第5話 長崎の騒ぎ

長崎の騒ぎ


年の瀬も迫ったある日、伊豆守が下城の途中で清十郎の屋敷に立ち寄った

「清十郎、長崎の会所は知っておるか」 

「たしか、高木という町人が名字帯刀を許され八十俵の扶持を頂いているのでは」

「左様、警護役を黒田藩と鍋島藩が交互に行っておるのだが、黒田藩士と会所の町役人が刃傷沙汰になっての。長崎奉行から知らせは来ているのだが、妙に会所を庇っている節が見える。仔細が分からぬゆえ、行って探ってくれぬか」

「承知しました」


子之助を呼び長崎への出立を知らせた

「此度は何組連れて行きますか」

「長崎奉行に懸念がある。半分は連れていきたいの」

「今は殿様からの下命もございませぬ。殆ど連れても支障はないかと」

「二組残そうか」

「承知しました。先行させます。長崎の吉三郎宅で」

「分かった。わしは巳組を連れて東海道を上る」

「東海道を。大事ないでしょうか」

「鬼が出るか蛇が出るか、楽しみであろう」


江戸を立ち六日目、鳴海宿に着いた清十郎は尾張領に入り、監視の目の気配を感じていた

「巳之助、宿を取るか廃寺を探してみるか、どうする」

「宿場に入る以前から監視の目がありますな。町人に迷惑がかかると面倒なことになります。鳴海宿にも干支組の忍び店がありますが、避けたほうよろしいでしょう」

「ならば廃屋を探すか」

宿場を離れ林道を八町ほど歩くと左手に廃屋があった

「ここにするかの」

清十郎と巳之助は廃屋に入った。巳之助の配下は、半里ほど後を歩いている。

恐らく配下には気付いていない。

徐々に監視の目が近寄って来た

「若、相手は四、五人。周りを囲みつつありますようで」

「巳之助は、床下に潜んでおれ。わしが相手をしている間にな」

「承知」

気配が迫って来た。

戸を蹴破り刀を突いて来た黒装束の刃を腕もろとも切落した。

「御土居下組かの」

「・・・」

「返答がないところを見ると図星か」

左右から斬り込んで来た、右手側の首を切り、そのまま左から来た刃を髪一重で避け、車輪に回して相手の首に刃を入れた。

三人倒され、怖じ気づいたのか

「引けっ」

と逃げて行った

一刻半ほどして巳之助が戻ってきた

「どうであった」

「尾張城下の大きな屋敷に入ったので、干支の隠れ店の喜助に聞いたところ、尾張家付家老成瀬隼人正の屋敷でごさいました、後から来た配下に監視させております」

「ほう、黒幕は成瀬殿か」

「このまま東海道を行きますか」

「こちらに、疚しいことはない。このまま進もう」

とはいえ、長崎の用向きある。宮宿は通り過ぎ、伊勢亀山宿を目指したが、尾張領を出る手前、林道で前を遮る集団があった。

「出おったな。何もせず通すとは思えなんだが」

「配下は山に潜んでおります」

「御土居下の面々かの」

「・・・」

「先を急ぐゆえ、邪魔は迷惑なのだが」

刀を抜き集団が迫ってきた。

清十郎の刃はまだ鞘の中である。先頭の侍が清十郎の顔面を狙って振り下ろした。清十郎の腰が沈み鯉口を切ると同時に振り下ろされた刃を避け、相手の首に切先を入れていた。

先陣が倒れたことで乱闘になった。

巳之助も刃を振るい、十人ほどいた集団も残り三人になっていた

「無用な血を流すこともなかろう。引かぬか」

「坂東十三右衛門が一子、坂東小太郎。父の仇討ちである」

「仇討ちか、闇討ちに来たものを排除しまでであるがの。それを仇討ちとは片腹痛い」

「言うな」

小太郎が気合いを溜め、八相に構えた。清十郎は右半身にて、刀は右手一本で背後に構える

「それが父を討った剣か」

「左様。お主は尾張裏柳生よの」

