第5話前編「海の都市」
・錬金術
奇跡、精霊術に並ぶ魔法の一つ。
固体、液体、気体と問わず、あらゆる物質を熟知、作成、利用する学問。
効果的な利用法の確立も術の範疇であり、研究と実践の両輪は切り離せない。
■■■
エリクディスとシャハズは目的地に船で到着した。少し遠回りになったがヴァシライエの伝で別の港からやってきた。
この地は海洋宮北端部の地上入り口があり、そこを中心に地上都市部が海面に向かって拡張している。高潮など知らないという設計で、海神の直轄加護を前提に繁栄を謳歌している。
あの嵐の襲撃の騒がしさとはうってかわり、二人を乗せた航路は順風にして穏やかであった。入港時には船長が多少潮と風を読み間違えても奇跡に後押しがあって優しく岸壁への接岸をしてくれる程である。海神の加護有り、である。
強引に奪うも優しく招くも気ままに自在。まこと海神は神の如く。
海洋宮の地上都市部はエリクディスの故郷でもある。昔のことを良く覚えている性質は生かされ、世界最大級の無限に広がるような大市場に相応しい人混み、車列、船列に惑わされることはなかった。
あの根こそぎにされた都市の市場ですら必需品から珍品まで山とあったが、ここでは大津波といった様相。道沿い橋沿い水路沿いに商店、商船、店舗すら無いような商人までもが上下左右に密集して好きずきに看板を出し、呼び込みの声を上げ、売って買っては人と物と家畜に車両、船舶が動いて商神硬貨や手形の紙切れが出し入れされる。この騒ぎを支える需要と供給が如何程のものかは、貪欲なる海神が望んで祝福している光景と思えばこの世の極限に達していると理解出来る。金額だけで言えば商神の本拠の市場が勝るが、物の数と重さとなればこちらが勝る。
シャハズの故郷の森に嵐が到来すると同時に全生物が一斉に繁殖期を迎えるようなことがあったとしてもここまで騒がしくは成り得ない。そこに火災と雷雨が同時並行しても負ける。
余りにも熱と臭いと音と気流が混沌とし過ぎている。シャハズは工夫を凝らしてはみたが遂に魚市場に差し掛かって生臭さに吐き気を催し、どうだこの活気さは! と自慢げに喋りそうになったエリクディスに「糞ジジイ!」と言って昼間は人が比較的少ない住宅地方向、裏路地側へ走って逃げた。
遠目からもこの反吐が出るほどの活気さは分かっていたので「遠回り」とシャハズは言ったのだが、故郷自慢をしたがる年寄りは敢えて渦中に飛び込む道を選んだのだ。不案内な田舎エルフはその愚かな先導者に従うしかなかったのだが、我慢の限界である。
エリクディスはその様子を見ていた商人、客から笑われながらも何故か商品説明をされながら「いや結構」と断りつつ、隙有りと見て寄って来た気配が良く分かる未熟なスリ少年を睨んで杖で道路を突いて威嚇しつつ、勝手にその杖の査定に入り始めた商人を手で払いながら反省した。
エリクディスは裏路地へ行き、不純なく清涼だがしかし海水を出す噴水広場の潮臭い憩いの場で休むか休むまいか悩んでいるシャハズへ謝罪の声色を使って言う。
「別の道で行こう。いや、まずは一休み出来る場所だな」
シャハズは世話になっている恩と騒ぎの渦中へ連れて行かれた恨みを天秤にかけて、とりあえずは無言を貫いて師匠の後に続いた。
■■■
「ただいま」
「あらお帰り」
「何だ、居たのか」
「居たけど、何よ」
通り沿いの表二階の玄関の鍵が潮風で錆び付いて動かず、小さな船着場がある裏一階の玄関に回ると鍵が開いていた。
エリクディスの家は中々に立派である。主人が旅する度に留守にしているので荒れたり空き巣が入ったりしかねないが、定期的に見て回る者がいるのだ。
その者は美女の上半身に熱帯魚の下半身を持つセイレーン族である。優雅に石の寝台に寝そべる姿は美しく艶やか。魚人の類でも野卑なサハギンとは見て格の違いが分かる。
