第2話後編「三つの試練」
・エルフ
鋭敏な五感、細身で俊敏、三角形の長めの耳が特徴。
森や草原や砂漠で遊牧狩猟生活を営み、中大規模の部族に分かれる。
過酷な環境で生活するが故に精鋭主義であり、分かち合う余裕が無く排外的。
■■■
筆は剣にも通ずる。その虚言や至言や知れぬ言葉を信ずること三日、遂にチャルカンは標準字体のオーク文字による”鉄骨”を正しく書き上げることに成功した。獣脂で照らやかに撫で結った自慢の辮髪に解れが見え、深い眼窩を一層深くしてようやく神事に関して頑固な老賢者エリクディスに及第点を認めさせた。
第一関門に挑む。必要とする道具類は既に作ってある。
存在自体が神の奇跡である試練の迷宮には、エリクディスが得意とする神の奇跡を祈る儀式がほぼ通用しないし、通用しても己の領分を侵された知神の怒りを買うことだろう。今回は祈る機会も無いと思われる。
「迷路というものは呼び名の通りに迷いみち、複雑で感覚を狂わす。だが法則がある。まず行く時は常に壁に右手を沿わせて歩くのだ。迷路とて紐解けば最終的に長い一本の線なのだ。線の分歩けば目的地に辿り着く、こともある」
「こともある?」
「ふむ。名簿台が迷路の終わりではなく途中にある場合、この入り口まで戻ってきてしまうことがある。逆を言えば迷路の途中で終わりに到達してしまえば振り向いて、今まで右手を沿わせていたところへ左手を沿わせて歩けばすぐに突破出来る」
「場合によっては際限が無くなるではないか」
「そこでこれの出番だ」
怪しげな一品が展示された。金属製の杯が二つあり、底には輪になる金具が取り付けてある。そして片方には赤い紐が結び付けてあり、もう片方には紐が通されており、その先には幾重にも巻かれた長大な紐がある。杯その一、その二、巻いた紐の順。こういった重量物の運搬はガイセルの仕事だった。
「この結んである方をわしが持つ。紐を通してある方をチャルカンが持つ。進むごとに紐を少しずつ伸ばしていって足跡を示す。何かの拍子で右手が壁を捉えることが出来なくなっても問題が無くなるのだ」
「ジジイ、頭良いな!」
「流石は賢者である」
「ジイ、賢い」
「うむ、そうだろう」
三日前の醜態など無かったかのように白い髭を殊更撫でては己の老練ぶりを誇るエリクディス。しかし更なる隠し玉の開陳により鼻息が荒くなる。
「そしてこの品、実は音の錬金術を扱うためのものなのだ」
「な!?」
「何だって!?」
「凄い」
「うむ、驚いたようだな」
三日前の醜態など過去に追いやって白い眉を殊更撫でては己の老練ぶりを誇るエリクディス。実際にやってみて更に尊敬されようかと思えば鼻息が尚荒くなる。
「ではまず、そちらの杯をもってそうだな、一○○歩先へ行ってくれ。紐が絡まらないように気をつけてな。そうしたらその金具に紐を結んで固定するように」
「分かった」
老魔法使いの術中に嵌りつつあるチャルカンは素直に従う。左手で杯を持ち、右手で紐の輪を少しずつ解きながら一○○歩距離を取る。オークの巨体の一○○歩は遠い。そして太い指で小器用に杯の金具に紐を結いつけて固定した。
「やったぞ! 次は!?」
「手を離すな!」
そう声を張り上げ、エリクディスは杯を結び合った紐が張り詰めるまで引く。その状態で杯の口に向かって並の声で喋る。
「チャルカンよ、杯の口を耳に当てるのだ」
驚いたチャルカンが杯を引き、エリクディスの手から杯がすっぽ抜ける。
オークの一○○歩先でチャルカンが痒くも無い側頭部を掻く。急に殊勝になったシャハズは飛んで行った杯を拾い、何と両手でエリクディスへと手渡した。
「はいジイ、どうぞ」
師匠をこれ呼ばわりしていたエルフとは思えぬ態度であった。
「うむ」
再びエリクディスは杯を結び合った紐が張り詰めるまで引く。その状態で杯の口に向かって並の声で喋る。
「もう一度だ、杯の口を耳に当てるのだ」
恐る恐る、乙女でも扱う繊細な手つきでチャルカンは杯の口を耳に当てる。
「声が近くに聞こえるだろう」