小太郎が小走りに向かいながら刃を振り下ろす

刃風を感じながら、左手に流し振り下ろされた刀の柄下に清十郎の右手が入った

ぎぇぇぇ

清十郎の刃は、小太郎の喉から入り、頭蓋を抜き刺した

秘剣鬼刺し

集団は一人として残っていなかった

巳之助は、配下を呼び寄せ、亡骸を崖下へ落とすよう指示した

「清十郎さま。先を急ぎましょう」


江戸を立って九日目、大阪に着いた

「巳之助、樽廻船は下関を経由して佐渡まで行くそうな。下関まで乗せて貰えぬかの」

「聞いてみましょう」

港で積荷を運んでいる廻船問屋らしき商人に声をかけた

「ちと、尋ねたいのだが」

「なんでしょう」

「あの樽廻船は佐渡まで行くのか」

「へぇ、途中、博多に寄りますけど。何か」

「人を二人乗せてもらうことは、できぬかの」

「貴方と、もう一人は」

「あそこに」

「お侍さまで」

「左様、長崎まで行きたいのじゃ。船で博多まで行けると有り難い」

「剣の腕は」  

「剣の腕が必要なのか」

「近頃、安芸のあたりで海賊でるのですよ。腕が良ければタダで乗せますが」

「腕は保証する。腕の立つ者が他にもいるのだが、どうかの」

「何人でしょ」

「あと八人はいる。弓も持っておるぞ」

「弓矢は心強いですな。では、明日朝出港しますので、明六つには来てください」


「若、明日明六つに出るそうで、下関ではなく博多に寄るそうで」

「乗せてもらえるのか」

「はい。配下も乗せられます。ただ途中海賊が出るそうで、その退治が条件になりました」

「海賊とな。巳之助、矢を準備せねばならぬな」

「今日中に手配しておきます」


その夜は宿を取り、巳之助一党は矢を購った

「巳之助、海賊を退治するには、樽廻船に寄せ付けぬことじゃ」

「はい、矢も十分購いました」

「相手も木舟であろう、火矢の準備もしておけ」

「はっ」


大阪を出港した樽廻船は、東風を受け滑るように船出した

途中何事もなく進んでいるように見えたが、商人の言うように安芸の手前でそれらしき舟が三艘近づいてきた

「海賊だ。海賊が出たぞ」

「巳之助、船賃分働こうぞ」

「承知。火矢を放て」

巳組の九人が一斉に三艘に向け火矢を放った。海賊は弓矢が飛んでくるとは思っていなかったのか、慌てて盾を使い矢を防ぐが、次々と放たれる火矢にニ艘が焼け落ちた

残る一艘が樽廻船に近づき頭目と思しき男が乗り込んで来た

「お主ら、よくも火矢で大事な舟を燃やしてくれたの。この舟ごと頂く」

「海賊風情が何を言うておる」

「なにぃ。どサンピンが。者共かかれ」

十人ほどの海賊が刀や槍を持って向かって来た

が、兎組や清十郎の刃に勝てるはずもなく、頭目だけが残った

「さて、残るはお主だけか」

「くっ、痩せても枯れても海賊様だ」

と向かって来たが、清十郎の相手ではなかった

切り倒され、海へ落ちた

「ありがとうございます。船も品物も無事にすみました」

「いや、船賃分の働きをせねばな」

風任せの樽廻船であるが、順調に航海し夕方には博多へ着いた

「船頭よ、世話になった」

「お侍、こっちこそ無事に着けて良かった。恩に切りますぜ。帰りの船に合えば、また乗ってくだせい」

「そうしよう」


その日、博多の忍び店に泊まった清十郎一行は、長崎での黒田藩士と会所の刃傷沙汰について、忍び店の茂吉に聞いた

「長崎での刃傷沙汰について耳にしておるか」

「黒田藩士の噂話でございますが、長崎の料亭で、黒田藩家老一行が誤って会所の高木某かの着物に泥を掛けたようで、その場で黒田藩士も謝罪したようですが、高木某が許せぬとかなんとかで、刀を抜き切りかかったそうです」