「表、開かないぞ」
「だって使わないもの」
一階の部屋は他所の都市ではあまり見られない構造である。部屋の中央が海と直結する水槽になっているのだ。裏の扉は人の出入りする普通の扉と、その真下には下げて開く格子扉が海中に没している。部屋そして家具類は濡れても良いように石か耐腐食性がある木造りで、小物を置くような机や箱類もセイレーンが陸で這う高さに合わせてある。そして二階への道は階段ではなく長くなだらかに滑り止めが彫ってあり、湿気や海の虫が入らないよう扉は水密に頑丈に作られている。
「あーそう、紹介しよう。森のエルフ、弟子のシャハズだ。休んだらアプサム師に入門させに行く」
セイレーンが微笑んで水掻きのある手を小さくシャハズへ振る。
「御機嫌よう。変な爺のお節介、大変ねぇ」
「うん」
「うんじゃなかろうが」
「私はヒュメレ。この爺のお友達よ」
「うん。おっぱい出てるよ」
セイレーンは人間のように衣服を必要としない。
「その爺の視線を集めるためよ」
「ジイ、魚好き」
「こらシャハズ!」
セイレーンの一族は海神の使徒。渡し守や大辞典、義賊のような陪神の如きに高貴でこそないが、魚呼ばわりは無礼である。サハギンとは違う。
「じゃあ少女好き? あ……」
シャハズは変なのから一歩距離をとる。
「違うわい! 彼女はわしより年上だ」
「セイレーンは長生きなの。エリクディスは年上好きなのよ」
「ふーん」
「セイレーンには男がいないのよ。大体、女の子に相手されないような奴が海に来るのよね。だからそこの爺も若い時にやってきたのかしら」
「ジイ、しょうがないね」
「うるさい」
年上の人間はおよそ望み薄になっているエリクディスが二階への扉を開けようと試みるが、開かない。
「ええい、大工呼ぶか。その間に……」
家での休憩も諦めたエリクディスにヒュメレが一言、遮る。
「しばらく留守よ」
「アプサム師が?」
「そ。海神様に招かれてずっと帰ってない。生徒達も困って陸の神殿のところに日通いで帰りを尋ねてるらしいわねぇ」
正に他人事という風にヒュメレは仰向けになって、己の爪など眺めながら語尾などわざとらしく延ばして言う。
「何故知っている?」
「海の中に探しに行くしかないんじゃない?」
「何てことだ……」
老人はしょぼくれ加減を増して斜面に座り込む。
シャハズはそうではなかった。
「ヒュメレの首のは鰓?」
「そ。これで水中でも息出来るの」
「水中だけ?」
「陸じゃ使えないかなぁ。欲しい? お前もセイレーンにしてやろうか!」
「要らない」
海神の使いが言うと不可避の呪いに思えて寒気がする冗談にそう言ったシャハズは海水に顔だけ突っ込んで、息を吐き出して泡を立てる。
ヒュメレは何この子? と首を捻るが、エリクディスは分かった。
シャハズ、深く息をするように胸を膨らませ、萎ませて動かない。
しばし時間が経つ。
「出来た」
シャハズは海水から顔を上げて言った。
「あら、何が?」
「息」
「うっそ」
「うむ」
エリクディスが得意げになって髭を撫でる。
天才シャハズは気の精霊を使って水中で呼吸する方法を今編み出した。あの臭い市場を進んでいた時から新鮮な空気を吸えないか色々試していたのだが、臭い空気からそうではない空気の分離だとか、もっと上空からの取り寄せは混ざり合いが防げず失敗続きだった。だが水中ならいっそ完全に性質が違うので成功したのだ。凡人には容易に出来ぬ。
「でも、海中の探索なんて途方も無いわよ。ずっと潜れるだけじゃ、ね?」
「ジイ」
実行するのが若く才ある弟子なら、考えるのが老いて経験がある師匠であろう。
エリクディスは考える。まず状況がおかしい。