チャルカンは大きく頷いて手を上げ、振って聞こえると身振りする。
「今度は逆にそちらが喋ってみるのだ。殊更大きい声を上げる必要はないぞ」
エリクディスは杯に耳を向ける。
「流石は賢者殿です。お見逸れいたしました」
老人が皺だらけの顔を一層皺だらけにする。
「ジイ、私やりたい」
「やってみなさい」
師匠に見守られるシャハズが杯に喋りかける。若干口角が上がっている。
「オークさんオークさん、やっほー聞こえるかい?」
口を杯に向けていたチャルカンは途中で耳に向け、再び口を向けて喋る。大きい面構えがオークの一○○歩先でも緩んでいる。
「聞こえるぞエルフの小僧」
杯からシャハズは一旦顔を離した。表情は常に戻っている。それから一言、杯に喋る。
「女」
またもやオークの一○○歩先でチャルカンが痒くも無い側頭部を掻く。
理由がある。女に男と言うのは悪い冗談、男に女と言うのは決闘も辞さぬ侮辱と考えるのがオークなのでとりあえず性別の分からない別種の者は男扱いしておくのが穏当なのだ。加えてエルフは性別で髪型に差異は設けないし乳の膨らみも授乳時期でもなければ真に慎ましいので尚更見分け難い。
さあ次は俺の番だぞ! と張り切って杯を手にしたガイセルの視線の先、チャルカンは早くも杯の紐を解いてから、緊張を失い地に這う伸ばした紐を見つめながら殊更丁寧に右手の中で輪にしつつ三人の方へ戻って来た。尚、縄の扱いが出来る出来ないで兵士としての格は違ってくる。
先程は咄嗟に手を離したが、その豪腕で引っ張れば紐は簡単に切れてしまう、と言おうと思ったエリクディスだが、後にした。
■■■
冷静さや集中力が戻る頃合になるまで休憩を取り、気を取り直してからチャルカンは試練の迷宮に三人の補佐を得て出発する。
音の錬金術については原理を説明しておき、不測の事態に備えた。本来ならば授業料を取る秘術であるが、そこは人の良いエリクディスなので三人に対して出し惜しみはしなかった。ただし他の、試練の迷宮に挑まんとする知的好奇心旺盛な他人は追い払う。
原理は、音は空気や物を震わせて伝播して耳に届くという前提。空気はその振動を散らしやすいのだが緊張した紐はそんな空気より良く振動を直接伝えるので遠くに居ても近くにいるかのように聞こえる。幾万と剣を打ちつけてきたチャルカンは感覚的に理解できた。他人と自分の剣戟の音の違いもそこにあると。
チャルカンはその原理を聞いて神秘性も無く、錬金術ならぬ奇術の類かと笑い、しかしそういった大道芸の類も馬鹿に出来ぬ技術の蓄積あればこそと武術の達人の目で知っていたので同時に感心した。
オークの勇士チャルカンは強敵、試練の迷宮を相手取りに筆と墨に音の錬金術道具を持ち、赤い紐を丁寧に伸ばしながら迷路を進む。
進む際には逐一錬金術で連絡を取る。道を曲がれる地点に到達したら報告する。直進不能で曲がれる方向が一つでも同様である。
まず歩数を申告する。それから右か左か斜め方向も合わせて曲がれる方角を申告する。直進の可否も合わせる。そうしたら右手の法則に従い右曲がりを優先して進む。左曲がりはそれしか出来ない場合だ。行き止まりになったら報告して一つ前の分岐点に戻る。
エリクディスは頭の中に広大な地図を描ける。若い頃に比べたら大分狭まったが、建物一つなら問題無い。これに加えて地面を杖で引っ掻いて作図すれば完璧だ。
知神の神官達はなるほどこんな手法もあるのかと感心して眺めている。エリクディスと旧知の老神官など、若い神官達に卓に椅子まで持ってきて茶をふるまいに来る。
試練に挑みたい者達は自分達にも頼むとせがん来るのが非常に喧しいのでガイセルが抜き身に剣を持って文弱共を威圧、追い払う。時には手加減しつつも殴打に突き飛ばしも行う。試練に挑むは神事。それ故神と挑戦者の交わりを邪魔する者は斬殺されても文句は言えないのだ。神官達もガイセルを咎めることなどしない。神官は規律正しく敬虔で慈悲は無い。
エリクディスは地図を作り上げていく。地面に描くだけでは足りないのは分かっており、これは概略図のためにある。詳細な地図は別に、紙に描いて精確に作る。
