わたし、23才
あべせい
わたし、23才
わたし、「鈴木鐘子」。
すずきかねこ、と読む。でも、お店での名前は、「白川ますみ」。俗にいう、源氏名なんかではない。
その訳は、おいおい説明するとして、今夜起きた事件、いや、出来事から話していこう。
これまで23年間生きてきたわたしの人生のなかで、とってもとってもうれしいニュースだから。さらに付け加えると、これからのわたしの人生に、大きくかかわってきそうな気がするから。
わたしは秋田県の県庁所在地で生まれた。7人きょうだいの5番目。わたしは四女で、上に兄が一人、姉が三人、下には妹が一人、弟が一人いる。
実家は農家。わたしがこどもの頃は貧しくて、学校で必要な文房具さえ満足に買ってもらえなかった。
あるとき、母に、鉛筆が欲しいと言うと、
「食ってンのかッ!」と激しい剣幕で叱られた。
わたしは義務教育しか受けていない。親はお金がないからだと言ったが、いまでは信じていない。
だから、中卒。でも、すぐ下の妹と弟は、高校に進学した。わたしより、頭は悪いはずなのに。
時代の流れと言ってしまえば簡単だけれど、その頃から実家の田畑が用地買収にあって次々に売れ出し、お金が入ったことが大きい。
でも、わたしが中卒どまりなのは、お金のせいだけではない。親に嫌われていたからだと、いまでも思っている。
7人もこどもがいたら、好き嫌いはできるだろうけれど、親の責任というものがあるじゃない。
そのわたしが、中学卒業後、ひとりで東京に出てくるまでには、いろいろあった。ありすぎるほど。それも、もうすぐ話すことができる。
そんなことより今夜は、お店の同僚の足塚霞(あしづかかすみ)クンから誘われたことを話す。
足塚クンは、わたしが勤めている喫茶「ジョーイ」のバーテンをしている。
ジョーイは、東京で指折りの繁華街を抱えるJRの駅から、徒歩数分の距離にある。ペンシルビルと呼ばれるほど細長い5階建てビルの1階から5階まで全部がお店で、ビルが古いせいか、エレベータがない。この点を除けば、職場としてはまァ合格かな。
足塚クンのバーテンの仕事は、カウンターで仕切られた一畳ほどのキッチンのなかで、コーヒーをたてたり、パフェをつくったり。わたしたち13人のウエイトレスがお客のテーブルに運ぶ飲みもの、食べ物すべてを作っている。
年はわたしと同じくらい。この前、どういうつもりか、わたしに履歴書を見せてくれたことがあった。そこにはわたしと同じ年の生まれで、わたしより3ヶ月早い成年月日が書かれてあった。
この業界で、履歴書に本当のことを書くひとはいないと思うのだけれど、彼の履歴書は本当なのかしら……。
今夜わたしは遅番で、あがりが夜の11時だった。
11時10分頃だったと思う。お店を出てまっすぐ駅に歩いていくと、お店から50メートルほど離れたところで後ろから、
「白川さん」
と、声をかけられた。
それが足塚クンだった。
彼は入店して3ヵ月ほど。わたしは1年とすこしたっている。
わたしはそれまで、彼について特に意識はしていなかった。5人いるバーテンさんのなかでは、好きでも嫌いでもないふつうの存在。ちょっと気になったのは、履歴書を見せてくれたとき、学歴が有名私立大学だったこと。わたしみたいなのは、バカにするンだろうな、くらいの感じだったと思う。
それと、これはあとで思ったのだけれど、大卒で23才ということは、卒業と同時に就職しなかったのだ。どうしてだろうとちょっと不思議な気持ちがした。
ジョーイのバーテンはウエイトレスと同じ、全員アルバイトだ。水商売はこれが当たり前。
それと、彼とのかかわりについていうと、彼がお店に面接にきたとき、わたしが、彼とマネージャーのいるテーブルに、コーヒーをもっていったこと。そのときの彼は、おとなしくて、まじめそうな印象だったのを覚えている。
話が前後したけれど、今夜わたしを追いかけてきて言った彼の誘い文句は、
「お茶、飲みにいきませんか?」
だった。
よくあるせりふだけれど、わたしは驚いた。お店では、冗談ひとつ言わないし、わたしには、カウンターの前でオーダーを告げるわたしに、キッチンのなかから「はい」と返事するだけ。元気はあるけれど、男としてはパンチに乏しい。
だから、履歴書を見せられたときもびっくりしたのだけれど。
わたしの返事は、何の考えもなく、
「これから帰って、お風呂に行くの」
とすぐに出た。前々から準備していたみたい。そんなことはないのに。
わたしのアパートは、六畳一間に小さな流しがついているだけ。トイレは共同、風呂ナシだから、アパートから歩いて5分のお風呂屋さんにはほぼ毎日通っている。
