第2話前編「三つの試練」

・ダンジョン

 天守/城内砦/地下牢/地下迷宮/迷宮


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 洗練された無駄の無い円柱状の白亜の巨大建造物、ダンジョン。その入り口の石碑にこう刻まれている。

 ”三つの試練を突破せし者に知神は無償で知識を一つ授ける”

 ”この試練の迷宮には一人ずつしか入ってはいけない”

 ”過去この試練で知識を授かった者は二度目の挑戦は出来ない”

 ”暴力に頼ってはならない”

 以上四項。

 その入り口の前に立って試練の迷宮に挑まんとする男は異形である。

 刈り上げ長髪を結った辮髪、頭より太い首、胸より太い腹、前腕下腿の発達が異形の域に達する。手は巨体の均衡を崩して広く、足裏の皮は馬蹄のように厚い。緑の肌には川を転げ落ちた巨石のような無数の古傷。荒縄で背に引っ下げるのは並の剣なら百度は砕かれたであろう歴戦の証が荒に刻まれた鉄岩の如き大剣。少年戦士ガイセルなど瞳を輝かせて一目惚れの有様であった。

 そんなオーク族の勇士チャルカンが挑む。暴力商売の男が挑むには明らかに敷居が高い。

 鈍足となって久しい老いた魔法使いエリクディスに先行し、行き違いにならぬためチャルカンにその場に留まるよう言伝をするため先行したガイセルは自己紹介も早々に武勇伝をせがむ。

「今まで一番強かった相手は何ですか!?」

「好敵手と見える者は全て、各々全霊を懸けておりそれぞれに強かった。優劣ではなく相性の結果命運が分かれたと言えよう」

「おお! 歴戦の勇士のお言葉、参考になります」

「むう……」

 小うるさい小僧を蝿叩きに伏せるのもやぶさかではないチャルカンであるが、今回は依頼する側にあるので最低限の礼節を弁えている。

「それでですね!」

「無駄口は終わりにしろ」

「……はい」

 チャルカンは武術に関してならば自信があった。剣のみならず槍に斧、弓矢に投擲、徒手空拳から盾の扱いまで一通り修めている。相手が剣以外の武器で挑んで来てもその基本的な動きを察知し対応出来る。また戦場にあっては常に己の愛剣が手元にあるとも限らず、掛かる敵を屠ってはその得物を奪って連戦することもある。無論、剣の届かぬ相手と戦う術を持つことも重要。

 武術ばかりではない。攻城梯子に塔、投石機の製造取り扱いも心得ている。戦神が観戦し法神が裁定する国家の決闘に傭兵として挑み続けてきた勇士はただの猪武者ではないのだ。

 ただの猪ではない。学問に精通した者ですら失敗してしまうという知神の造りたもう試練の迷宮に猪突する愚は冒さない。彼は戦を知る。頼れる者がいれば遠慮せずに頼ることを知っているのだ。

 入り口の前でチャルカンは沈思黙考を続ける。その肉厚の障害を前に入りたくても入れない学問の徒達が遠巻きにうろつく。立ったままの尊敬するチャルカンを前にガイセルは直立不動でいるしかなかった。


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 試練の迷宮の清掃等を職務とする神官が勇気を振り絞ってチャルカンに試練の妨げをしないよう注意するまでに天神が運行管理する太陽は過去と同じ弧を描いて行き、朝から昼になる。

 近くには半日も掛からずに徒歩で通える知神の使徒に縁のある町があり、試練の迷宮に挑む者達の宿場になっている。そこに魔法使いエリクディス、狩人シャハズ、戦士ガイセルは宿を取っている。

 チャルカンは見た目の通り強壮である。今のような毛皮の腰みの一丁の半裸でも酷寒でなければ冬を越せる。温暖な土地の雨風などものともしないので天幕も張らない。ただ地べたに座るだけで十分である。肌も虫の針どころか鉄の針も通さない。試練の迷宮の入り口前の彼は自分の尻の形がついた地べたに合わせて座り、過ぎる時間を瞑想して待った。

 座って精神統一をして微動だにしないチャルカンは巌のようである。蝶や小鳥が止まる程に静謐である。広い背に登った蜥蜴が陽光を浴びる程である。

 ガイセルは暇だった。時折試練の迷宮から、何の無作法を働いたか知神の呪いを受けて白痴となり、涎に糞便を垂らして喚きながら出てくる者を連れて行く神官の働きを見るくらいしかない。また剣の稽古をつけて貰いたいとは思っているし、本来のこの男ならば遠慮などしないのだが、剣豪チャルカンの威容の前ではその無作法な口も閉じたまま。加えて依頼の報酬の一つに剣の稽古をつけて貰うとあるので良識が止めた。どこかの山か野から出てきた若者であるがそこまで非常識ではない。