第一関門が実は最も難しい。迷路は長大で十分に用意したと思えた紐も限界に達することしばしば、その場合は一気に入り口まで戻らせて水や食事をチャルカンに摂らせて休ませる。
迷路は泊りがけで攻略するのが一般的だ。中には行き倒れる者もいて、その場合は試練が終了して外に弾き出される。死んでいる場合は神官が回収して埋葬する。心が折れた者は知神に降参の旨を伝えれば同じく外に弾き出される。
実はこの迷路、内部に名簿までの道順を示す暗号が記されているので解読に成功すれば比較的早く到達することが出来るのだが、数学に言語学や雑学に精通していないと解読不能。チャルカンにそれらを十分に習得させるとなると見込みがあって基礎から始めて二○年は掛かる。音の錬金術があったとしても図形や数式に無数の言語を読み取らせるにはやはり基礎知識が必要で数年掛かりだ。であるからエリクディスが編み出したのはチャルカンの優れた体力を生かした総当り作戦である。
チャルカンが再び戻ってくる。人の足ならば疲労困憊確実の距離を歩んでいるが意気軒昂。だが今回は深刻に「便所はどうしたらいい?」と言う。如何なる豪傑と言えど耐え難いものは世に数多あり、入り口から外に放つことも辞さない顔を見て神官が「その旨知神にお伝えすれば特別お部屋が用意されますよ」と教える。知神は理性の神、道端に転がすのは理性ではない。ましてや巨体のオークである。非常に、大きいのだ。
エリクディスの地図は充実して来ている。あらゆる分岐点を虱潰しにしていった。一度使えば二度目のお役の無い壮大な迷路図は惜しい物だ。秀麗な筆致で精確に描かれていて一面に張り出せば見世物として不足は無い。
「エリクディス殿。試練が終わりましたらこの図、寄進致しませんか?」
「そうしましょう。焚きつけにするには惜しいですからな」
「この手法に二度目は無さそうですからな。この規模を描く人物も二度と現れないでしょう。このような総当りにする人はきっといません」
「かの御柱様は手段を組み合わせた手法も知識とされますが、同じ手は嫌われますな」
「ええ、ええ」
老賢者と老神官と年寄りらしく茶を啜る。
試練の迷宮は奇跡の構造で出来ており、複数人が同時に挑んでも擦れ違うことはない。それなのにわざわざ”この試練の迷宮には一人ずつしか入ってはいけない”とあるのは、その昔はそうではなかった証拠でもある。
一方の若き戦士は流石にもう寄っては来ない妨害者がいなくなって暇であり、若き狩人は魔法使いを目指して音の錬金術道具を触っては思案顔。
深刻な悩みが解消されたチャルカンが間を置かずに戻ってきた。
「次は?」
「うむ。一番最初の分岐点で左に曲がるところから始めるように」
「それですぐにあったら笑えるな」
「笑える余裕があるだけで十分だ。わしは鞄を煮て食うまで迷ったぞ」
「あれは不味いよな。行って来る」
困窮を知る者は知る。食えぬ物を食わざるを得ない時もあることを。
■■■
笑えはしなかったが、最初の分岐点を左に行ってから程なくして名簿が発見され、散々に練習を重ねたオーク文字で鉄骨を刻んだチャルカンが戻ってきた。左曲がりを行うまでに一日掛かり、左曲がりから到達まで四半日。笑い話とするには労が多い。
最大の難関を突破した。そして第二関門に、習った通りに文字を書いたとしつこく言ってからチャルカンが挑む。
ここも迷路のように毎回内容が変わる。二回まで答えを間違って良い雑学問題が主流だ。時に雑学と言うよりは謎かけになることもある。
入り口正面に見える扉が開かれ、赤い紐を丁寧に伸ばしながらチャルカンが潜る。そして扉が閉まった。
「あれ?」
シャハズが赤い紐を引く。扉に引っかかって直ぐに張ってしまう。
チャルカンが再び扉を開くことを最後の希望を持って待ったが、取っ手は見当たらなかった。
扉が開かれる動作を何度思い返しても、迎え入れるように上へ開き、隔離するように下へ重々しく閉じた。幻視のようにチャルカンがその両の豪腕で扉を縦にこじ開ける逞しい背筋は容易に想像できたが、それは想像に留まる。実体は丁寧に輪を解いて紐を伸ばして地に這わせている方のチャルカンだった。