すると、彼は、
「これからだと遅くなるでしょう。まだ、やっているンですか?」
「お風呂屋さんは、12時まであいているから」
「白川さんはえらいなァ。おれなんか、風呂は……。やめておこう。恥ずかしいから……」
彼はそう言い、わたしと一緒に駅まで歩き、駅構内で左右に別れた。彼はJR、わたしは私鉄だった。
足塚クンは、わたしのこと、気にかけている。よく言えば、好き……かも。悪い気はしない。彼はわたしのタイプではないけれど、つきあってもいい。
わたしはもちろん男性経験は、ある。
そのカレとは、結婚したいと思っていた。本気で。
けれど、カレは親に反対され、ほかのひとと結婚した。
それでも、わたしとのつきあいは続けている。どうして、って? 自分でもはっきりとはわからない。でも、わたしはカレの愛人になるつもりなんかない。絶対に。カレは、いまでもわたしの部屋の合い鍵を持っている。
いまのアパートは、カレが見つけてくれた。
カレが結婚する前、わたしはカレの家まで挨拶に行ったことがある。
そのとき、つきあって一年がたっていた。わたしはいまとは別の喫茶店のウエイトレス。
カレは、運送会社の運転手だった。と言っても、その会社はカレのお父さんの経営だったから、長男のカレは跡継ぎ。二代目社長と考えられていたから、ジュニアの嫁とりに家族は慎重だったのだろう。
でも、わたしはどうしてあんなにカッコをつけたのか。お父さんがお酒好きと聞いていたから、一升瓶を風呂敷に包んで持参した。そのために買った黒いスーツを着て。
いま思うとバッカみたい。
わたしはカレの家の玄関でひざまずき、上がり框に三つ指ついて、現れた父親と思われる60代の男性に深々と頭をさげた。
カレはその後ろにいて、右手でオッケーサインを出していた。だから、わたしは安心していたのに、60男は、仁王立ちのまま、
「ワシは水商売の女は大嫌いだ。息子と結婚!? うちは堅気の家だ。二度と来るな!」
とどなりつけ、ケンもほろろだった。
帰り道、手に下げていた一升瓶に気がつき、
紙袋ごと目の前の電柱にたたきつけた。
自分でも驚くほど、大きな音がした。ちょうど自転車で通りかかったお爺さんが足を止め、わたしをギョッとした目で見た。
「お姉ちゃん、どうかしたンね?」
紙袋の底が濡れ、ポタポタと液体が零れ落ちている。わたしは泣きたい気持ちだった。
いまのアパートに入居するとき、不動産屋で契約書に名前を書くとき、茶目っ気を出して、「白川ますみ」と書いた。
カレが見つけてくれたアパートということもあったが、わたしはカレの奥さんになってもいい、と思っていたから……。
そんなこんなが一度に思い出され、わたしはそのお爺さんに向かって、
「やかましシィッ! ひっこんでろッ!」
と、思いもしない悪態をついた。
カレと出会って、一年余り。そのとき、わたしのなかのカレの存在は、一升瓶のように粉々に砕け散った。
無理して買った「大吟醸」が無駄になり、急に惜しくなったけれど。
カレはその3ヵ月後に女子大出の女と結婚した、と知らされた。
カレは初めての男だったけれど、父親の前では何も言えない姿を見て、情けないというより、やりきれない思いがした。
あれから、そろそろ8ヶ月かな。
「白川」はカレの苗字。「ますみ」は、わたしが好きで付けた。
カレはいまでも二週間に一度くらい、アパートにやってくる。わたしは部屋のなかには入れるが、長居はさせない。カレも10分程で帰っていく。
話すことがないのだから、仕方ない。そのうち来なくなるだろう。その前に、合いカギを早く返してもらわない、と。
足塚クンに声をかけてもらった翌日から、わたしのなかで何かが変わり始めた。
それまでなんとも思っていなかった足塚クンのことが気になり出したのだ。
わたしのタイプじゃない。でも、嫌いなひとではない。つきあえないタイプではない……。でも、足塚クンのほうは、わたしを見ていないのがわかる。一度断られたら、諦める、あとは追わないタイプなのかしら? 昔、よく聞いた「山手線と女は追うな。あとからすぐに来る」って、ノリなのか。
わたしは昨夜のきょうなのに、妙に焦っている。彼の誘いを断ったわけではない。お風呂に行くから時間がない、と言っただけなのに。本当にお風呂に行くンだったから。
もっとも、前々から好きなひとの誘いだったら、お風呂なんかやめて、「いいわよ」と即座に答えていただろうけれど。
それでも、もう一度誘えばいいじゃないの。足塚クン、女心がわからないのッ!