 ガイセルは腹が減った。袋から干し肉を取り出して齧る。

 そして食べ終わる頃に聞き慣れた年寄りの汚い喘ぎ声が聞こえてきた。

「はぁ……! ひぃ……! 何が歩きで半日も掛からんじゃ! 坂ばかりじゃないか!」

「ジィ、うるさい。それ四二回目」

 情けないことに荷物を、昼飯の兎を四羽吊るした木の枝を担ぐ少女のシャハズに担いで貰い、杖を突いてよろめき、汗を垂らして唾で髭を濡らし、苦しげに首を揺らして老エリクディスは鈍足に現場に到着した。濡れたかの老人はみすぼらしく醜かった。町と繋ぐ整備された石畳の街道には汗の点が連なって順に乾きつつある。

 巌が動いて蝶に小鳥に蜥蜴が逃げ出す。

 試練の迷宮の入り口を前に杖を投げ出してエリクディスは膝を突いた。途中で休めば良かったのだが、昼にはここで会う約束を書面越しに交わしていたので真面目なエリクディスは太陽の傾きが体感的に異様に早く感じたので無理をしたのだ。馬や驢馬を借りるとか馬車を借りるとか老体に見合った手段は宿場の町に需要に対していくらでもあったのだが、そんなものは要らないと金を惜しみ、そこまで老いていないと虚勢を張った結果がこの苦痛である。

 そんな汗と加齢で異臭の塊になって、変な声で喘ぐ老人の前に豪のチャルカンが膝を突いた。

「テュガオズゴン氏のチャルカンと申します。賢者エリクディスにお会い出来て光栄です。亡き父、同チャルカンと世間の噂より貴方のご高名は存じております。そして指名の依頼を受けて遠路遥々ご足労頂いたことに感謝申し上げます」

 父に祖父とその栄誉ある名を継ぐチャルカンは右拳を左胸に当てて顎を引くオーク作法で敬意を示した。

「はぇ……はふ……」

 エリクディスは旧知の立派な子息に何とかその礼に対して応えようとするが力無く手を上げた程度で口も体も理想形に遠い。この時点では賢者も白痴の呪い人と変わらなかった。

「これでも賢者」

 その賢者の弟子となったシャハズが師匠をこれと指差す。エルフ作法でもなければ敬意も無い。

「うるさい、飯の支度でもしてろ!」

 急に息を吹き返す例外はある。

「ひゃ……ぶぇ、うぅえ!」

 代償にえずく。

 因みにエルフ作法で敬意を示すとなると、みぞおちに右手の平、腰に左手の甲を当てて目を閉じて顎首は動かさず腰だけを若干前に曲げる。無論シャハズは教養として心得ているが尊敬すべき師匠にその姿を見せたことは一度も無い。


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 冒険者と呼ばれる彷徨い人にとって指名で依頼を受けるということは名誉である。そして名前を大々的に世間に売る機会でもある。エリクディスは既に有名なので名を売ることに価値を感じはしないが、わざわざ己を指名してくれるということに対して感じる名誉は若い時から変わらない。

 お前が必要だ、助けてくれ! これに熱くならない者には心が無い。

 名前が大々的に売れるというのは付随的な効果である。まず指名するにあたり――拠点や住所があるならばともかくとして――どこにいるか分からない冒険者に依頼をするためには各所に呼びかけを行わなくてはならない。張り紙を張るにも書いて貰って人に頼まねばならず、文盲向けの先触れに喋って貰うにもその言葉を教えて定期的に触れて回って貰わなければならない。大金が必要になる。依頼料とは別に大金を使ってまで呼び寄せたいような優れた人物であると名前が噂になって知れ渡るのである。

 老魔法使いエリクディスは知識と経験の豊富さと業績から賢者と呼ばれても違和感が無かった。それに見合った依頼料は前払いに旅費礼金等と合わせて商神金貨一○が支払われた。逞しい肉体に巻かれた腰みのから出されたことに動揺したのはシャハズのみだが、あれは内側に貴重品を納める収納袋があるだけで過敏に拒否反応を示すものでは無い。おそらく。

 早馬に手紙のやり取りが既に行われており――チャルカンは代筆屋を使ったのだが――双方契約が成立している。先の前払いに加え、成功報酬として商神金貨二○枚とガイセルに対する剣の稽古である。また確約ではなく要相談であるが、チャルカンが欲する知識である己に相応しい最強の剣の在り処が示された時にその調達の手伝いをするというものである。手伝う時は別途新規に依頼として扱い、報酬の相談がされる。剣の在り処によって難易度がいくらでも変動するのでその時まで具体的な取り決めはしない。

