第4話前編「祈願の一枚」
・商神硬貨
低価値順に銅、銀、金、ミスリル、アダマンタイト、オリハルコン、マナ、エーテルがある。
商神硬貨は商神に保護され磨耗しない。そして故意の損壊は勿論、地金への流用等は呪いの対象。
しかしマナ貨は精霊術の燃料、エーテル貨は神に奇跡を願う対価として使えて珍重される。
■■■
早朝、水平線より立ち上がる陽光を門の如き湾口を通して正面から受ける港湾都市は断崖沿いにある。港には林のように帆柱が立ち並ぶ。
エリクディス、シャハズはやって来た。乗る馬車はヴァシライエの商会のもの。訪れた理由は一つ、船出である。遂に高名なる錬金術師の大家へ支払えるだけの学費が貯まったのだ。
道中、神経質なエリクディスは何度も財産を数えた。数え間違いが無いか、贋金が混じっていないか、果たして記憶にある学費に間違いはないかと延々と唸った。禿げが禿げ上がるかと思われた。
唸ったり金属臭い硬貨を頻繁に掻き鳴らす老人に呆れたシャハズは道中、屋根付きで拵えが良いヴァシライエの馬車の屋上にいた。中へは誘われたが面倒そうなので断った。下にいた者も癖の強い年寄りであるが、振る舞いが優雅であるので小うるさくは無かった。
この港湾都市は良港として知られる。特別に祝福されたわけではないが海神の加護有りと云われるほどに湾内の海面は穏やかで、周囲を囲む断崖が波立たせる風を遮る。
海上交通の便が良いとなれば発達するのは商業であり、この都市には商神神殿がある。この神殿にヴァシライエは用向きだ。エリクディスも、必須ではないが用がある。シャハズは社会勉強だ。
この都市は道が混雑している。貧民から労働者、商人に富民にその使いまで様々。各地から取り寄せられた舶来品市場が露天に、壁に、屋根付き通りを埋め尽くして迷路と化している。
彩り様々な品の列は懐が寒くても目移りするのに十分。資金潤沢な奥方と使いの車列など、これより神々に大層な願い事でもしに行くか戦争の準備でもしているのかと思える程に山盛りとなっている。
三人と商会一行が商神神殿に到着する。シャハズは混雑による停車かと思ったが、しっかりと目的地であった。
神殿では神官の手と、商神の力による商神硬貨の両替が行われている。
山ほどの銅貨を使いやすい銀貨に両替している者、高額過ぎて使い辛いミスリル貨を袋一杯の金貨に替える者。そして車列より、力自慢のダンピール男が二人掛かりで運ぶ金銀ミスリル貨入りの大箱その数、百に迫り、神官達が通常業務を一時停止して大仰な祈祷と儀式を行い、引き換えに両替されたたった一枚の硬貨を手にするヴァシライエ。
商神神殿に用向きな者は多様だが、この一大の見世物には視線が集まる。
金に汚いわけではないが価値を知るエリクディスは、これより見られると分かっていてもその透明がかって薄くオパールのように虹に発光して見える恐ろしいまでに美しい硬貨に目を奪われる。
貨幣経済には未だに馴染んでいないシャハズは、そんな物よりは神殿前に揃って首輪付きの奴隷市場の方が面白い。舶来なのは物だけじゃなくて人もなのだ。人間もエルフもオークもいれば、白く毛深い大男、下半身蛇の女、それから子供の背丈だけど歳を食ったような未知の種族の者達が居並んでいたのだ。
注目は受けるが見せびらかす趣味も無いヴァシライエは早々に懐へしまう。
「神にエーテル貨を捧げて願えば余程の無茶でなければ叶う。死神ならば転生前なら死者の一○名、二○名の復活くらい二つ返事で叶えてくれる。戦神ならば一つ会戦の勝利どころか敵本拠地に攻め上げた後の占領統治まで面倒を見てくれる。危険性といえば、それほどまでに神ですら欲する品だからあらゆる者から狙われる。所持していたという噂だけで殺されることも、時には神の使徒にすら狙われる。そして願いを叶えて貰ったとしても思った通りに叶えて貰えるかは分からない。神の力加減もあるが、一番は願う者の理想と言葉との差違だ。契約文書に強い弁護士や神官を複数雇って請願文言を、時間を掛けて作らないと危険過ぎるくらいだ」