わたしは、キッチンとホールを仕切るカウンターの前で、オーダーしたコーヒーが出来るのを待ちながら、キッチンのなかで、小鍋で沸かしたコーヒーを、無表情にカップに注ぐ彼を見つめながら、心のなかで叫んでいた。
彼のなかに、わたしはもういない。このまま終わる……。なんとかしなきゃ。
わたしはともだちが少ない。いまの職場でも親しく話せるのはひとりだけ。その絹代に頼もう。
翌々日の夜。
絹代がどんな風に誘ったのか、よくは知らないけれど、足塚クンは来た。でも、つまらなそうな顔をしている。
わたしと絹代、それに、駅の反対側の喫茶店でウエイトレスをしている同郷のサチ子を加えたわたしたち女3人と足塚クンで、ジョーイ近くの深夜喫茶に入った。
わたしの狙いは、足塚クンと親しくなること。絹代とサチ子は邪魔だけれど、彼と二人きりになるのは、まだ怖い。どんなひとか、まだなにも知らないもの。
この夜、絹代のようすがおかしい。お店で働いているときもそうだったが、表情が険しい。
みんなで居酒屋に行く?って話になったとき、足塚クンが突然、
「ぼくのアパートに行って、飲みませんか」
と提案した。
その話に真っ先に飛びついたのが、絹代だった。
「それいい、いいわ。行こうッ、行ってバーって飲もう!」
やけくそ、ってことばがぴったりの物言いだ。危険なにおいがする。わたしは絹代のこんな姿を知らない。もっとも、彼女が入店したのは、足塚クンより十日ほど早いだけ。
わたしはサチ子を見た。
「いいじゃない」
と目で答えている。
サチ子はわたしが上京してから、最初のお店で知り合った仲だから、頻繁に会っているわけではないけれど、5年のつきあいになる。彼女が家賃を滞納して困っていたとき、半年近く、わたしのアパートに居候させてあげたこともある。
調子のいい女だけれど、そんなに悪い性格ではない、と思っている。
男ひとりの部屋に行くということは、「同意」したとみなされる。なんて、昔、お客さんから聞いたことがあるけれど、こっちは3人なのだから、まァいいか。
お酒は、安物だけど、部屋にあるという。どんなアパートなのか、間取りも何も知らないのに、承知したのは、わたし、足塚クンの暮らしのようすを知りたかったからだと思う。
それに、彼のアパートまでは、歩いていけるというンだもの。ということは、そんなに遠くない。いざとなったら、走って逃げればいい。
ところが、JRのガードをくぐり、明治通りをひたすらまっすぐ歩いてもまだ着かない。
「まだァー?」
絹代がぐずつきだした。
サチ子もわたしも、口には出さないが、右に同じ。
近くっていうから、10分くらいと思っていた。しかし、あとから考えると、ジョーイがあるのは駅から数分のところ。わたしたちが入った喫茶店は、ジョーイから1分もかからない。
その店から徒歩10分圏内のところに、喫茶店のバーテンやボーイが借りられるほどの安アパートがあるわけがない。
足塚クンもお店までは電車通勤だと聞いていた。最寄り駅は、確か「大塚」だったかな。
歩く方向から見ると、間違いではなさそう。ウソをついているとは思えない。女3人を一度にリョウリできるほどの体力もなさそうだし。彼は太ってないけれど、小柄のほう。
「もうちょっと。ごめん、一度、前に歩いたときは、20数分で着いたンだけれど……」
エッー! もう20分はたっている。
「だらだら歩いているンだから、着かないのよ。ねェ、セッちゃん」
その瞬間、サチ子もわたしもドッキンとした。
サチ子はシマッタという顔だし、わたしはやられたッ、という思い。
足塚クンを見ると、なるほどという顔をしていて、
「そうですよね」
と応じた。
気づいていない。それほどのバカなのかしら。わたしはちょっと不安になったが、この際、これでいいか。