 三人は大金を稼ぐことを目的にしている。

 まずエリクディスとしては、一応は魔法の授業料ということになっているがシャハズに対して商神銀貨二○七枚の借りがある。商神金貨一枚で商神銀貨二五枚の神が保証する固定相場なので今回の報酬で十分返せるのだが、高額のお釣りを貰ったとはいえミスリル製の首飾りという貴重な思い出の品を失ったことに対しての謝罪という意味ならばそれだけでは足りないと思っている。借金より質が悪いと言えば悪いが、悪くしているのはエリクディスの性根である。法神に問うても既に返済は終了していると裁定される。

 ガイセルは冥府の横道にて手に入れた全甲冑の調整代金、最低でも商神金貨一○○○枚の調達を目指している。頭金としてならば神より授かりし神器でも無い限りどんな業物に対しても文句の無い金額である。アダマンタイト合金の武具など金を出せば手に入る代物ではないので、繋ぎに別の甲冑を身につけるにしても最終到達点をあの全甲冑とするのは理に叶う。

 シャハズは金に拘りの無い性格だが、彼女が学びたいと思っている魔法を効率的に学ぶには大金を要する。エリクディスの知る精霊術の最も優れた使い手は遥か遠国にいるので旅費が掛かる。歩いて旅費を安く済ませよう、旅中の物資は現地調達で、などと考えていたら寿命が尽きる程に遠い。もう一人の錬金術の大家は暴利のような授業料を取る。錬金術を学ぶには高価な道具を膨大に消費するので単純に暴利とも言えないのだがとにかく掛かる。国家の後援を受けた英才が学生として送り込まれるようなところなのだ。エリクディスとて教えられることには限界がある。

 チャルカンに指名を受けるまでにも依頼を受けている。

 死神の居眠り、と呼ばれる死者達が墓から起き上がってところ構わず暴れる怪異を鎮める――動けないように全身の骨を砕いて埋め直す――依頼を受けて解決した報酬の金額が商神銀貨五○枚。依頼主は墓守達で、軍隊が盗賊退治に遠出をしていて人手不足ということで依頼された。手癖の悪い冒険者達に頼む程に規模は大きく、戦死者などは副葬品の武器を手にした死を恐れぬ手錬で危険が伴った。公共の墓地での出来事であり、神を畏敬するエリクディスの性格もあって副葬品の略奪など有り得なかったが共に参加していた他の冒険者達は副収入を得ていた。説教をするにはその数は多過ぎたが、暴れ出さずに追加の埋葬金にて守護されていた墓をどさくさに紛れて暴いた者は死神の呪いを受けてその場で白骨奴隷にされてしまった。区別も付かずにまとめて退治された。

 強くなりたくて戦神に愚かな方法で祈った結果、大雑把に工夫も無く願いが叶って人とも狼ともつかぬ怪物になって人や家畜を殺戮して回った哀れな男を退治した報酬が質の悪い人造銀貨一○枚。通りがかった酷く貧しい集落の出来事で、既に全滅の憂き目に遭った後なので逃げるのが合理であったが縋り付いて来た依頼主は最後の生き残り、その男の息子で七歳、二歳の妹の手だけを持っていた。戦いは厳しくエリクディスは危うく精霊憑きになりかけてしかも骨の杖で死者を五体も操り、シャハズは突き刺した三○本の矢の内一七本が折られ、ガイセルは肩を噛まれて豊神の奇跡が無かったら止めを刺していた程の重傷を負った。加えて死人の埋葬も行ったので、何とか廃墟を依頼主にことわってから漁ったものの最終的に商神銀貨四枚程度の損失となった。

 街から街へ渡り歩く隊商の護衛。食事付きで一日商神銀貨、エリクディスが三○枚、ガイセルが一五枚、ふくれっ面のシャハズが八枚。一五日の道程で大きな事件も無く終了。盗賊も出ず、襲撃して来るかも怪しい狼はシャハズが先行して仕留めて皮を剥いで隊商の隊長に買い取れと迫った。金額は人造銀貨二○枚。それと隊商の見習い坊主にエリクディスが勉強を教えて人造金貨一枚。