「あんた呪われてるんじゃないの?」
この場合の呪いとは勿論この地に祝福を与えている御柱様が与えるものだ。シャハズの言葉にはエルフが逆茂木に使うという槍茨のような棘がある。
「第二関門は意外と簡単なんだ。わしは簡単だった」
三半賢者は万策尽きた。難関はともかく、扉の開閉の仕組みまで覚えていなかった。人の記憶は写し取るようにとはいかないものである。
「ジジイどうすんだよ!? チャルカン殿、困ってるだろが!」
精神的にはほぼ勇士の弟子となっているガイセルの怒りは強く、一瞬殴られるかと思ってエリクディスは体が縮こまりかけた。だがしかしそんな風には見せない。
「ええい騒ぐな。今考えとるわ」
万策尽きたのだ。かの高く人知の外にある鉄壁を越える方法など思いつかない。
「錬金術でどうにか出来ねぇのか?」
錬金術というのは都合が良く出来ていない。出来ることを出来るようにするのが錬金術であり、出来ないことをしてしまうのが奇跡である。試練の迷宮はそのものが奇跡であり、それに介入して覆すような奇跡となれば一体何をどれだけ捧げてどの神か、複数の神々に祈れば良いのか見当もつかない。こうなったら地力頼みだなと思いつつ、顔に出さないで考える素振りを始める。
老練なエリクディスは己の愚を悟った。愚を悟っておくびにも出さないからこその老人である。
手は合わせず、心の中で手を合わせて試練の突破を勝利に恩恵がある戦神に祈った。それは非現実的だからとりあえず白痴にならないで出てくれば良いと、呪いをかけることがある知神に祈った。白痴になれば怒られないで済むかも? と邪心が合わせた手をこじ開けかけたが、それは良心で封じた。
「あ!」
シャハズが珍しく大声を上げる。エルフは耳が良いので大声を出す習慣は無いのだが、それでも上げるとなれば余程のことだ。オークがその両の豪腕で持って縦にこじ開ける逞しい腹筋が想像されたが、扉はそのまま。別の何かだ。
「どうした?」
シャハズは役割を終えた、年寄りの息がふんだんに掛かった杯を手に喋った。
『喋った言葉を上手に真似が出来るかな?』
思わず大声を出しそうになったエリクディスは必死に理性で己の口を閉じて舌を噛む。今掴んだ勘を邪魔するな、非才如きが絶対に。
「オークさんオークさん、やっほー聞こえるかい?」
『ウガァ!? エルフか! エルフ……シャハーズ! ウガァハァ……聞こえるぞ! 聞こえるぞ!』
天才。
「チャルカンさんやい、第二関門は何なの?」
『お、おう。言うぞ。朝は四本足、昼は二本足、夕は三本足。この生き物は何か? だ』
正に闇で光を見つけたような希望に満ちた、一度底にまで落とされてから上がった上ずる声の、完璧な再現だ。鼻を頻繁に啜る音まで聞こえている気もするがそれはきっとあの勇名に懸けて気のせいだ。
「はーい。朝は四本足、昼は二本足、夕は三本足。この生き物は何か? だね」
『そうだ! 頼むぞ、全く分からん! 昼に脚斬刑受けたケンタウロスの男って言ったら後一回間違えても良いって言われたぞ。頼んだぞ魔法使いシャハズ!』
「うん。だって」
エリクディスは衝撃から己を取り戻すために深呼吸を行った。
魔法使いとなったシャハズは音の錬金術道具を使って音の精霊と遊ぶように、繋がっていない向こう側のチャルカンと擬似的に会話をしている。頭を銅鐘のように震わされると言われる音の精霊の声に苛まれている様子は欠片も無い。
鉄壁は越えた。あとは老いるに任せて溜め込んだ知識を使うだけ。
「ジンの大魔法使いロクサールだ」
「ジンの大魔法使いロクサール、だって」
『分かったぞ、ジンの大魔法使いロクサール……ウガァ! 正解だ! 正解だぞ! ガア!』
「正解だって」
「良く聞こえている」
