Ⅴ 外道の隠修士(2)
それよりしばらくの後、三人の姿はカルチェ・レカンドラ郊外にある森の、廃墟と化した古い教会の中にあった。サン・ソルボーン大学の学生達の間では、幽霊が出ると恐れられている場所だ……。
「――ほう。それでそいつを
蔓が生い茂る崩れた石造りの教会に入り、燭台の蝋燭に明かりを灯すと、その静かな暗闇の中でサリュックは依頼の内容と経緯をエマングワイに話した。
「まあ、俺にかかれば、それくらいのこと不可能じゃねえが……
「ああ。あのいけすかねえジャンと小娘に一泡吹かせるならなんでもするぜ。なあ、ミカル!?」
「ハイ……」
朽ちたとはいえ教会には相応しく、修道士姿をしたエマングワイに問い質されたサリュックは、すぐさまそう答えると、無理やり奴隷のミカルにも相槌を打たせる。
「よしわかった。俺としれは金をもらえれば文句はねえ。人間様の自由意志ってやつだ。ちょっと待ってろ。今用意する。その黒い男にはちょうどいい悪魔がいるぜ――」
二人の意思を確認し、それからまた四半時ほど経った後、そこには
黒い修道士のローブに変わりはないが、その左胸に
また、仄かな燭台の明かりに照らし出される彼の足下を見れば、夜露に湿る冷たい石の床の上に、とぐろを巻く蛇の同心円と
じつはこのエマングワイ、こんな自堕落な生活を送ってはいるものの、パリーシィスにあるサン・ジェンヌフィーバ修道院で魔導書の研究に勤しむ、聖アルゴガルチーノ修道会所属の〝魔法修士〟なのだ。
魔法修士――それは、魔導書の自由な所持・利用を禁じるプロフェシア教会の中にあっても、特別にその悪魔召喚魔術を使うことが認められている修道士である。
そんな修道士の存在を見ても明らかな通り、けっきょく、この魔導書の禁書政策はその絶大な悪魔の力を教会や各国王権が独占するための方便でしかなかったが、それでも表向きは禁書の魔導書。いくら魔法修士といえど、自分勝手に使用していいというものではない。
しかし、このエマングワイは他の魔法修士とは違う。こっそり修道院を抜け出してはギャンブルに明け暮れ、そのギャンブルのためならば戒律だって平気で破る
で、この廃墟の教会はその小遣い稼ぎのために彼が使っている、魔導書の魔術のための儀式場というわけだ。
「――霊よ、現れよ! 偉大なる神の徳と知恵と慈愛によって我は汝に命ずる! 汝、ソロモン王が72柱の悪魔序列序列66番、暗黒大陸の侯爵キマリス!」
香を焚き、聖水で魔法円を清めた後、右手にハシバミの木の枝で造られた
「……霊よ、現れよ! 偉大なる神の徳と知恵と慈愛によって我は汝に命ずる! 汝、ソロモン王が72柱の悪魔序列序列66番、暗黒大陸の侯爵キマリス!」
……ヒヒィィィーン…。
すると、幾度、エマングワイが呪文を唱えた時のことだろうか、どこからともなく不気味な馬の嘶きが聞こえてきたかと思うと、魔法円の前方にある深緑の円を内包する三角形の上に、黒い霧のようなものが現れた。
その黒い霧は段々い凝固していき、いつしか黒い馬に跨る、黒い肌に黒い鎧を身に着けた騎乗の戦士へと姿を変える。
「ひっ…で、出たっ!」
「ウゥ……」
その異様な威圧感を纏った全身黒一色の戦士に、サリュックは腰を抜かして仰け反り、ミケルも冷や汗をかいてその巨体を硬直させる。
それが人間ではなく、エマングワイが召喚した悪魔であることは明らかだ。
「なんだ、来てみればここはエウロパか。こんな遠に呼び出して、何用だ人間?」
その黒い悪魔は馬上よりエマングワイを見下ろし、威厳に満ちた声で彼を問い質す。
「暗黒大陸の侯爵キマリスよ! 誰もが膝を屈する偉大なる主の名において我は命じる! ここに控える拳闘士ミカル・テーソーに憑依し、汝の力をこの者に与え、彼を以て最強の戦士とならしめよ! そして、
だが、その重々しい威圧にも臆することなく、エマングワイは左手のペンタクルを突きつけながら、堂々とした声で悪魔にそう命じる。
「ほう。オスクロ大陸出身の者か。ならば我との相性も良いが、やはりタダでとはいかん。死後、そなたかその者の魂を渡すというのであれば聞いてやらんでもないぞ? そこにもう一人いるやつの魂でもかまわん」
しかし、そこはやはり悪魔。お約束にも願いをかなえる対価として、魂を売り渡すように交換条件を提示してくる。
「とのことだ。無論、俺は御免こうむるがどうする? 引き返すなら今しかないぞ?」
まっとうな術者ならば、こうした悪魔の誘惑には絶対耳を貸さず、悪魔の恐れるペンタクルと己の交渉術でなんとかするのが鉄則であるが、基本、他人のことなどどうでもいいと思っている不良坊主のエマングワイはその労を惜しみ、悪魔の言う通りに事を進めようとする。
「お、俺だって冗談じゃねえ。ここはやっぱり本人のミカルってもんだろう? いいよなあミカル? なあに、魂を渡すのは死んだ後。まだまだ先の話だし、死にゃあ魂取られたってなんの問題もねえ。それとも何か? 大恩あるご主人様の頼みをおまえは聞けねえっていうんじゃないだろうな?」
一方、問われたサリュックはブルブルと首を横に振って自分では拒みつつ、ミカルにはうまいこと言い含めて悪魔との交換条件を飲まそうとする…というか、最早、上下関係を盾にほぼ強要しようとしている。
「ハ、ハイ…ワカリマシタ……」
主人であるサリュックに据わった眼で睨みつけられると、常日頃から家畜同然の奴隷として酷い扱いを受け、今や完全に精神的支配を受けているミカルは嫌々ながらもやむなく頷いてしまう。
「よし。交渉成立だ。では、その者に我が戦士としての最強の力を与えよう……」
ヒヒィィィィーン…。
それを見た悪魔はどこか嬉しげにそんな言葉を返すと、再びの馬の嘶きとともに魔法円の三角形を飛び出し、突然、ミカルへ向かって突進する。
「ウワァッ…!」
瞬間、両腕で顔を覆い、咄嗟に身構えるミカルだったが、ぶつかったと思われた悪魔は煙の如く霧散し、まるで彼の体に吸い込まれるかのようにして姿を消す。
「………ナンダ? ナンダカ力ガ沸イテクルゾ……ウゥ……ウオォォォォォオーッ!」
そして、わずかの後、不思議そうに自らの両手のひらを見つめていたミカルは、その尋常ならざる悪魔の力に耐えきれなくなり、まるでサバンナに生きる猛獣が如く、絶叫するような雄叫びを深夜の森の中に響き渡らせた。
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