 まともに報酬が支払われるだけましである。依頼主に払う気が無いもの、問題に対する理解が浅くて軽く見積もり過ぎているものは多い。

 依頼を行う広告媒体は、直接の声掛け、街頭の張り紙、先触れの言葉、宿や酒場の親父に仲介人の紹介などがあり、それぞれに嘘や誤解に職業柄の癖やしがらみがあって内容の吟味は難しい。公共組織や職能団体のような内容が確かで要領を得て金払いが良い依頼主は身分確かで実力が保証されている専門家達に依頼する。であるから身分不確かで技術も怪しい者達向けの依頼となると曰くが付いて金払いが悪く逆に騙し取られる危険すらあった。墓場の案件のように副収入を狙うのはある種当然の権利とすら見られていた。傭兵の戦場漁りと同一視された。褒められはせず卑下されるが止めるのはやや無粋。

 彷徨い人でも有名で信頼がされている者は賊も兼ねるような冒険者とは扱いが違って隊商護衛の依頼が旧知の――その息子なども含め――仲介人を通して舞い込む。

 無名時代を経て高名となった老エリクディスの経験則からしてチャルカンの依頼は良い依頼と判断された。

 一休みして息を整え、動いて腹が減った口で焼いた兎を食べ、汗を拭いて服を乾かして寝る時のような下着姿になってエリクディスはチャルカンの依頼を達成するべく努力する。帽子を取った頭は額より頭頂部まで禿げ上がっている。

「まずは第一関門からだ。まず入り口に入ってすぐ目の前に第一関門を抜ける扉があるが封印されていて開かない。その脇道の迷路を進んで行き、奥にある名簿に己の名前を書き、戻って来ると封印が解除されていて通り抜けられる。記名することでその名の者だけに通行の許可が下りる仕組みだ。迷路は毎回道順が変わるからわしが突破した時の道を覚えても意味は無い」

 チャルカンがエリクディスを指名した理由の一つが過去にこの試練の迷宮を突破したことがある人物だからだ。成功者に成功する方法を尋ねるのは合理である。

「チャルカンよ。己の名を書けるか?」

「教えてくれ」

 チャルカンは文盲である。人生で豪腕によって解決出来る物事が多かった。小難しい案件に関わらなくても腹は膨れて金も稼げた。

「改めて聞くことも多いが答えてくれ。まず君の氏族は?」

「テュガオズゴン氏だ」

「伝統的な氏族だな。標準字体のオーク文字でよかろう。チャルカンは”鉄の骨”の意で間違いないか? チャルクアム、”鉄の拳”ではないか? 方言に気をつけて思い出せ」

 オークは複数の氏族に分かれている。人間と共生する氏族は人間の文字を使っていることが多いし、辺境中の辺境に住む氏族はそもそも文字を持たない。

「人間の言葉なら”鉄の骨”だ。父には決して折れぬ者だと教えられている」

「では書き取り練習だ。知神は本を文字を大事にされる御柱様だ。汚い字、走り書きなどを認めて下さらんだろう」

「分かった」

「まずは紙と墨は勿体無いから砂に削った木の筆で書くところからだ。オークの勇士チャルカンよ、依頼を受けた以上は万全を期す。そしてわしは一二の神々に畏敬の念を抱いておる。勿論知神に対してもだ。御柱様がご覧になる名簿に書くのだから半端な字は許さんぞ」

「努力しよう」

 雑用しかすることの無いガイセルに周囲から砂を集めさせる。その間にエリクディスが標準字体のオーク文字で紙に筆と墨で”鉄骨”と書いて手本を示し、己の名がかくも秀麗に技で書かれていることに掘りの深い眉の奥の丸い目を開き、文を学ぶも面白いと唸る鉄骨チャルカン。その反応に気を良くして余分に装飾筆記体で真似が出来るかな? ともう一つ壮麗に王の花押の如くに書いて更に唸らせる老人。

 そしてガイセルによって四角に掘った穴に砂が入れられ、練習盤が出来上がって筆記練習が始まった。その雑用すら終えたガイセルは暇になった。

 シャハズには精霊の声を聞く訓練を言いつけてある。勘が得られるまで心静かにしなければならず、聞こえるまでに掛かる時間は才能によって大きく左右される。まずは少々騒がしい試練の迷宮入り口から離れ、余計な音の聞こえない静かな落ち着ける場所でも見つけるようにと指導。周囲は険しくない森林なので程々の場所がある。


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「駄目だ」

「ウガァ! 読めるだろ!? 読めるだろ!」

 決して折れぬ者、オークの勇士、歴戦の剣豪、武術の達人、勇名を並べれば祝詞になる鉄骨チャルカンはその凶悪なオークの猪牙を剥いて叫ぶ。枝を削った木筆を握り潰した拳で地面を叩いて揺らしてから爪で引っ掻いて掘り返す。