一日の内に変幻自在となれるのはジンの中でも精霊術に良く長ける大魔法使いロクサールのみ。奇形ならばまだしも普通の生き物は奇数の足など持たず、自在に生やすことは出来ない。また尻尾や杖や男根を三本目の足などと俗称することもあるがあくまでも俗称だ。老練なるエリクディスは己の得意で活躍することにより常の冷静さを取り戻した。
老神官は感心して手を叩いて祝福しようかと思い、邪魔になると思いとどまって見守る。状況が理解出来ない蛮族のようなガイセルは呆けた面をしている。
「ジジイ、どうなってんだよ?」
「精霊に一二行がある。陽六行、光木火土金水。反転して陰六行、闇腐熱気音冷。人間に知覚出来るのは陽六行まで。エルフやジンなど感覚に優れる種族ならば陰六行を知覚出来ることもあるが、やはり難しい」
「分かんねぇ」
「シャハズは天才だ。修行も短期間なのに音の精霊術を使った」
「すげぇ! シャハズすげぇじゃねぇか!」
ガイセルが己のことのように飛び跳ねて喜んだ。その様は少年。
「いとも容易く師を越えた」
シャハズが珍しく笑って言ってみせた。エリクディスが神妙な顔になる。
「ジイ、冗談だよ?」
流石に冗談にしても性質が悪いかと長幼の序を重んじるエルフの一人としてシャハズは不安になる。それに対して返事も出来ぬエリクディス。悔しいのではなく、逸材であるがゆえに自分の手に負えぬのでどう教育したものか計画を練り始めたのだ。ジンの大魔法使いロクサール殿ならばあるいは? と思うが、旅費が莫大だ。世界の端に行くという表現がその旅程では冗談にならないのだ。
『次、第三関門に来たぞ。えーと何だ、神をそなたが傷つける方法を示せ、だと。うんそれなら……』
「迂闊に喋るな!」
エリクディスが畏れを覚えて反射的に怒鳴る。第三関門、正解は無数にあるがその中から真に正しい正解を導き出さねばならない。ただ知識量があれば良いわけではない。
「静かに、喋っちゃダメ」
『ウグゥ……』
勇士チャルカンといえどその剣は神に届くか? 否であろう。おそらくチャルカンならば自信を持って、勝てぬとしても一太刀傷を付けられると答えてしまいかねなかった。エリクディスはそれをまず止めたかった。借りにあの鉄岩の大剣が神を傷つけるに十分な威力があったとしたら、神はその力を危ぶんで呪いをかけてしまう恐れがあった。傷つけるに不足しているとしてもその傲慢を咎めて呪う恐れもあった。
一二神は疑いようもなく強大で人の身で逆らうことなど不可能である。がしかし、だからと言って寛容ではないし慢心もしていない。つまり実際に傷つける手法を編み出して言ってしまっては試練を突破しても後に誅される可能性があるのだ。
難問である。新手法を編み出してはいけない。知神は知識の一形態である新しい手法を知りたがっており、教えれば見返りをくれる。ただし見返りの後にどうするかは御柱様の心次第である。ここは普遍的な回答が望ましい。誰もが知っていて陳腐な答え。そしてそれに付け加えるのは説得力、論破されない付け加えがいるだろう。
「侮辱の言葉だ。神のお怒りを買うような言葉は神のお心を傷つけたことになる。言葉如きで傷つかないのならば無視されようが、過去に知神より自分は賢い者であると吹聴した哲学者オハルトニスは怒りに触れ、白痴の呪い人となった事例が有名だ。であるから凡庸の身であっても神を傷つけるのならば侮辱の言葉である」
「んー、ジイもう一回」
「うむ、縮めよう。哲学者オハルトニスの例のように、心を傷つける侮辱の言葉、だ」
「チャルカンさんいい?」
『いいぞ』
「哲学者オハルトニスの例のように」
『哲学者オハルトニスの例のように』
「心を傷つける侮辱の言葉」
『心を傷つける侮辱の言葉、か……ん? ああ、ああ! ウガァ! 正解だアァ!』
四つ半愚者程度になったエリクディスの面目躍如である。伊達に歳を食っていなかった。
第二関門の扉が開き、部屋に捨てられた音の錬金術の道具が見えた。
「うん? どうしたことだ」
老神官が異例の事態に気付いて声を上げる。
奇跡の構造による同時に複数人が入場しても擦れ違わない試練の迷宮だが、その異例の時に入ろうとした挑戦者が見えぬ壁に押し返された。