「高木家は町人とはいえ、名字帯刀を許されておるからの。それにしても大人気ないの」

「はい。切られた黒田藩としては、我慢がならず、その夜に夜襲をかけて、高木某を切ったとか」

「なるほど。その裁定に長崎奉行は高木家の非を認めず、黒田藩に責めがあるような報告をしたようだが」

「高木家は会所を牛耳っておりまして、幕府からは八十俵の軽輩扱いではございますが、南蛮貿易での稼ぎは年に十万両を超えるといいますから、長崎奉行への賄賂も多額になっておるのでは」

「幕府への運上金も五万両というからの。幕閣への鼻薬も効いていような」

「黒田藩の藩主は宣政公か。確か病弱でお国入りできず、叔父の長清殿が藩政を仕切っておるはず。黒田藩としても忸怩たる思いがあろうな」

「藩士の中にも高木許すまじという怨嗟が渦巻いております」

「さらに大きな騒動にならぬようにせねばなるまい。明日長崎へ立つ」


長崎街道を二日で通った一行は、出島近くで鍛冶屋を営む庄三郎店に入った

他の干支組は既に探索に出ている

「庄三郎、これまでに分かったことはないか」

「黒田藩士に切られた高木彦右衛門は蘭方医の手術で事なきを得たようです。黒田藩士としては、悔やみきれないようで、再度襲撃を画策しているやに聞いております」

「その襲撃は止めねばならぬな。黒田藩の家老は誰じゃ」

「立花織部と申される方で、西泊番所に詰めておられます」

「会ってみようかの」

「いきなり会われますか」

「襲撃を止めるのが先決であろう。西泊番所に潜り込む術はあるか」

「ございます。陽が落ちましたら案内いたしましょう」


暮六つの鐘がなり、番所の表に立っていた人の影も少なくなった五つ半、庄三郎の案内で、家老立花織部の部屋の天井裏に潜んだ

寝床に付いた立花に

「立花殿」

「ん・・・誰じゃ」

「大目付酒井伊豆守の命を受けて参上したものでござる。少々話したきことがござってな」

「何、大目付じゃと。此度の騒動で幕府に目をつけられたか」

「ちと、違うので。話を聞いて頂けようか」

「出て参れ」

天井裏からするりと降りた清十郎は、伊豆守の書付を見せた

「ちと違うとは、どういうことじゃ」

「此度の一件、伊豆守殿は不審に思うておられる」

「不審とは、如何なることじゃ」

「事の発端は、高木家の家来が黒田藩士に切りつけたこと」

「左様じゃ。誠に大人気ない輩での」

「しかしながら、長崎奉行の報告は黒田藩士に非があると送っておりもうす」

「それが我が藩士の怒りを買うておる」

「それは、我らも同じ思いでおりましての、長崎奉行に不審を持っております」

「なるほど。それで」

「既に奉行の所へは探索を入れております。此度の報告に私情を挟んでおれば、奉行を処断せねばなりませぬ」

「ほう、大目付殿には左様な考えか」

「いかにも。されば、奉行の悪行が表沙汰になるまで、藩士の襲撃を収めて頂きたい」

「幕府の裁定に間に合うのか」

「伊豆守が抑えております」

「分かった。できるだけ抑えるが、そう長くは無理じゃぞ」

「藩主宣政公のためにも我慢を」

「承知した」


庄三郎の忍び店に戻った清十郎は、干支組の報告を聞いていた

「子之助、奉行の様子はどうじゃ」 

「毎晩のごとく高木の接待を受けております。あの分では賄賂も数千両におよぶのではないかと」 

「どこに貯め込んておるかの、奉行所の中には間違いないであろうが」

「それも既に見つけております」

「そうか。父上に早飛脚を願いたいが」

「伝書鳩を五羽用意しております。飛脚より早いかと」

「手回しが良いな、では書状を二枚書くゆえ、二羽使ってくれ。用心のためにな」

鳩を飛ばして三日後には、清十郎の屋敷にニ羽とも帰って来た

書状を開け中身を確認した竜蔵は急ぎ伊豆守の元へ走った

「なるほど、長崎奉行 山科大和守は賄賂を溜め込み、高木へ甘い裁定をな。明日、青山様と上様に報告致す。竜蔵はそれまで、ここに留まっておれ」

「承知しました」


翌日、吉宗と老中青山下総守に、事の次第を届けた

「なに、多額の賄賂を受け取っておったか。黒田家が外様と思うて高木に手心を加えたな」

「如何なさいますか。事の発端は黒田藩士が謝罪したにも関わらず高木家家臣が先に切ったこと。黒田藩士に非はござらぬと思えます」

「青山、お主の考えは」

「黒田家はお咎めなし、高木家は家財没収、さらに山科は罷免のうえ減俸で如何かと」

「山科が受け取った賄賂も没収じゃ。急ぎ使いを出せ」

「承知しました」


伊豆守は、その裁定を竜蔵に伝え、急ぎ長崎へ向かうよう命じた

東海道を行くより船を使った方が早いと判断した竜蔵は、大阪行きの船に乗り、大阪からも樽廻船に乗せてもらい博多に着いたのは、江戸を立って五日目であった。そのまま長崎街道を走り七日目の朝、長崎へ着いた