「ふーん」
老人の人生経験が滲み出す知識も鼻を鳴らして聞くのがシャハズ。やはり奴隷達の姿の方が気になっている。出来るだけ体の状態を買い手に見せるため彼等は半裸で、胸が慎ましいエルフが気になっているのは下半身が蛇の女の胸部である。見上げる位置の双丘を思わず下から押し上げようとして売り子の若い神官に「手を触れないで下さい!」と怒られたばかりだ。
「首輪、何? 鎖も何もついてないけど」
「商神の加護の顕現だ。労働条件に合致する範囲で何でも言うことを聞かせられる。逆を言えば合致しなければ出来ない。下手に個人間取引で奴隷になるより安全だからと自らなる者もいる。首輪がついている間は奴隷としての価値が落ちないように守られているから良いことも多い。神殿はどんな貧乏人にも金を貸すから、借金が払えなくて奴隷になり、奴隷労働で返す者が多い。それで生活している者もいる。案外悪い話でもない。食うに困ったら商神神殿へ行け、は常識の一つだ」
「ふーん」
■■■
商神神殿でエリクディスも使いやすいように所有硬貨を額の大きい商神硬貨にまとめた。後はヴァシライエの紹介で手配して貰う船で目的地を目指すだけ。
大金を一枚のエーテル貨としたヴァシライエの商会の車列は軽くなったが旅の荷物はまだ多い。ある程度の規模はまだ維持したままである。そこで大混雑に出くわす。人の足ならともかく、馬と車では雑踏を掻き分けて進むことは難しい。
「何だ?」
エリクディスは幌馬車から顔を出す。
「何かやってる」
商会主の馬車の屋上に座っているシャハズが指差す先には、広場で大道芸を披露している一座がいる。路上で違法にやっているわけではないが、観客が偶然多くなってしまったせいか彼等が路上にまではみ出してしまっている。
優雅なヴァシライエは怒るわけでも慌てるわけでもなく車内で沈黙。
エリクディスは御者の席の隣に「ちょっと失礼」と断りを入れてから、そのやや高い位置から芸を眺めることにした。足止めを食らうのなら暇潰しもしてしまえばいい。
身軽なシャハズは商会の車列を足場に跳び、広場の街路樹の枝に跳び乗ってほとんど真上の特等席に着く。軽業芸の一部かと視線が一時集ったが、何をするわけでもないので興味は早々に失われた。
様々な芸が一座の主によって紹介、披露されてきた様子だが、一行が見始めた頃から行われているのはゴブリン達による大道芸だった。
玩具のような角帽子を被った矮躯のゴブリンが、醜い顔を滑稽に化粧した上で大玉の上で玉乗りを行う。大道芸人程度なら数える程にいるこの大きな港湾都市では玉乗り程度で拍手もおひねりも貰えない。ましてや嫌われ種族のゴブリンに対しては罵声が飛ぶ。真に嫌悪する声はわずかで、場の勢いを借りた言葉が多数。
玉乗りをしながら行うのはお手玉。赤、緑、青、白の玉を両手で掴んでは投げてを交互に繰り返して輪に回す。これに留まらず、大玉を転がして定位置に、均衡を取りながら両足を真っ直ぐ前に曲げ伸ばしするに至っては目の肥えた観衆も声を上げて手を叩く。
珍奇な見世物を珍しがるシャハズであったがそれ以上に玉乗りをする変な生き物の安定した重心に目がいった。あれは達人技である。足の曲げ伸ばしから、お手玉を止めずに前宙、後宙となると体操に自信のある己でさえ劣ると感じ始める。それらは奇抜な動きであるが、その繰り返し、組み換えを見るに全て再現性のある訓練された動作だけであった。
ここで芸は終わらず、もう一人のゴブリンが登場する。その手には、玩具のような短剣が握られていてこれもまたお手玉がされる。巧妙に柄だけ掴んで回していたと思いきや刃を掴んで痛がる素振りをしながらも決して一本も落とさぬ姿もまた芸。
立て板が用意され、板の前へ玉乗りゴブリンが進む。この組み合わせで短剣投擲の芸が始まる。
