Ⅳ 師弟の日常(2)
「ワタシ達従業員ハ裏口カラネ」
「あ、うん。へえ~……拳闘士っていうからコロッセオとか想像してたけど、意外とお洒落なとこで働いてるんだね」
先を行く露華に促され、感心するマルクも大通りを曲がると、脇道に面した裏口からその会員制倶楽部へと入る。
「おお、露華。今日は遅かったな……ん? 誰だそいつは?」
外観に比べれば随分と簡素なバックヤードの廊下を進み、従業員用の応接フロアへ出ると、そこに置いてある机で金勘定をしていた露華の雇い主、ジャン・イルモンドが声をかけてきた。
「久々ニ家事ヲしていたネ。デ、こっちハ昨日カラ弟子二なったマルクネ。付人モさせるカラ、そのつもりデ」
いるネ」
「あ、どうも。マルクと言います。どうぞ、よしなに」
ジャンに答えて露華が紹介すると、マルクも名乗ってペコリと頭を下げる。
「弟子? ……拳闘術の弟子か? 露華に弟子入りするとはまた物好きだな。まあ、こいつの強さは俺の折り紙付きだが、弟子入り早々、またずいぶんとしごかれたようだな」
そのマルクの大きく腫れた頬を見て、ジャンは眉根を歪めると露華の言葉をそんな風に解釈する。
「いえ、僕はそっちの方の弟子じゃなくて辰国の本の……まあ、いいか」
ジャンの誤解を解こうと咄嗟に口を開くマルクだったが、本当のことを説明するのには何かと支障があるし、面倒臭いのでやめておいた。
「じゃ、倶楽部ガ始まる夕方マデ、日課ノ鍛錬してるヨ。いつもノ部屋ヲ借りるネ」
「ああ。今日の相手は大したことないが、疲れが残らねえようほどほどにしとけよ?」
対して二人もそれ以上、マルクに触れることはなく、素っ気なく短い会話を交わしただけで、露華はさっさとさらに奥へ入って行ってしまう。
「あ、失礼します……」
マルクももう一度、ジャンに頭を下げて後を追うと、露華が向かったのは煉瓦壁がむき出しの、黴臭い粗末な小部屋だった。
拳闘士の控室だろうか? 明り取りの窓はあるが薄暗く、調度類も壁際に寄せられた簡素な机と椅子だけだ。
「サテ、鍛練ノ前ニ昼飯ネ。弟子として、倶楽部ノ給仕ニ言ってお茶ヲもらってくるネ。厨房ヘ行けバいるハズネ」
「あ、はい、老師……ん? ねえ、あの人形は何?」
部屋へ入るなり椅子に腰を下ろし、師匠風を吹かせてパシリを命じる露華であるが、素直に返事をして踵を返そうとしたマルクの目に、なにやら部屋の隅に置かれた等身大の人形のようなものが映る。
天に浮かぶ一つ目から放射線状に降り注ぐ光――〝神の眼差し〟と呼ばれるプロフェシア教の
奇妙なことに…というか罰当たりにも、その預言皇の等身大像には鎖がぐるぐる巻きに巻かれているし、所々焼け焦げたり、破損したりしている。
「アア、相手ガいないとなんだカラナ。拳打ヤ脚技ノ的ニ使ってるネ……ホラ、こういう風ニネ。ハイ! ハイ! ハイネ!」
マルクの質問に、露華は立ち上がってその木像に近づくと、そう言ってバシバシと殴る蹴るの暴行を辰国の武術らしき動きで加え始める。
「……それ、誰の像か知ってる?」
その様子を見たマルクは、苦笑いを浮かべながら念のため露華に尋ねてみる。
「たぶん、プロフェシア教ノお坊さんネ。カルチェ・レカンドラ通った時、学生ガ燃やしてたカラもらって来タネ。どうせ燃やすゴミなら要ラナイし、問題ナイネ」
「それ、ゴミ燃やしてたんじゃないと思うんだけど……」
まるで悪びれる様子もなくそう答える露華に、マルクはさらに渋い顔を作る。
事情を知らぬ露華にはそう見えても致し方のないことだが、おそらくそれはそんな単純なものではなく、サン・ソルボーン大学の学生達による預言皇と、彼を絶対視する〝レジティマム(正統派)〟に対する批判運動だったのだろう。
この頃、エウロパ世界では「神の言葉を預かれるのは預言皇のみ」とする伝統的なレジティマム教会に対し、開祖である〝はじまりの預言者〟――イェホシア・ガリールの教えを記した
北のガルマーナ地方、国境を接する神聖イスカンドリア帝国の領邦(※帝国を構成する小国家)の一つザックシェン公国で始まったこの宗教改革運動は、瞬く間にエウロパ全土へと広がりを見せ、ここフランクル王国においてもそれは例外ではなかったのである。
殊に血気盛んな学生達ならば核心的なその思想にかぶれ、より過激な行動に出ることもおかしくはない。
にしても、知らぬこととはいえ、その批判運動で火炙りにされていた最高位聖職者の像を武術の練習台に使っているとは……。
「知らないってのは怖いねえ……」
「何か問題でも?」と怪訝な顔をしている露華にそう呟くと、マルクは苦笑いを浮かべたまま、お茶をもらいに行くために改めて踵を返した――。
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