「若、殿からの伝言にございます」

「分かった、今夜また西泊番所へ潜入する」

前回と同じ五つ半、立花織部の寝所へ入った

「立花殿、よろしいか」

「ん、過日の者か」

「左様、上様の裁定が下り申したゆえ伝えに参りました」

「降りてこよ」

するりと降り立った清十郎は、少しやつれた立花を見た

「上様の裁定をお伝えする。正式には後日、使いが参るゆえ」

「して、如何様になった」

「黒田家はお咎めなし。高木家は家財没収。長崎奉行山科大和守は罷免のうえ、減俸と決まりました」

「それは真か」

「左様」

「そうか、これで藩士の怒りも収まろう」

「ただ、正式な使いが来るまでは内密に願いたい。高木や山科に悟られぬよう」 

「あい分かった。ところで、そなた名は何という」

「某、夏目清十郎と申します。では御免」

寝所を抜けた清十郎は、静かな西泊番所を眺め、踵を返した


それより七日後、幕府の目付組頭、高森三太夫が長崎を訪れ、山科大和守に上意を伝えた。同時に高木家の家財没収を申し渡した


長崎を出立した清十郎は、竜組を連れて博多から樽廻船を使った

海賊退治で恩に着たか、清十郎を見つけた船頭が

「お侍さま、大阪へ向かわれますか」

「おお、乗せてくれるか」

「船賃なしで乗ってくだせぇ」

「では言葉に甘えよう」

博多から大阪へは何事もなく到着した

「若、東海道を行きますか、それとも中山道」

「東海道を来たからの、中山道で帰ろうか」

「承知」


ゆるりとした足取りで中山道を歩む清十郎一行は、四日目には妻籠宿に着いていた。丹波行きの際、宿を取った脇本陣

奥谷へ訪いを告げた

出迎えたのは当主 林権左衛門であった

「これは夏目様、ようこそお出でくださいました。どうぞお上がりください」

「また世話になる」

「あれから宿場も平和になりました」

「それは良かったの」

「今宵はゆっくりお過ごしください、湯も沸いております」

一行は湯に浸かり、久々にゆったりとした夜を過ごした。

妻籠宿を出立し、宿場外れに差し掛かった時、女の悲鳴を聞いた

「何事でしょう」

「竜蔵、見てまいれ」

一町先に町人風の男女が揉み合っているのが見えた。竜蔵は揉み合いの中に割って入った

「何をしておる」

「お助けくださいませ」

「誰だ、てめぇは、関係ないやつは、引っ込んでろ」

「女子に乱暴を働くのを見ては、ほっとけないのでな」

「俺たちは夫婦だ」

「な、なに」

「だから、ほっといてくれ」

「違います。もう夫婦ではないのです」

そこへ清十郎が追い付いた

「何事であった」

「いや、男の方は夫婦だと言い、女の方は夫婦ではないといっておりまして」

「それで、何を揉めておる」

「私達は確かに夫婦でした。長崎で蘭方医に師事して立派な医者になるべく勉学に励んでおりましたが、この人は花街で遊ぶばかりで、一向に学ぶ気配もなく、養子で我が家に来たのに、このまま江戸に連れて帰れませぬゆえ、三行半を突きつけたのでございます」