短剣ゴブリンが短剣をお手玉しながら投擲、玉乗りゴブリンの赤い玉に短剣が突き刺さって立て板に縫い止められる。観客が沸く。歓声には当たって死ねば良かったという言葉も混じるのが彼等の地位の低さを示す。
玉乗りゴブリンはそれに驚いたように大玉から足を滑らせた、ように見せて直ぐに体勢を立て直す。シャハズは芸より重心の取り方に目がいっていたので騙されていないが、首を振って足を素早く曲げ伸ばしをして滑ったように見せただけで姿勢は変わらず安定していた。
一座の主が「次は青い玉!」と指定すると、短剣ゴブリンは意地の悪い顔をして玉乗りゴブリンの鼻先をかすめるように投擲する素振りを見せて観客と玉乗りゴブリンを驚かせた瞬間、騙まし討ちに投擲して玉乗りの鼻先をかすめて板に短剣を突き立てる。
玉乗りゴブリンはまるで獣みたいな声を上げて短剣ゴブリンを非難して笑いを取るか、気の弱い者の目を覆わせる。
短剣ゴブリンは余程の名手であった。素人なら的を外して当然、名人なら当てるのは当たり前かもしれないが、当たらぬ限界の隙間を狙えるのは最高の名人であろう。的無き隙間というのは見当を通常はつけられない。頭の中で的を創造する必要がある。観客に「下手糞!」などと無知な野次を飛ばされているが、あれこそ名人芸。
三投目を行う時に、悪ふざけの過ぎる観客が齧りかけの林檎を短剣ゴブリンに投げつけた。名人であれど動きに邪魔が入れば的が外れる。飛んだ短剣が玉乗りゴブリンの横面に突き刺さる、と思いきや何と口で咥えて短剣を止めた。
一瞬緊張してからの観客の拍手は喝采、声援に当てろとの声も大であった。これも芸の一部だったのかと観衆への咎めが流されたようだ。
しかしシャハズが見るに今のゴブリン二人の動きは乱れが大きかった。反復練習の精密さは無く、反射咄嗟の動きに見えた。短剣の速度も大分緩かった。
芸は終わらず次の投擲に入り、今度は観衆の悪ふざけも増長。石を握った子供の姿をシャハズが捉えた。田舎者とて憎たらしい面で笑っている子供が芸を盛り上げるなどとは考えない。
素人の投擲など早々に当たるわけはないが、その子供の数、組になって五、六に加えて用意された石飛礫は十数を越えるとなっては危険の域。慣習的な敵対心すら窺わせる。
投擲の開始に合わせて枝から飛び降り、背の鞘から抜いた杖で子供に打ち返した。頭を割る速度にはしておらず、姿勢も悪いので当たってはいないが。
石の投擲が始まり、杖で打ち返すが多勢に無勢。シャハズの杖術といえど、石に果物野菜も色取り混じっては目が混乱して助太刀が自衛に陥る。
その間にゴブリンは短剣投擲による玉の縫い止めを行う。果実野菜の投擲は甘んじて受け、石の投擲だけは絶妙に避けつつである。
観客はこれも仕込みかと盛り上がり、一座の主もそれに乗って盛り上げにかかる。シャハズの乱入さえ一座の見ものと「これまた珍妙、ゴブリンを守るエルフだ!」などと寸劇に見せる。
両ゴブリンの首にはあの奴隷の首輪。いかなる屈辱の中であろうとも芸を強要されている。労働契約範囲内なのだろう。神殿で説明されたとはいえそれで事は良しとするほどシャハズは世間慣れしていない。
金を稼いでいるゴブリンはともかく、愛弟子に物が投げつけられている状況を座視する心算が無いエリクディスは雷の杖を天に向ける。あれでも一座の食い扶持になる興業を邪魔するのは理性が咎めたが、手が動いたのはそちらが理由ではない。
優雅なるヴァシライエも己の可愛いあれの事態に、どう介入しようかと馬車を降りたところ。
『杖の筒の中をほんの少し燃やせ』
雷の杖の炸裂音に観客が驚き、悪ふざけも終わる。
シャハズの目がエリクディスへ、そして手招くヴァシライエにも目が行き、見えた。白く動く何か、神速に抜刀納刀する姿。
白い何かが石と果実と野菜で汚れた舞台に立つ。足は斜めに、もう片足は膝を曲げて重心など無視した姿勢である。