第三関門が開き、顔も筋肉も喜色満面のチャルカンが腕を振って喜んでいる。
老神官が頷いて三人へ手で入場を促した。
「どうぞお三方、ご招待されるようです」
「なんと!?」
エリクディスは反射的に襟を正し、裾の埃を払い、髭と髪に手櫛を通してからとんがり帽子を被り直し、靴の踵を揃えて靴下を引っ張って皺を伸ばした。それ「うんうん」などと鼻を鳴らし「あーあー」などと喉の調子を整えた。
「二人とも行くぞ」
胸を張って顎を上げて颯爽然としたエリクディスを先頭に、ガイセルは手を後頭部に組んで、シャハズは熱い視線を送ってくるチャルカンの手招きに暑苦しさを感じながら本来進入出来ない試練の迷宮に足を踏み入れた。神経の細かいエリクディスは忘れてはいけないとガイセルに音の錬金術の道具を持つように指示する。あまり太くはない紐とはいえ、大迷路用の拵えなので長く束ねれば重いのだ。
第二、第三関門は問題を問うだけで、その言葉を発するためだけの等身大の学者像が立っているだけだ。既に役目を終え、ただの物言わぬ石像と化している。
「シャハーズ!」
チャルカンがシャハズを掴まえようと手を伸ばす。余りの圧力に身軽な彼女は飛び退り、飛びすぎて壁に着地しかけたので蹴って三角飛び、適当な着地点を見出せずに石像の肩に乗った。高所ならば二の手に対処もしやすかろう。
「落ち着かれよチャルカン。念のために言っておくがエルフに喜びの接吻の習慣は無い。止めるのだ」
「おお、そうか、すまない」
エリクディスがたしなめるもシャハズに悪寒が遅れて走る。もし避けずに掴まっていたら否が応も無くあの分厚い唇に蹂躙されていたのだ。オークの喜びの接吻は性別種族に身分差等も問わずに行われ、大半の者達に恐れられている。悪意も無く勢い任せに情熱的に行われるだけに性質の悪さは一級品。あなおそろしや。
「おわ?」
石像が沈み出した。シャハズは飛び降りる。もしかして不敬となったかとエリクディスが謝罪を司る神がいたかと思考を巡らす。
何かが倒れる音が鳴る。音の方角は正面の壁、巨大な本が倒れている。
「知神の使徒、大辞典様だ」
エリクディスが三人に佇まいを直せと襟を直す素振りで示し、左胸に右手の平を当て腰を曲げて敬意を示す。シャハズはエルフ作法で、チャルカンはオーク作法で、ガイセルは軽く手を上げて。蛮族にしては反応出来ただけ上出来であった。
「オークのチャルカン。知恵者を味方につける機転を巡らし良くぞ試練を終えた」
「は」
「何の知識が欲しいのか言うがよい」
口も無いのに口を利くことにやや動転するが、チャルカンは顔を上げて喋る。
「は。己に相応しい最強の剣の在り処です」
「それはここに半ば在る」
「半ば?」
「人間のガイセル」
「へ、俺?」
知神とは最も縁遠い男の名が上がった。
「彼が半ば最強の剣と言えよう」
「どういうことですか?」
チャルカンの目がガイセルのアダマンタイト合金の剣に注がれたが、手に馴染む大きさではなく、それではないと直ぐに悟って疑問だけになった。
「弟子に取れ。才有る者に剣を教えることによって己の剣の腕も同時に磨かれるということだ。自分がやっていることを弟子にやらせ、それを見て粗が見つかる。お前の腕ともなれば愛用の手馴れた剣以上の剣など存在しない。よって更なる高みに昇る方法に代えた」
「ウグゥ」
約束が違う、などとチャルカンは容易に言えなかった。理は通っているが言いくるめられているような気分になったのだ。しかし神の使徒の威容を前に逆らう口を開ける程に身の程知らずではない。
「不満げであるな。分かるぞ。ならば完璧な、より完璧に近づけよう。剣を構えろ」
大辞典の表紙が開き、頁が激しく捲られて停まる。そして本の中からチャルカンに酷似した同じような鉄岩の大剣を持つオークの剣士が現れた。
「若きチャルカン!? 懐かしい雄姿ではないか!」
老エリクディスが若き頃に出会った先代チャルカンの姿であった。あの唇に顔を潰された記憶が蘇る。こう、熱くて柔らかくて包まれるような気色の悪さ。