「三行半を突きつけたのであれば、もう夫婦ではないの」

「なにぃ。てめぇ、いい加減なことを言うんじゃねぇ」

「医者を目指す者にしては、言葉遣いがヤクザであるの」

「そうなんです。養子に来た時は物静かな書生風に見えましたが、やっと本性を現したのでございます」

「そうなれば、お主諦めろ」

「何だと、ふざけるんじゃねぇ」

と懐に隠してあったドスを抜いて向かって来たが、腕を捻られ当て身を喰らい倒れてしまった

「ありがとうございます。お侍さまは江戸に帰られるので」

「左様」

「ならば、ご一緒させてください」

と願った


女連れとなった清十郎一行は、さらにゆるりとした歩みになった

女も緊張が取れてきたのか、自分の事を話し出した

「私は室町の町医者、今井宗庵の娘で紫乃と申します。父に習って医者を目指し、長崎の蘭方医に師事して江戸に帰る途中でした。先程の男、元亭主は政吉と申します」

「若、宗庵先生と言えば名医で有名ですよ。貧乏長屋の連中も診てもらえると評判で」

「ほう、そなたも親父殿のような医者を目指しておるのか」

「はい」

「ならば江戸まで送り届けようか」

竜蔵と二人ならば、七日で帰れる道であったが、女連れのため十二日を要して品川宿へあと一里のところまで辿り着いた


「ん、要らざる客が待っているようだの」

前方に政吉と思える男と浪人が三人待ち構えていた

「懲りずに出迎えたか」

「この間はやられたが、今日は用心棒つきだ。どうあっても紫乃を連れて帰る」

「連れ帰ってどうする。お主、医者にはなれまい」

「医者の女房に食わせてもらうのさ」

「とことん情けない男だの」

「うるせぇ、先生方お願いします」

「この二人を斬れば良いのだな」

「頼みますぜ」

浪人三人が刀を抜いた

「金を貰って人を斬る稼業か」

「藩が取り潰されての、生きていくには仕方あるまい」

清十郎も刀を抜いて、右手下段に構えた

竜蔵は紫乃を庇って後ろに下がる

「三人一緒にかかってまいれ」

「舐めくさって、覚悟しろ」

三人同時に斬り込んできた

清十郎の剣が車輪に回り、一度に三人を斬り捨てていた

呆気にとられていた政吉は、あたふたと逃げようとしたが清十郎の棒手裏剣が背中に刺さって倒れた

「まだ息があるの。お主は生きていてもためにならぬ」

とトドメを刺した

「竜蔵、宿場役人を呼んでこい」

「承知」

と走って行った

暫くして役人が飛んできた。竜蔵から清十郎の正体を聞いていたのか、手早く四人の亡骸を運び出し、何も言わず宿場へ帰って行った

「紫乃殿、これで心配なく医者の道を進めよう」

紫乃は震えながら頷くだけであった


室町の宗庵宅まで来た一行は、訪いを告げ、紫乃からの話を聞いた宗庵は

「娘の難儀をお助け頂き、ありがとうございます。本日は立て込んでおりますので、後日お礼に伺いたいのですが、どちらにお住まいでしょうか」

「日本橋の裏店にすんでおる。夏目と聞けば分かる」

と、踵を返した


二日後、日本橋を訪れた宗庵父娘は裏店を探した

「父上、日本橋に裏店とかありましょうか」

「夏目殿は、そう申されたがのう」

「あの店の小僧さんに聞いてまいります」

と伊勢屋の前で箒をかけている小僧に聞いた

「小僧さん、この辺りに夏目様という人の住まいがあると聞いたのですが」

「夏目様なら、そこの筋を入って一本目を右に入ったところですよ」

言われた通りに入って行ったが裏店と言われる貧相な建物はない

野菜売りがいたので、再び聴いてみた

「もし、この辺りに夏目様のお住まいをご存知ですか」