わたしはサチ子には、「節子」と名乗っていた。彼女と出会ったお店での名前だったから。ジョーイでは偽名を使っているから、気をつけて、とふだんから注意していたのに。
さらに10分、ようやく、足塚クンのアパートに到着した。
でも、それはアパートと言うより、下宿といったほうがイメージしやすい。
二階建て民家の二階に3部屋があり、梯子のように狭くて急な階段を登る。
彼の部屋は真ん中の四畳半。下に、60代の大家夫婦が住んでいるという。
廊下に沿って共同の流しがあり、突き当たりが共同トイレ。
彼の部屋は、収納として半畳の押入れがあるだけだった。あとは壁に並べるように、小さな冷蔵庫、小さな茶箪笥、木製の机、椅子、組み立ての書棚。
なんだか、学生さんの下宿部屋に通された気分がした。わたしがいちばん気にしていたのは、女性のニオイだったが、そんなものはカケラも感じられなかった。わたしはなんだか、拍子抜けした。彼はモテないのかしら……。
「適当なコップがないから、これで我慢してください」
足塚クンはそう言って、湯呑み茶碗2つと、ガラスのコップを2つ出した。
それと、ジン。3分の1ほど減っている。
ジンのなかでも、酒屋でいちばん安く買える銘柄。学生さんが行くパブなどで、ジントニックやジンライムなどにして出す酒だ。イギリスでは肉体労働者が飲むと聞いている。
わたしはまだジンを飲んだことがない。焼酎の一種だから、アルコール度数は強い。だから、気をつけなくちゃ……。
ところが。
ジンを水道の水で3倍ほどに薄め、4人が一杯づつ飲んだ頃、絹代の声がいきなり大きくなった。
顔が青くなっている。
「なによ。あんな男ッ! こっちからお見限りヨ」
昼間、お店にいるときも、わたしは彼女から愚痴をこぼされた。つきあっている男と1ヵ月近く連絡がとれないので心配していたら、ほかに女のいることがわかった。さんざんお金を使わされて腹が立つ、と怒っていた。
わたしは、扱いあぐねている足塚クンに、そっと顔を近寄せ、
「フラれたみたい。相手にしないほうがいいわ」
とささやいた。
その直後だった。絹代は、いきなりジンのビンを持ちあげると、蓋を開け、そのまま口へ。仰向きにドクドクと流し込んだ。
「やめなさいヨ」
「やめて!」
とわたしもサチ子も注意したが、2、3秒で絹代はむせたようになり、ジンが彼女の口からあふれ出た。
それでも、かなりの量を飲んだだろう。ジンはビンの底から数センチまでに減っていたから。
しかし、絹代は平然としている。
ジンはアルコールが40度以上ある強いスピリッツだ。飲みなれているのならまだしも……。わたしは、何か起きはしないかと不安になった。
わたしだけではない。その場にいた足塚クンもサチ子も同じ気持ちだったに違いない。
数分後、絹代は気分が悪いといいだした。
やはり、来た。
「横になったほうがいいよ」
足塚クンは、布団を敷くと言い、押入れを開けた。
わたしは彼を手伝い、窓側に頭が行くように布団を敷き、枕を置く。サチ子は苦しそうな絹代をその上に寝かせる。
さて、どうする? 時刻は零時を過ぎている。電車はもうないだろう。
わたしはサチ子に目で尋ねた。ここに来るときは、始発まで飲んで過ごそうと決めていたが……。
するとサチ子は、
「帰ろ……」
と蚊の無くな声で言った。
わたしは、足塚クンの部屋に絹代ひとりを置いたままにすることが気になった。もし、間違いがあったら。その結果には、わたしにも責任がある。そんなことは望んでいないが、それはそれで仕方ない。わたしの足塚クンに対する気持ちは、まだその程度なのだから。
そのときだった。
「ゲボッーッ!」
絹代がモドした。
足塚クンが反射的に、絹代の頭の下の枕を飛ばす。わたしは洗面器のようなものはないかと探すが、見当たらない。
サチ子は絹代の顔を横に向けた。吐き切るまでは手が出せないという表情だ。