戦士の鑑である今代チャルカンは躊躇わずに大剣を持って大上段に構える。
「父上? 若い、生きてる? 否、神の奇跡の模造か!」
同じく先代チャルカンも大剣を大上段に構える。構えの基本は同じで流派も同じ。だが潜った修羅場の数と種類の世代により僅かな差、親子であるが発生する個体差、流派に蓄積された伝統の一世代差が脚の開き、腰の深さ、腕の位置、握りの均衡、呼吸法に違いを与えた。どちらが優れているかは打ち合って打ち殺して初めて分かる。最後に立っていた方が強い。進化しているのか退化しているのかは結果を見れば分かるのだ。
「ガイセル、この戦いとくと見よ! これが最初の稽古だ!」
「はい師匠!」
ガイセルは全身の穴が開かんばかりに興奮した。知識は無くともこれが記録されれば伝説級の剣士の戦いになると肌で理解した。
チャルカン同士がほぼ同じ、微妙に違う美しく無駄の無い腕肩背腹足腰が振り出す豪快な大上段斬りがぶつかる。火花が散って鉄壁のはずの迷宮の壁が震える。
絶え間ない打ち合いの反復。止まらぬ呼吸と踏み込み。得物は使い古された鉄の大剣が岩のように削れた物。圧し合いの衝撃で潰れるのは肉体が先。骨肉の潰し合い。人間の剣士が講釈垂れそうな技術哲学など粉砕する。あの上段斬りの繰り返しを前に同じ技以外で何を返せるものか。
縦に振り下ろすが最速。最速を前に最速ではない他の技は全て遅い。予め相手が切っ先を伸ばして間合いを稼ぐ小癪も叩き落すのが最速。全て先に叩き斬る。受けに回れば叩き潰される。であるから最速最強の大上段をひたすら潰れるまで打ち合う。
最大効率の滅多打ち。無駄の有る動きを一度でもした方が劣勢に立ち、押し切られ、勝利の天秤が傾く。
体勢が先にほんの僅かに崩れたのは先代チャルカン。踏ん張る足の親指が石の床を、今代チャルカンより長く滑った。一度崩れれば押し切ってそれまでの激闘が嘘のように叩き斬る。
血も断末魔も無く模造の先代チャルカンは両断されて文字の塊になって消えた。
「ウガァウアァウ!」
三人が雄叫びを上げるチャルカンの技に見惚れた。シャハズでさえ耳を塞ぐことを忘れていた。大上段を極めたその動きは美の結晶。このオークより美しいものをこの場で数えることは不可能。
「見たか!」
「ひゃあい師匠!」
声も体も震えが止らぬガイセルのアダマンタイト合金の剣は片手でも両手でも扱うに良い拵えである。この技を学ぶのに不都合は無さそうだ。この剣技を習得したならば先に死闘を演じた人狼が相手でも、五○に及ぶ滅多打ちではなく一刀にて両断していただろう。
「天晴れオークのチャルカンよ。これから師弟二人で最強の剣を目指すが良い。これ以上の指導は領分を越えた先だ。よろしくするがよい」
閉じた大辞典は壁に埋まるように消え去った。
ここに二組の師弟がいる。老人と少女、そして喜びに……。
「ジイ、教わってやるから感謝しろよ」
「何が、やるから、だ」
二人は目を背けて足早に試練の迷宮を後にした。何が行われたかは見ていないので神のみぞ知る。
■■■
洗練された無駄の無い円柱状の白亜の巨大建造物、知神が築いた奇跡の構造を持つ試練の迷宮、ダンジョン。その入り口の石碑にこう刻まれている。
”三つの試練を突破せし者に知神は無償で知識を一つ授ける”
”この試練の迷宮には一人ずつしか入ってはいけない”
”過去この試練で知識を授かった者は二度目の挑戦は出来ない”
”暴力に頼ってはならない”
”挑戦者は外部と通信してはならない”
以上五項。
知神は余人が下らないと思っているような知識でも未知ならば貪欲に欲する。逆を言えばどんなに高尚で優れた知識でも既知ならば興味を示さない。
神は神であって人ではない。
■■■
・知神
書庫と禁書庫、知識を司る男神。
書庫にて知識の交換を行い、禁書庫にて秘密を保存する。
怒りに触れれば白痴となり、記憶も理性も失って廃人となる。
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