「夏目様なら目の前の屋敷ですよ」

見ると立派な屋敷であった

「裏店とは程遠いな」

「ごめんくださいまし」

「はい」

「あの、夏目様はご在宅で」

「どちら様で」

「室町の今井宗庵と申す」

「暫くお待ちください」

「今のは女中かの」

「どうぞお上がりください」

と通されたのは書院であった

「過日は、大変お世話になりました」

「江戸に帰る途中でしたから、旅は道連れですよ」

「あの、裏店と申されましたが、立派な屋敷で驚きました。夏目様はどういったお方で」

「旗本の次男坊です。実家に住みたくないもので、ここに住んでおります」

「旗本のご子息。差し支えなければ、どちらのお旗本で」

「酒井伊豆守ですが、ご存知ないでしょう」

「酒井さま。あの、夏目様は養子に行かれましたので」

「名が違うからでしょう。養子にはいっておりません。母方の姓を名乗っておりましてな」

「左様でございますか、いや、お礼といってはなんですが、酒を持って参りました。皆様でお召し上がりください。これにて失礼いたします」

屋敷を辞した父娘は、表通りに出たところで日頃から付き合いのある丹波屋庄右衛門に声をかけられた

「宗庵先生、お久しぶりです」

「これは丹波屋さん。お体の具合はどうですか」

「お陰様ですこぶる良いのですよ。今日は往診ですか」

「いや、この裏にお住まいの夏目様にお礼に参ったところです」

「おや、夏目様のところに」

「夏目様をご存知で」

「知っているも何も、ここら一帯の大店はお世話になりっばなしですよ」

「どういうことで」

丹波屋は干支組の用心棒稼業で盗賊が捕まり、最近は姿すら見えなくなって枕を高くして眠れていることなどを話した

「ほう、そのような事をなされているのですか。酒井伊豆守様というお旗本の次男坊とか申されていましたが、酒井様とはどういったお方ですかの」

「大目付筆頭の酒井伊豆守様ですよ」

「なんと、大目付ですか。幕閣のご子息が用心棒稼業とは驚きました」

「近頃は町奉行所の手伝いもされているとか、剣の腕も相当なようでお奉行からも頼りにされているようですよ」

話を聞いた宗庵は、驚きの様子を隠せなかったが、紫乃はある決意をしていた。


「父上、お話があります」

「なんじゃな」

「私、金輪際婿養子は取りません」

「え、しかし、それでは今井家は途絶えてしまう」

「父上が養子を取れば済むことです」

「それはそうじゃが、できれば血を分けた子が欲しいのだが」

「それならば、私が子を産めばよろしいのでは」

「子を産むとなれば、婿をとらねばなるまい」

「婿を取らずに産みます」

「どういことじゃ」

「夏目様の子を産みとうございます」

「なんじゃと。それは無理じゃ、身分が違う。武家に町医者の娘は嫁げぬ」

「それは分かっております。嫁ぐのではありません」

「どうも意味が分からぬ」

「妾にしてもらいます」

「妾、妾奉公をするというのか」

「奉公ではありません。夏目様はお父上の御用で諸国を周り、斬り会いもありましょう。家臣の方も同じで、怪我もされましょう。私の蘭方医としての腕がお役に立ちます」

「紫乃よ。そう上手くは行くまい。そなたが思いを伝えても夏目殿がうんと言うはずもない」

「言ってみなければわかりません。産まれた子は医者として育てる約束をすれば、夏目様にもご迷惑はかかりませぬ」

「長崎行きもそうであったが、言い出すと頑固であるな。それなら止めはせぬが、断られるのがオチであろう」


翌日、紫乃は清十郎宅を訪ねていた