足塚クンはさすがにやりきれない顔をしていたが、数分して、絹代の呼吸が治まると、素早かった。
どこからか新しいシーツを取り出し、
「このひと、ちょっとどかせて……」
と言った。
わたしとサチ子は彼の意図がわかったので、すぐに絹代の体を少し持ち上げ、布団の脇にずらせた。
すると、足塚クンは、絹代の嘔吐物を、敷いてあったシーツでクルクルとまとめて包み込み、新しいシーツを布団に敷き直した。
あっと言う間だった。その手際のよさに、わたしは唖然とした。
絹代は何事もなかったように、新しいシーツの上に再び横になると、気持ちよさそうに目を閉じた。
明日は遅番。絹代も同じ。サチ子も仕事がある。休みは足塚クンだけ。
「足塚クン、悪いけど、わたしたち、帰るね」
わたしはうかがうようにして、彼に言った。
「エッ、このまま……」
足塚クンはそうつぶやいて、心底困った顔をした。彼は、わたしにどうして欲しかったのだろうか。
「ぼくの部屋で朝まで飲み明かそう」
と誘ったのは、彼だ。彼にも、責任の一端はある。
わたしは絹代とプライベートではほとんどつきあいはない。仕事終わりで喫茶店に行ったのも、この夜が初めてだった。その程度の仲の絹代に、足塚クンの誘い出しを頼んだわたしは自分勝手かも知れない。彼女の住まいも家族もよくは知らない。
「絹代、先に帰るから、ゆっくりここで体を休めていて……」
わたしは足塚クンの返事を待たずにそう言った。
絹代は聞こえたのか、頭を少しだけ動かした。わたしとサチ子は、それを了解と受け取り、二人を残して彼のアパートを出た。
わたしたちはすぐに表の通りでタクシーを掴まえた。
「節子、彼、ヤッちゃうかもよ」
「そう?」
「それでもいいの?」
わたしは答えなかったが、足塚クンの人柄を確かめるいい機会かもしれない、という無責任な考えがもたげていた。
遅番は午後2時出勤だ。
タクシーで自宅に戻ったのが、深夜の1時過ぎ。それから顔と手足を洗って、着替えをして、ベッドに腰掛け、缶ビールを飲んでから寝た。
いつも通り、2時少し前、お店に入り、更衣室に行くと、すでに絹代が椅子に腰掛け、ゆったりタバコを吸っている。
「おはよう」
とわたし。
絹代は、笑顔で、
「おはよう、元気?」
と返す。
わたしはいつもと変わらない彼女にちょっぴり不安を覚えながらもそばに寄ると、聞かずにいられなかった。
「どうだった? 体、元に戻った?」
本当は別の心配をしたのだけれど、いきなりは聞けない。
「ごめんね。心配かけて。ちょっとムチャしたかな」
「もうすっきりしたのね。カレのことも……」
「そう。もうあきらめてやった」
「よかった……」
「ますみ、足塚クンには感心したよ」
「エッ、なに?」
わたしは、聞き逃すまいと、耳をそばだてた。
「彼、何もしてこなかった。わたしは、イイよといったのだけれど、ね」
「そう……」
わたしはさりげなく聞き流すような顔を装いながら、彼の評価に三重丸をつけていた。
翌日。
勤務中、足塚クンがキッチンの中から、カウンターの前で待っているわたしに、できあがったコーヒーを差し出しながら、
「ますみさん、こんど二人だけでお茶飲みに行きませんか」
とささやいた。
「そうね」
わたしの返事は、本当は「勿論、いいわよ」だったが、少しじらしてやりたくなった。
それに、もし本気でつきあうのなら、「ますみさん」でないことも打ち明けなればいけない。すると、ジュニアの話も、一升瓶の話もしなくてはならないか。
わたしにとっては、厄介なことだが、キッチンからわたしを見つめている彼のやさしい笑顔を見ていると、なんでもないことのように、いやむしろ、そのことがとっても楽しいことのように思えてきた。
(了)
わたし、23才 あべせい @abesei
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