第3話
悩み続けた10年間が全くもって無価値で無駄だったと理解したのは、その日の前日の夜だった。
なんてことはない、いつもの朝だった。
犬が吠える住宅街。アスファルトで舗装された幅3メートルくらいの道を、俺と黒滝が歩いていた。
歩いていて、黒滝が妙なことを言い出した。
「私たちの関係ってなんなのかな」
今でこそ意識してしまっているけれど、この時の俺は黒滝を異性だと認識していなかった。
できなかった。
別に見た目が地味だとか、太っていたとか、そういうのはどうでも良くて。
黒滝を見るたびに昔のことを思い出して、責任を感じざるを得なかったのだ。
黒滝の体には、左脇腹から左季肋部にかけて、赤黒い火傷の跡があるらしい。
『らしい』というのは、俺が直接見たわけじゃなくて、後から親父に聞いた話だからだ。
7歳の冬、親同士が話している間、俺と黒滝が襖越しの隣の部屋で、遊んでいる時のことだった。
灯油ストーブの上部に乗ったやかんがピーピーと湯気を吹いていたから、クソ餓鬼だった俺が、黒崎に格好いいところを見せてやろうとか愚かなことを考えた。
やかんを下ろせば音がなくなるんだぞとか、当たり前なことをさも奇跡のように演出しようとか思ってしまって。
やかんを下ろそうと手を伸ばして、手にとって。
そしてそのまま、黒滝に見せびらかそうと、振り返った。
「「え?」」
間抜けな声と共に、案の定、手を滑らせた。
手からこぼれ落ちたやかんが俺の足甲の上にでも転がれば良かったのだけれど、そうはならず、やかんから飛び出た熱湯は、黒滝の腹部へと降りかかった。
「ーーーーーーーっっっっ!!!!!!!」
響き渡る、黒滝の言葉にならない悲鳴。
隣の部屋から飛び出てきた親達が、大慌てで応急処置しているのを、俺はただ呆然と後ろで眺めていた。
「強いて言うなら友達だな」
「友達?」
俺なりに、わりと勇気を出しての言葉だった。
黒滝は実は俺を恨んでいるんじゃないか、とか。
友達なんておこがましいんじゃないか、とか。
それでも、前日の夜。親戚の爺さんに叱咤激励のようなことをされて、医者になると決めた俺は、過去と向き合う、つまりは、黒滝と向き合う覚悟を持ったのだ。
今まで、黒滝を避けようとばかりしてきたけれども。
クソ餓鬼から卒業したいと、思ったから。
だが、黒滝の反応は、予想とは違っていた。
罵倒されるとか、怒鳴られるとか、思ったのだけれども。
「私のこと、好きじゃないの?」
「へ?」
「付き合ってあげても、いいんだからね」
「………えっと」
クソ餓鬼なりにも俺は高校生であって、その言葉の意味がわからないわけではなかった。
なぜか好意を持たれていたのだと、理解した。
それまで、俺にとって黒滝は歩く贖罪で、後ろめたいものでしかなかった。
異性として、女の子として見たことがなかった。
見た目が云々だとかも割とどうでもよくて、鬼ごっこでいうところの鬼だった黒滝。
そんな幼馴染を、恋愛の対象に見ること自体が、俺には出来なかった。
それに、と。
ちょうど、医者になることを決めたこともあって、俺は。
「無理だ」
と。
「付き合うとか、考えられねーって」
勉強で忙しくなるであろうことを言い訳に、逃げ癖を発揮した。
「へ………」
黒滝はありえないとでも言いたげに、ぽっかりと口を開けた。
金魚みたいだな、なんてアホみたいなことを考えていると、
「天理君の、馬鹿ああああああああ!!!!!!」
馬鹿にされて、逃げられた。
ーーーー謝ろう。
そう心に決めたのは、その日、終業式を終えた夜のことだった。
だけれど、思い返してみると、とても悲惨な別れ方、というか、言い方だったと思った。
漫画に出てくるツンデレみたいな告白をされて、返した言葉は「無理だ」。
いくら彼女いない歴イコール年齢の童貞でも、あれはないということはわかった。
妹に相談しても、「最低、死ね」と言われた。
考えた末、人付き合いがあまり得意でもない俺は、物で釣るという、単純かつ単細胞的な発想に思い至った。
送るものも、黒滝の好きな漫画がいいだろうとすぐに思いついたし。
だけれど、人に対する謝罪の品に、親からもらった小遣いを使うのは憚られた。
なので、この夏。バイトをすることにした。
午前は6時間、夜も6時間の勉強をベースとして、13時から18時までコンビニのバイトというスケジュールを組んだ。
それも毎日でもなくて、週に3回程度のものだったけれど、慣れない仕事に色々と失敗を繰り返した。
レジの使い方がわからずにあたふたとしてしまったり。
箸を渡し忘れて、お客さんと先輩に怒鳴られてしまったり。
それでもどうにか2週間分のバイト代を頂いて、その初給料で、黒滝の好きそうな漫画を、大人買いにした。
その後すぐに後悔した。
炎天下の中。帰宅部の俺が、十数キロはある紙束の塊を背負いながら、帰宅するというミッション。
無理だった。
足は覚束なくなって、意識は朦朧とした。
道ゆく人に意味のない呪詛を吐いて、クソほどどうでもいいことを考えるにまで至って。
「あの、大丈夫ですか?」
その時、後ろから声をかけられた。
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