姿は白の山高帽に装束外套、胡散臭さが際立つ片眼鏡の髭顔の紳士である。興業にしてはその動き、人外に過ぎた。外套に切断痕が見られるのはヴァシライエの剣捌き跡。
紳士が手に、その透明がかって薄くオパールのように虹に発光して見える恐ろしいまでに美しい硬貨を持って掲げる。
「諸君見たまえ、我輩の手にあるのはさる富豪よりたった今盗んだエーテル貨である! 額にして金貨一億枚に相当し、何よりこれを持って神に祈れば何事も叶う逸品! 日が落ちる前に我輩を捕まえられた者に進呈しよう。商神使徒”義賊”が約束しよう!」
そう言って、予備動作も無く義賊は跳んで近くの建物の屋根の上に立つ。同時に商神の銅と銀貨をばら巻いた。
金が欲しいと思わぬ者はほぼいない。そんな世で、金をばら撒きながら人生逆転の機会を与える義賊を知らぬ者は少ない。事態を理解した観客は動き出す。
「では追ってきたまえ!」
義賊は逃げ出した。
ここで一座の主は熟練であった。咄嗟に両ゴブリンの手を取って観衆の前で膝を突いて「如何でしたでしょうか我が一座の芸は! 商神使徒義賊様も認めて下さいました! どうぞお気持ちを!」
主の声より、人生を底から天に引っ繰り返す機会を逃すまいと観衆は投げ銭などする気も無く義賊を追い始める。そして、何の気兼ねもなく広場に転がる義賊が撒いた硬貨を一座の者達が素早く拾い始めた。本来なら彼等も駆け出すところだが全員が首輪付き。
金に頓着しないシャハズ。硬貨などは足蹴に、膝を折って矮躯に目線を合わせ、投石被害に遭ったその頭を撫でて「大丈夫?」などとエリクディスやガイセルには聞かせたこともない優しい声を出す。
玉乗りゴブリンも短剣ゴブリンも生きている間に優しくされた記憶など数えられる程度で、照れるやら何やらで醜い面を歪めた。
自己中心的に見ても功罪あるエルフに一座の主は何と声を掛けようかと思ったが、この界隈で暮らす者なら頭など上げられぬ人物を前に言葉も無かった。
「シャハズ、少々急ぎで頼む」
エーテル貨を盗まれるという事態にすら、少々程度の表情で済ませてしまうダンピールの大商人は流石であった。
「商神使徒義賊から私の物を取り返してくれ」
「うん、分かった」
申し訳程度にシャハズが視線を送った先のエリクディスは頷いて、そのように、と一応の許可を出した。
観客は道路沿いに他者を蹴倒し罵声を浴びせて我先にと濁流と化して行ったが、軽業のエルフならば街路樹を坂道のように駆け上り、枝から屋根の上と飛び跳ね、屋根伝いに競争者の無い道を駆け出した。
■■■
シャハズは身体能力に長けるだけではない。知恵も魔法にも発展途上でしかも長じる。
『ジイとお話』
音の精霊術で、屋根伝いを猫のように疾駆することなど適わぬ老賢者エリクディスから知恵だけ受け取ろうと画策した。
「ジイ、助言」
『うむ? おお! よろしい。まずは一番大事なことは、取り返せてもエーテル貨で神々に祈ろうなどとは思わぬことだ。あれは人の身に余る』
「分かってる」
商神神殿で老賢者が垂れる能書きくらいは一回で身につける耳がある。
屋根瓦の損傷など無視して音を立てて走る。時折背の高い三階建ての建物の屋根へ遠回りしてでも上がり、走り跳ねて進む経路を高所から俯瞰して確認する。
『使徒様相手であるから全力を出さねばならない。おそらく追っ手の能力に合わせて何とか捕まえられるかどうかの瀬戸際を狙われる。遊戯であるから完全な不可能にはしない、はずだ』
走る経路は、走り幅跳びに行ける屋根と屋根の谷間、建物を渡る洗濯縄の細道、街路の並木、区画壁の上、道を走る馬車の屋根も含まれる。故郷の森にて木々の上を駈けて回りつつ弓矢を使って大猪を仕留めるエルフにとっては、細かな枝葉の邪魔が無い分街の上を駈けるのは容易であった。
『この捕り物にヴァシライエ殿は被害者だが参加せぬようだ。商談を優先するらしい。やはり旧西帝国貴族の方というか、まあ盗人の追跡など貴人のすることではないというところだ。損失がいかに莫大になろうともな』
