Ⅳ 師弟の日常(3)
それから昼食をとった後……。
「――アチョーっ! ハイ! ハイ! ハイっ! ……フゥ……人形相手モ飽きたネ。オマエ、相手するネ」
「え、遠慮させていただきます……」
と、そんなやり取りを交わしながらマルクは露華の稽古に付き合ったり……。
「――『周易』ハ昨日言った陰陽八卦ノ理ヲ説く書ネ。デ、辰国ニおいて道を求める者ハ、不老不死ノ存在――即ち〝神仙〟ニナル事ヲ一つノ到達点ト考えているネ。そのためノ方法書かれたノガ『抱朴子』ネ」
「シンセン? プロフェシア教の聖人みたいなものかな? いやでも、不老不死だから違うか? じゃあ、もしかして
また、〝気〟について書かれた辰国の本についての講義を受けたりしながら時間を過ごし、夕方から倶楽部が営業を始め、拳闘士の試合も始まると、マルクはセコンドとして露華に付き添い、彼女の試合を初めて目にした。
「――のろま過ぎて、お話ニならないネっ!」
「ぶごはあっ…!」
今宵も観客の熱狂と歓声に包まれる闘技場……試合開始早々、指一本相手に触れさせることなく、巨漢の白人レスラーを蹴りの一撃で露華は会場の端にまで吹っ飛ばす。
「いやあ、昨日の悪漢倒した時も思ったけど、やっぱとんでもない強さだな……」
「なんだ、弟子なのに試合見るのは初めてか? みんな見た目に騙されてるが、露華の強さはまだまだこんなもんじゃねえよ。なんせ、俺が見出したやつなんだからな」
リングの片隅でその様子を眺め、彼女の力を再認識するマルクにとなりのジャンが自慢げに胸を張って言う。
「そういえば、ジャンさんは彼女とどうやって知り合ったんですか? なんか、家族と死に別れた後に拾われたとか言ってましたけど……」
「……ああん? ああ、なあに、ありゃあ5年ほど前のことだったか。白死病が大流行して、この花の王都パリーシィスでさえ景気が冷え込んじまってた頃のことさ――」
マルクに問われ、そのまま沈黙する対戦相手を覗いながら、ジャンはその時のことを思い出しながら語って聞かせる……。
「――ハァ……ようやく白死病が収まったはいいが、せっかく作った雑技団も客が入らねえで解散だし、これじゃあ商売あがったりだぜ……なんかこう、いい金になる興行はねえもんかな?」
その日の夜、ジャンはパリーシィスの場末の飲み屋で、ブツブツ独り言を口にしながら安いワインを飲んでいた。
「やっぱ地下で行われてるギャンブルか? それも金持ち相手のものだ……でも、それだとなかなか参入は難しいだろうしな……」
と、その時だった。
「ダメだダメだ。うちにガキを雇うような余裕はねえ。しかも、言葉もわからねえような東方人ならなおさらだ。
そんな店のオヤジの怒鳴り声がジャンの耳に聞こえた。
「ワタシ、何デモスル。雇テクレネ」
見れば、腰に手を当てて睨みつける店主の前には、小さな東方人の少女がちょこんと立っており、なおも片言のフランクル語で食い下がっている。
東方人というのは珍しいが、その光景自体は珍しいことではない……この不景気。職にあぶれて子供も大人もなりふりかまわず仕事を求めているのだ。
「ハァ……ご時世だねえ……」
横目でそれを眺め、他人のことは言えないジャンも溜息混じりに呟くのだったが。
「ほお、東方人のガキか。こいつは珍しい……お嬢ちゃん、仕事が欲しいのか? なら働き口を紹介してやるぜ。なあに、お金持ちのおじさんと遊ぶだけの簡単な仕事さ」
傍らの席で飲んでた一人の男が、やはり彼女に興味を示すと近寄って行ってそんな言葉をかけている。
そのいかにもな悪党面と品のない声色……おそらくは〝人買い〟や奴隷商人の類だろう。少女を騙してロリコンの貴族にでも売り渡すつもりなのだ。
「ウマイ話ニハ気ヲツケロト教ワッタネ。ダカラ、遠慮スルネ」
「んな怖がらなくても大丈夫だって。お兄さん達はとってもいい人なんだ。ほら、おとなしくこっちへ来な!」