「叫ぶな耳が痛いわ。唾を飛ばすな」

 チャルカンは何度も自分の名前を砂に書いては駄目出しを受けていた。一度瞑想に入れば巌のように静かな男だが、今では額に静脈を浮かしてエリクディスの癖のある髭と長髪を鼻息でなびかせる。唾と言わず鼻水も掛かったので流石に袖で顔を拭う。

「何が悪い!? どこもおかしくない! ガァア! ふざけるな!」

「鼻息で砂を飛ばすな。どこの書き方が悪いか指導し辛いだろう。いいか、何度も言うがオーク文字は直線構造だからと簡単に思うな。一文字ごとに四つの正四角形を意識して、その中の直線直角のみで書くんだ」

 歴戦の年寄りは尋常ではなく図太いので決して折れぬ者、オークの勇士、歴戦の剣豪、武術の達人、勇名を並べれば祝詞になる鉄骨チャルカンの腹に響いて鼓膜も破りかねない、数多の戦士を恐慌させた怒声もそよ風に砂の盤面をまな板で撫でて平らにし、お手本の文字を四つの正四角形を描いてから美しく精確に書く。習字の教師としては抜群で、その手で写本を作れば常の本より価値が出る。

「筆は剣にも通ずる。剣士ならば理解出来ぬか?」

「何だその言葉は? 知らんぞ!」

 そう言われればそうかもしれないと思っても老賢者エリクディスは顔にも出さない。

「相手の急所、鎧の隙間へ鋭角に刃を滑らせることに通ずるだろう」

 無論のこと声色に出すこともない。舌が滑るに任せても理屈が通った言葉が湧き出てくるのだ。

「それはオークの剣ではない。我等の剣は最も速く最も強く叩き伏せるのみだ!」

「最も早く強いということは紛れも無い純粋直線に剣を振るということだ。ならば一層得意であろう。書き直しだ。まずはわしの書いた字をなぞれ。ガイセル」

「うん」

 ガイセルは木の枝を削って予備の木筆を作っている。これで四二本目だ。

「おのれぇ……」

 チャルカンは震えの収まらぬ手で木筆を手に取る。

「力の入れすぎだ。羽のように持て」

「ぬぐぅ……」

 どう握っても筆は剣ではなかった。

「ジイ、まだ?」

 精霊との対話の試み、森林浴に飽きたシャハズが戻ってきた。そうと思えば空は暗くなってきており、夜が訪れようとしている。眩い天神の時間から、優しき隠匿の夜神の時間になろうとしている。

「一朝一夕に美しい文字を書けるわけがなかろう。嬢は精霊との対話を続けなさい……いや、いやいや」

「いやいや? 何?」

 エリクディスは己の愚を悟った。愚を悟れるからこその賢者である。

「今日はもう遅いから明日にしなさい。あと、精霊とは対話するなどと肩肘を張らん方が良いのだ。遊びの中から新しい意思疎通を見つけるようにするんだ。犬とか猫を相手にするみたいに」

「遊ぶって、どうやって?」

「精霊に何かをさせるんじゃない。横暴さは捨てろ。一緒に何かをするんだ。あー、例えば、そうだ、光の精霊と一緒に踊るとかな」

「ふーん? 大体分かった」

 分かったという割りには首を傾げるシャハズである。愚かではなく勘も良いので答えは早めに見つけるであろう。

「ただし決して疲れるまでやってはいかん。精霊憑きになったらわしが嬢を殺さなければいかん」

 精霊に意識を奪われ操られる者を精霊憑きと呼ぶ。人間の常識など持ちようもなく、己の体が傷つくことも厭わずに無邪気に周囲を驚異的な精霊術で殺戮し破壊する存在になり得る。全く無害の存在になる事例もあるがそれが一時的なのかどうかは人知の外にある。退治しなければならない怪物なのだ。

「はーい」

「ジジイ、俺は?」

 予備の木筆は十分に削り終わったガイセルは暇になった。

「坊は嬢と飯と寝床の支度でもしとれ。泊まり込みだ」

「うーい」

 野営道具の展開をガイセルは始めた。

「ではチャルカンよ、書き直しだ。夜神の帳はまだ閉じていない」

「ウガァハァ……!」

 鉄骨が悲鳴を上げた。


■■■


・オーク

 緑系の特異な肌色と、頑健な巨体、猪のような牙が特徴。

 複数の中小規模程度の氏族に別れ、基本的に武勇を尊ぶ文化を持つ。

 知能指数が低いわけではないが筋力で解決出来る物事が比較的多く、そのような偏見がある。

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