セイレーンとは海神の使いである。ヒュメレとの親交は深いが無償の愛などで助け合う間柄ではない。つまりこれは遠回しであるが神意に基づく。たまに家へはやって来ていることは知っているが、今日偶然帰宅したらアプサム師の動向を知っている上で鉢合わせなど出来過ぎである。待ち伏せと考えるのが自然。であるから神の使いたるセイレーンが、これはアプサム師へ関われと強制しに来ていることは間違いない。直接言及しないのは理由があるか、からかっているだけかは長い付き合いでも判別出来なかったが、逃げることが出来ない試練と理解した。
神が与えてくる試練は人の子には理解しがたい。気紛れに与えられ、困難か容易かも気紛れに、達成した報酬が望ましいものかも分からない。ただ、試練を捨てることが不興を買うことに直結するのは間違いないのだ。
エリクディスはやると決めた。まずは何とかしてアプサム師と会うことだろう。会えばきっと、何か面倒事が待ち受けているはず。
「では、アプサム師の居所は具体的に分かるか?」
「お願いをするってことは?」
「対価か……」
エリクディスはもう一つ理解をした。長い旅から故郷に、海神のお膝元に帰って来たのだから土産物を寄越せと言っているのだ。都市一つ消滅させるような騒動に巻き込んでおいて、である。代わりの航路が安定していたのもその心算だったからだろう。底無しの海は何につけても捧げる物を求める。
海辺の街に生まれ、セイレーンを愛した男は既に逃れようもなく呪われているのだ。
■■■
エリクディスが対価に悩み出しながらも大工を呼び、家の扉の修理工事が始まった。
シャハズは暇にはならなかった。おそらく海中に潜ってアプサムというオアンネス、頭の良いサハギンみたいな奴に会いに行くことになると分かったのだ。
気の精霊と水の精霊を通じた水中呼吸の精霊術をシャハズはまず、安全なエリクディス宅の水槽で確立。長時間出来るか、動きながらでも出来るかを試した。
ヒュメレはシャハズの特訓を海中から眺めていた。その天才的な精霊術は素晴らしく、泳ぎは、素質はありそうだったが所詮は陸の生物の範疇だった。
エリクディスがわざわざ多大な労を買ってまでこのエルフの娘に魔法を、己の才覚を超えたところまで仕込もうというのは理解出来た。飲み込みが早いどころではない。ヒュメレがシャハズにちょっとついて来なさいと、水槽の中でセイレーンの半魚の泳法で誘ってみたら、ただ泳ぐだけではなく精霊術を交えて追走してきたのだ。しかも最初は視点が水中故にぼやけていたようだが、今では完全に、これも術によって焦点が合っていて、見る目が確かに水中の物を捉えている。
さてそれならばとヒュレメが試す。
「お話が出来るかな?」
シャハズが首を捻って、口を開けて喋る。水に響かず、もごご、などと鳴るのが精々。
流石に今日の内にどうこうなるものではないかとヒュレメが思った途端に天才が魅せる。
『聞こえる? あれ、これ聞こえる? 喋れてると思うけど』
「うっそ」
水の振動を、水の精霊術を使って真っ直ぐ、周囲の水の影響から守って伝えて来たのだ。セイレーンは海神の奇跡で喋っているのだが系統が異なる。
これは逸材。海神に捧げたら喜ぶかとヒュレメは考えたが……。
「じゃあ次は外ね」
『うん』
ヒュレメが水槽の格子門を開け、シャハズが陸の生物にも拘わらず一度も水面に顔を出さないでついてくる。
海の恐怖というのは水槽では分からない。
ヒュレメが潜る。都市部の海底は大して深くはないが、地上とは比べようもなく暗い。
陸の市場に並んだ魚は滑稽な姿で転がっていたが、水中では動き回っている。小さい魚は可愛らしい程度だが、大きい魚は陸で見るより遥かに恐ろしい。何をするわけでもなく、ただ傍を通り過ぎるだけでも不気味。
森の湖や川で泳ぐのが精々だったシャハズにこの暗がりの、動き回る化け物の姿は恐怖に値した。蛇のような凶暴に見える魚も底にいる。あれらは襲って来ないだろうか?