少女も
だが、それを目にしても見て見ぬふりをして、店主も他の客達も、ジャンでさえ彼女を助けようとはしない。
そうして身寄りのない子が人買いに売られるのもまた、世間ではよくあることなのだ。特にこんな不景気のご時世ではろくな仕事にもありつけないだろうし、金持ちの愛玩物になった方が飢え死にしないだけまだましというものだろう。
「せちがねえ世の中だぜ……ま、これも運命だと諦めな……」
ところが、人生を達観しているかのような面持ちで、ジャンが誰にで言うとでもなく独りごちたその時。
突如、ガシャアン…! という大きな音が隣の席で鳴り響いたかと思うと、少女を連れ出そうとしていた人買いの男が、丸テーブルに頭から突っ込んで白眼を剥いている。
「……な!?」
咄嗟にジャンが振り返ると、今まさに男を蹴り飛ばしたとでもいうかのように、少女が伸ばした右足を高々と頭上に掲げている。
「怪シイヤツハ遠慮ナクブッ飛バセ。コレモ、我ガ陳一族ノ長老ノ教エネ」
「おい、マジかよ……あの子、一撃で大の男を蹴り飛ばしたぞ……」
なんとまあバランス感覚のよいことに、そのままの片脚姿勢を維持しながら妙なイントネーションで嘯いている少女を、店主や他の客達も唖然とした顔で見つめ、信じられないというような様子で呟いている……男を沈黙させたのが、彼女の仕業であることは間違いなかろう。
「こいつは……ひょっとすればひょっとするぞ……俺は、百年に一度の逸材を見つけたかもしれねえ……」
上段蹴りの
「そうだ。地下でやってる拳闘士の賭け試合なんか出したら、こいつはいい儲けになるぞ……お、お嬢ちゃん! 俺と組んで仕事しないか!?」
気がつくと、無意識にもジャンは椅子から跳び上がり、ようやく脚を下した少女に話しかけていた。
「ナンダ、マタ来タネ……」
「おおっと! 違う! そうじゃねえ! 俺は人買いじゃなく興行師だ! お嬢ちゃんのその拳闘の腕にほれ込んだんだよ! どうだ? 一緒にその腕を活かす仕事をしてみねえか!?」
ジャンも人買いだと勘違いし、早々、殴り倒そうと拳を振り上げる少女に、慌ててジャンは手を前に出して彼女を制すると、逸る気持ちを抑えながら声をかけた真義を口にする。
「ワタシノ……腕ネ?」
正直、何を言ってるのかよくわからなかったが、どうにも悪意はなさそな熱量で話すジャンを、少女――まだ8歳そこそこだった頃の露華は怪訝な顔で見つめ返した――。
「――とまあ、そんな感じであいつをスカウトして、それから大道芸みてえに腕に自信のある挑戦者から金を巻き上げたり、路上で賭け試合をしたりした後、この秘密倶楽部の試合を任されるまでになったってわけだ。いやあ、俺もここにくるまでずいぶん苦労したぜ……」
「8歳の頃からそんなだったんだあ……こりゃ、怒らせないように気をつけないとマジで命が危ないな……」
昔話を語り終わり、これまでの長い
「ジャン、弱すぎてツマラナイネ。もっとマトモなのト試合組むネ」
と、そんなところへ歓声に見送られながら、どこか不機嫌そうに露華がリングより戻ってくる。
「なあに。楽でいいじゃねえか。その方が毎度おまえに賭けてる俺も安心して見てられるしな。ほらよ、今日の取り分だ」
そうした露華に対し、今夜の勝ち試合にも満足している様子のジャンは、上機嫌に革袋から銅貨を取り出して彼女に渡す。
「オマエハ相変わらず金勘定ばかりネ……ツマラナイカラ帰るネ」
「……あ、待ってよ、老師! それじゃ、ジャンさんまた!」
そのコインを冷めた眼で見つめ、やはり不愛想にそう告げて、さっさと闘技場を出て行ってしまう露華に、マルクもジャンに挨拶をすると慌ててその後を追った。
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