「昨日に続いての訪問。何かありましたか」

「本日は夏目様にお願いあって参りました」

「某にできることであれば」

「できます」

「さて、何でしょう」

「私をここに置いてください」

「置くというのは、どういうことで。宗庵殿と喧嘩でもしましたか」

「そうではなく、私を妾にして欲しいのです」

「はぁ。妾・・・ですか」

「はい。夏目様はお武家、私は町医者の娘ですから、奥方にはなれません」

「あの、一体どういう経緯でそのように」

「私、婿養子には懲り懲りしました。金輪際、婿は取らぬと父に申したところ、今井家が途絶えると言われました」

「そうでしょうな」

「ですから、私が産んだ子は今井家の跡取りとして医者にさせると申したのです」

「なるほど。それは分かりますが、何故私のところに」

「夏目様や家臣の皆様は、御用で斬り会いもございます。怪我もされましょう。私は蘭方医としての腕に自信がございます。きっとお役に立てると思います。何より夏目様に惚れましたので」

「これは・・・困ったな」

隣の部屋で聞いていた兎ノ助が思わず吹き出した

「これ、兎ノ助。下がっておれ」

「紫乃殿、某には既に世話役がおりましての」

「世話役とは身の回りの世話をする女子のことで」

「その、身の回りだけではなく、夜伽もするのですよ」

「まぁ、既にお妾がいますので」

「家臣の一族から世話役が付く決まりになっていましてね」

「それならば、一人増えても良うございましょう」

「いや、それは・・・」

「お願いします。屋敷の入口横に小さな小屋でも建てて良ければ、そこで町医者を開きますので、近隣の方々にも喜ばれると思います」

「さてさて、どうしたものか。暫し刻をくださらぬか。家臣とも相談したい」

「私はいつでも参りますので、宜しくお願い申し上げます」


紫乃が帰ったところで兎ノ助と桐が顔を出した

「若、医者が家にいると重宝します」

「兎ノ助、簡単に言うでない。桐の考えも聞かねばならぬ」

「私も良い考えかと。干支組にも怪我治療の術はございますが、蘭方医がいれば心強いと思います」

「さてさて、どうするかの」


清十郎の屋敷を辞した紫乃は、自宅へ帰り早速荷造りを始めた

「紫乃、荷造りをしているということは、夏目殿の了解を得たのか」

「いいえ、暫し刻が欲しいとのことでした」

「ならば断られることもあるのではないか」

「いいえ、大丈夫です。必ずお許しが出ます」

「その自信は、どこから来るのかの。断られたらどうする」

「押しかけます」

宗庵は頭を抱えた


一晩悩んだ宗庵は、一人清十郎を訪ねた

「夏目殿、此度は娘の我儘で迷惑をかけております。申し訳ない」

「いや、突然のことにて驚きました」

「娘は昔から、こうと決めたら動かぬ性分で、長崎への修行も止めたのですが、言うことも聞かず行った次第で、此度も頑固で困りました。が、娘の幸せを考えました上で、私からもお願いに参りました」

「なんと。親父殿が娘の妾を勧めるので」

「妾というより、世話係と思えば納得できます。産まれた子は私の孫として医者にさせますゆえ、将来のご懸念にはおよびません」

「全くもって、困りました。家臣は蘭方医がいると心強いと申しておりますが」

「それなら、尚更お使いください」

「分かり申した。暫くは抱え医者として、屋敷入口に庵を立てましょう」

こうして、紫乃は清十郎の屋敷に転がり込んだのであった







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