ヒュレメが手招きする。都市部から離れ、岩盤、海草、砂、珊瑚の、天のような海面から差す光が細る海底へ。穏やかだが海流が身体を流す。
陸上でも恐ろしげな鮫が、この暗い水中で襲ってくるなどと考えるだけでも逃げたくなる程であった。視界の端にだが、思考があるか分からぬ魚の無表情で泳いでいる。
シャハズの動悸が激しくなってくる。いくら精霊術で呼吸しているとはいえ、これが途切れたら? もう浮き上がれないとしたら?
術が乱れるより前に、術で作り出す空気が、動揺しているシャハズが欲する量を下回った。
ヒュレメが笑っている。人の上半身に魚の鰭が揺れる下半身。どう見ても、水中で機敏に動き回る姿は優雅な舞に似ていても怪物のそれである。セイレーンは海で歌い、船乗りを海底へ引きずり込むという。何より神の使い、人のことなどどう考えているか分かったものではないおかしな存在の眷属なのだ。
シャハズは術を使っていることを忘れ、思わず海中で息を大きく吸った。
■■■
久しぶりの我が家の埃を払い、巣を張ったまま干からびた蜘蛛を外へ捨てながらエリクディスは考えている。
海神が納得するような品物の内、どれを手放すかである。
まず価値はあれど選択肢から除外すべきは骨の杖である。このような大変に奇跡の力が強い品を捧げれば死神の不興を買う。機嫌が悪い時であれば呪われ、骨の奴隷にされてもおかしくはない。そしてこれの持ち主はシャハズである。渡し守から受け取ったのは彼女だ。己の持ち物ではなかった。
雷の杖。これは価値があるようで、知神かかろうじて匠神のみが価値を認めてくれる物だ。そしてこれは運用方法に価値があるのであって、物としてはあまり大したものではない。
雷の杖の運用方法を捧げ、知神に対価としてアプサム師の位置を教えてもらうということは可能であろう。だが海神の本拠海洋宮に関わるから避けるべきだ。その辺の関連施設ならともかく、本拠である。アプサム師は海神の命で招かれているので尚更だ。夜神のように慈悲深くもないのだから確実に呪われるだろう。駄目だった。
あとあるとすれば四つの魔法の指輪である。いずれも価値があり、手放すには惜しい。
一つ目は身代わりの加護がある指輪。どのように発現するかはその加護を授けてくれた竈神の匙加減一つである。神の奇跡の加護がある代物を捧げるのは呪いがやはり怖い。骨の杖程の逸品ではないので手続きを、許可を貰えば良いが。
二つ目は力の加護がある指輪。エリクディスのような老体だと効果は微量だが、戦神の力で年老いた身体でも長旅を徒歩で出来るようにしてくれるのだ。これが無くなれば旅暮らしはもう出来ない。まことに捧げ難い。
三つ目は海の加護がある指輪。ヒュレメと結ばれた記念であると同時に海難などを避けてくれる加護がある。海神相手なので呪われないであろうが、海難は避けなくて良いと見做されて敢えて海に出れば必ず暴風雨に遭うというような呪いを受けるかもしれない。
老賢者エリクディス、生涯何度も危機に遭い、時には仲間の犠牲があってそれを潜り抜けて来た。肝はかなり据わっていると言えよう。だが、今回のこれは血の気が引いた。
四つ目の指輪、全く身に覚えが無い。
ヒュレメはシャハズと出かけたようなので……神殿で海神に尋ねるのが無難だ。
■■■
・オアンネス
旧南帝国人の絶滅寸前の末裔。高度な知性と技術力を持ち、人型の魚のような姿が特徴。
海神に呪われた者達はサハギンと呼ばれ、知性を奪われて奴隷となった成れの果てである。
そのサハギンは使徒としては下位。労役、兵役に磨り潰される使役奴隷である。
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