シャハズの視界の端には、必死になっていない様子で、力強くも無いのにエルフの脚より早く走る義賊が収まっている。地上を走る者達は鈍足でまるで追いつけていないが、地元の人間だからか高所を回って義賊の位置を確認して先回りに動いて追いつこうとしている。
『殺意の無い妨害は有効だ。投げ縄だとか、体当たり、徒手空拳程度はな。だが殺したり足を潰すような妨害は遊戯の域を過ぎる。矢で足を射ることは考えるな。そうなるとあちら様も遊戯の範疇であろうがしかし殺しにかかってくる恐れがある。あくまでも遊戯の範囲内で捕らえる工夫をするんだ』
シャハズは真っ直ぐに背を追いかける。義賊は直進に逃げるのではなく、右回りに左回りに蛇行して、地上の者達にも機会を与えるように道路に降りては挑発をし、小銭をばら撒いてはこの捕り物を知らぬ者達に拾わせて道を一時的に閉ざしたりと、エリクディスの言う通りに遊戯の様相。
『先の大道芸だが、咄嗟の出来事も寸劇の一部にして誤魔化して客の機嫌を取る。あれも大道芸だ。物を投げる奴はよろしくないが、どこにでもいる。それをなんとかするのも達人の技だ。あやつら、林檎のような物はあえて受け、石だけを避けていたな。視野の広さは達人のものだ。戦場で生き残れるのはあんな連中だ。視野を広く持って行けば不意の咄嗟の出来事にも対応出来よう』
義賊へ近づくには最短距離を行かなくてはならない。この港湾都市に限らないが、建物の施工の良し悪しには差がある。踏み込めば崩れる瓦屋根、張りが緩くて踏めば曲がって揺れる洗濯縄、腐って折れる屋根板など足を引っ張る要素は多分にある。
追跡が長くなれば疲れる。疲れれば動きが雑になる。シャハズは重心を意識して、早く走ることは勿論だが転ばぬように走る。あの大道芸の玉乗りの妙技を思い出し、そして森を駈けた頃を思い出し、早さよりも正確さと、咄嗟の出来事に対応する余裕を持つ。
屋上とて人通りは皆無ではない。着地した場所で物陰から洗濯物を持った女と擦れ違うこともある。横に避けて、ぶつかりそうならそっと手の平で抑えて走り去る。遊戯であるなら突き飛ばすのは無粋。
シャハズを意識してかどうかははっきりしないが、義賊の動きは屋根伝いを時に許さない。大通りを挟んで跳んで行けば、如何にエルフの健脚と言えど翼でも無い限りは一跳びに追従不能。
「足場、街路樹伸ばして」
これでも師弟、互いに出来る出来ないを把握した信頼関係は既に構築済みだ。
『街路樹……この豚買うぞ……豊神よ……』
神の奇跡は文字通りに奇跡の様相。シャハズは大通りに激突する勢いのままに走って跳んで、空中目掛けて着地の心構えをし、伸びてきた街路樹の枝を踏んで次へ跳び、また伸びてきた枝を踏んで大通りを横断した。
義賊はあちこちに移動する。屋根の上、道路、からかうように馬車の御者席、荷運び驢馬の背、運河の船上。
大混乱に陥った港湾都市の者達は、噂に鰭が付きつつも義賊を追い続ける。体力尽きて喘いで倒れこむ者も出てくるが、動向を窺って体力を温存して待ち伏せを企む者もおり、部下を使って集団で追う者も出てくる。
次に義賊が逃げ込んだ先は港。穏やかで広い良港には船が並ぶ。林のように帆柱が並び、枝のように帆桁が張り出し、蔦のように操帆綱、縄橋子が張り巡らされている。
並ぶ船の大きさもまちまちで、びっしりと並んでいる保証はない。帆柱帆桁の高さ、隣への幅も一定ではない。遠ければ高く登り、帆桁の先端を足の指で一瞬掴んだ状態で踏み込んで水平に最長距離に跳んで、落下分の距離を稼いで一段下の帆桁や縄梯子に着地する。
船は緩い風や波にも影響されて揺れる。大木の森を駈けることに慣れているシャハズでも、揺れてしかも時に、乾いてなければ足や手を滑らせる鴎の糞がついた船上走りは難しい。義賊はそうではなく、時に物見台にて足を止めては、どこからか取り出した煙草を吹かして余裕を見せる。噂に集った水夫が船に殺到してくれば帆桁の上を走って逃げる。
