最重量金属アダマンタイトの砂か板がある。
これで海底を掘って下から蓋を開けることも出来ないと判明する。宝箱の大重量によって海底が崩れて潰れるか生き埋めになりかねないと判断された。
次に宝箱の重量を相対的に軽くする方法が取られる。水を入れた深海に耐える頑丈な樽を沈めて宝箱に綱で連結する。それから魔法で樽から水を抜いて代わりに空気を入れて浮力で相対的に軽くする。
そのように工夫している間にも人と金が投入され続ける。引き揚げ船の他に幾つも工作船が呼ばれ、海上には転覆などしない浮き港が建設される。海へ海へと都市を広げる技術集団に掛かれば洋上に基地を建設することなど造作も無い。海に関して海神のお膝元の者達より長けている集団など世に存在しない。
大型の起重機が連結され、切れるより先に機械が壊れるような鋼索により、宝箱が遂に重心が安定するように手が少しずつ加えられながら吊り上げられる。鋼鉄を編んだ綱が悲鳴を上げ続ける大重量だがその悲鳴も長く続かない。安い樽でも十分な深さになればそれが取り付けられて次々と浮力が足される。海面が樽だらけになる。
作業がし易い環境が整えられた。深海作業は魔法使い達に相当な疲労を強いる。いきなり深海でそこそこ動けたシャハズがおかしい。
環境が整ったら宝箱の角度を変える。片側の綱を外し、もう片側で吊るして逆さの状態から縦向きになる。そして綱の縛り方が変えられ、蓋に綱が這わないようにされる。
綱から開放された蓋の隙間に打たれたオリハルコンの杭に魔法使い達が力を込めるが、蓋は変形しているせいか動かない。これは予測されていた。
更に工夫がされる。宝箱を今度は蓋が上を向くように吊るした片側の反対を吊るす。また鋼索が唸った。
蓋の隙間に更に杭が幾つも打たれる。ある程度隙間が開いて来たのに開かないところから蝶番も変形しているようだが、これは盗難を防止する宝箱。その開閉機具の部位は内に隠れていて、海中用ランプを中に入れてアプサム師に確認して貰っても機具は収納の内からも見えない。執拗に頑丈である。
今度はその大重量を利用する。杭で作った隙間へ、杭に替わって無数の鉤縄が引っ掛けられて吊るされる。そして宝箱と浮きの樽との連結が外される。
専門家達が築いた浮き港は宝箱の大重量に少しは揺れたが持ち応えた。そしてそこから繋がる鉤縄に釣られた蓋が、恐ろしく頑丈な蝶番が引き千切れると共に開いた。数々の、長年宝箱の中に封じられていた品々と幾つかの蟹の殻と共に一人、魚人が出てくる。
理知に溢れた威厳のある面構えのサハギンとは比べようもないオアンネスの救助が成功した。
海溝に落ちた、蓋の取れた宝箱が深海から重低音を響かせる。
大成功である。
海面から顔を出したアプサム師、この界隈では名士中の名士で都市中心部で演説を振るっても恥じるところの無い人物だが、大仕事を終えた業者、海の男達の汗が混じる大歓声に対し、そして己の不注意を思い返せば頭が下がる。
そしてそんな場を盛り下げることが出来る者は限られている。
「アプサム! 何時になったら展示品を持ってくるのだ!? 間も無く御柱様が進捗を見に来られるのだぞ!」
オアンネスとサハギンを魚人とするなら、蛸人と言うべき者が海中から現れた。その怒声一つで皆が瞬時に冷める。どんなに度胸がある海の男でも無知でなければ震え上がる海神の陪神、最上位の使徒学芸員である。海洋宮博物館の充実に専念している。
顔の真っ赤な使徒の声は焦っており、神経質に聞こえる。
「申し訳ありません。先ほどまで事故で身動きが取れませんでした」
折角救い出されたオアンネスの名士が完全に小さくなってしまった。
「事故などに巻き込まれていて良い立場か!」
シャハズが今まで見てきた使徒と違って騒がしくて威厳が足りない。そう口にする程経験不足でもないが、折角の大仕事の後にこのように騒がれると神経に障る。
「申し訳ありません」
「ええい、何て奴だ。期限は今日までだぞ!」
そう言って学芸員は泳いで去った。墨でも吐いて行くんじゃないかと幻視が出来る程であった。
だがかの使徒が悪いのではなく、そのようにさせている神が横暴と見るのが正しい視点である。ただそれを海で指摘すると恐ろしいことになるだろう。
折角救出したアプサム師が今度は海神の怒りに触れようとしていると分かって皆がざわめく。最後のオアンネスがサハギンになってしまうかもしれないのだ。苦労が水の泡になってしまうかもしれない。
浮き港の代表となっていたエリクディスに、シャハズが「ジイ、宝箱から一杯落ちた」と言う。必要な情報だ。
ヒュレメがわざわざ演台になりそうな木箱の上へ這って跳ねて座る。必要な権威だ。
エリクディスは咳払いをしてから、雷の杖を手にその権威が伴う演台に登り、精霊術を使って煙吐く雷声を放つ。ここ最近充実してきた体力と気力が精霊の声に勝ち、一応足を抱えてくれたヒュレメのふよふよした気遣いを無用にした。
「皆の衆! アプサム師の救助はまだこれからだ。あの宝箱から落ちた宝を拾うぞ!」
一つ高いところに立つ、爆音を鳴らして大きく低い声を放つ色の黒くて精気溢れる老人が明確な指針を告げる。その傍らにはその足に縋り付き、やるぞと拳を掲げるセイレーン。
『おお!』
混乱は一撃で粉砕された。
「学芸員様が御柱様に言い訳が出来るようにしてやろうじゃないか!」
『おお!』
この海の男達にこのような優れた技術を伝えたのは錬金術師の大家アプサムである。旧帝国の技術を伝える者の価値は計り知れず、その恩恵に預かった者の数も同様。そして老いて盛んな頭目に扇動されてはもう一勝負するしかない。
■■■
・海神
海洋と深海、海水を司る女神。
海洋にて天候や海流を調節し、深海にてあらゆる物を貯めて腐らす。
怒りに触れれば無力な海洋生物に変化し、その食物連鎖に組み込まれる。
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