船にはそれぞれ予定がある。義賊のことなど知らずに、構わずに出港する船がある。岸壁から離れつつある船を足場に義賊は跳び、次の停泊する船に飛び乗る。
真っ直ぐに追うシャハズの次の足場が無くなる。船が帆を拡げて出港している最中だ。それに飛び移れば次は海に飛び込む目に遭う。
「足場、海上」
『海……この牛買うぞ……海神よ』
出港する船を無視し、その先に停泊している船を目指して一跳びでは行けぬ距離を跳ぶ。
足場はまだか、落ちる、海中と、あまり知らぬ海への恐怖を踏み出してから覚える。
水柱が上がる。常なら到底足場にならぬが、氷の塊も同然と思い切って踏み、確かなしかし水の滑り落ち込む踏み心地と共に跳ねて次の船の帆桁に、わずかに距離が足りない、手を伸ばして掴み、勢いのままに回転して跳び、鞘から杖が抜け落ちて海中、杖は諦め縄梯子に取り付いて常人なら四つに這うように昇るところを足だけで駈ける。
義賊は船上での追いかけっこを終わらせて岸壁に着地。それを追って船に掛かる縄に弓を通してシャハズは滑り、降りて船体を蹴って岸壁に着地、追う。
港から今度は汚らしい貧民街へと出る。
建物は概ね低く、汚く、路上は塵なのか実用品なのか分からぬ物品が溢れている有様。
小銭をばら撒く義賊が現れれば貧民は殺到し、噂が伝播すれば追跡が濁流になって始まる。他所からの追っても加わってある種の戦場のような騒がしさに発展する。
このまま追跡していても終わりが見えない。背の低い建物の屋根の上を駈けながら今までより高低差が無いことを確認。
シャハズは走る勢いで弓を壁に当て、たわめて弦を張り、一瞬立ち止まったがその壁を蹴って勢いを殺さず走り出して矢筒の蓋を開けて手に掛けた。狙うのは義賊の、刀傷がある白い外套。
はためく外套と壁が重なるところを狙い、走りながら射る。義賊の早さに合わせた未来位置に飛ばしたが、一瞬の停止に目算が狂って外れる。
ここにエリクディスの目があったら口から泡を吐きかねない程に老いた心臓に悪い光景であった。だが弓射の達人の腕であるのならば殺傷ではなく遊戯に分類された。
追うだけではなく工夫のある手段に、義賊は初めてシャハズに目線を合わせて笑いかけた。
二の矢を走りながら用意。弦を引き絞り、射る素振り。義賊がまた一瞬停止するが、弦が振るっただけで矢はまだシャハズの手中。次に弦を軽く絞った緩いが素早い第二射が外套と壁を繋ぎ止めた。あの大道芸を真似たかすみ二段射ち。
ひょうきんな程度に驚いた顔をした義賊だが、瞬時に外套を脱ぎ去って逃げる。
距離は大分詰まってきていた。シャハズは獲物の背中が大きく見えてきたことにより足場を誤った。見て分かる程に腐った軒先だった木片を踏み、落ちた。
受身をしようにも、道は走りまわる群衆に汚物を塗りたくったような地面。下の者達の肩や背中を狙うが首を圧し折る覚悟で蹴って足場にするか、落ちて踏まれる覚悟で脇に転がるか一瞬迷う。これは遊戯なのだ。
しかし助けを確認して受け入れる。体当たりで受け止められて、足にも地面にも触れずに済んだ。助けの手は大道芸の玉乗りであった。
「無事かい?」
「うん」
立ち上がったシャハズは、エリクディスとガイセルには見せない笑顔でえらいえらいと玉乗りの頭を撫でた。
「おれ、小さいけどその、子供じゃないぞ」
「オークの子供じゃないの?」
「違う、ゴブリンだ」
「何それ?」
田舎者はものを余り知らない。
■■■
・ゴブリン
暗緑系の肌色と、頭身の低い矮躯、不釣り合いに大きい鼻と尖った耳が特徴。
他種族、主に人間との生存競争に敗北して以来僻地に追いやられ、その多くが蛮族化している。
姿は他種族から見れば醜く、強者の威厳も無い。洗練された文化は持ちようがなく小汚い。
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