第55話 綿雪
掌にひとつの綿雪が舞い降りた。子供の頃からいやというほど見慣れてきた雪なのに なぜかその時だけ天使の羽毛のように見えた。柔らかな羽根は痛みに似た冷たさを彼女の手に与えるとすっと溶けてなくなった。
F氏の姉だった女性は最近実家に帰ると妙な記憶違いをしてしまうことが気になってしかたがなかった。なぜか弟がいたような錯覚を起こすのだ。我が家は二人姉妹だというのに。彼女は一度だけこの記憶違いについて母に相談したことがある。その時は夫の家業がうまくいっていなかったので無意識に現実逃避してしまっているのではという結論に至った。あるいは実家の建て替えがきっかけで子供時代の記憶がでたらめに再構築されてしまったのではと。きっと彼女のふたりの息子がなにかの拍子に弟と勘違いしてしまう瞬間があるのかもしれない。それでもなおこの話題になると頬をつたうものを止められないでいる。そして母もまた娘の涙を見て眼を潤ませる。すこし経ってから聞いた話だが、母がこの話題を父や妹にした時にもやはりふたりはしんみりしたという。あの父と妹がそんな姿を見せるとは。
雪の積もった公園で子犬のように走り転がる息子達の姿を見守りながら彼女は冷えたベンチに腰を降ろして夢想する。アタシには弟がいた。弟はいつもさみしそうな表情で私を見上げる。職場の人間関係でストレスを抱えていた父、親戚や近所との付き合いで疲弊していた母、両親の愛情を奪われるのが怖くて弟の可能性の芽を一つひとつ潰していった妹。私だって無罪ではない。不機嫌になった時には弟に八つ当たりして自信を無くすようなことを言ったりもした。たまにだが。
そんな弟を私はずっと一定の距離をたもちつつ見守り続けた。弟は私には理解できない面が沢山あったし、彼のことが特別好きというわけでもなかった。それでも見ていてあげるのが家族と思っていた。
彼が家を出たいと言ったとき正直ほっとした。これで家族は調和を保てる。出ていった弟を悪者にさえしていれば家族のいがみ合いは無くなる。まさか弟は当時そこまで計算していたのだろうか。
弟が家を出て行った以降もずっと彼女は心の隅で弟を想い続けた。家族の絆は物理的に遠くなっても断ち切れない。もとよりこの愛情は両親から彼女へと注がれたもの。彼女がたっぷりと受け取った分 今度は弟へと。ごく自然なバトンタッチ。そして彼女のそんな思いが六つの羽根となり、風が吹けば桶屋が儲かる式の何か壮大な――。
「ママ」
息子達が先程から自分を呼んでいることに気付き彼女は現実に戻った。兄と弟それぞれが作った雪玉をどちらのほうが優れているか彼女の厳正な審査が始まる。もっとも判定は はじめから決まっているのだが。弟の玉のこの部分に見惚れ、兄の玉のこの部分に惚れぼれする。
灰色の空から本格的に雪が降ってきた。彼女が彼女の弟を夢想することはこの先一生ない。
都営住宅の暮らしは快適だった。独りで暮らすには部屋が多過ぎる気もするがどこの部屋も使い勝手が良い。唯一洗濯機の置き場所だけがどうにも納得がいかないのだが。
そこだけ洒落たカフェのような作りの――記憶がはっきりとしないのだが、たしか前の住人が自分好みの部屋に変えたままもとに戻さず退居した結果だったはず――部屋を通ってベランダで洗濯物を干す。ベランダの床は前の住人が設えたと思しきデッキフロアになっていた。なぜ引越しの際に直さなかったのかはわからない。もとよりサチエは理由などというものにこだわるようなややこしいタイプではない。目の前にある物、それだけが現実。
そうだ。ポストに不用品回収のチラシが入ってたよね。ベランダと この部屋を片付けてもらったら値段はいくらになるかしら。そういえば入院中に通帳にまとまったお金が入金されていたっけ。あれを使ってしまおうかな。家屋設計図手付金という正体不明の振り込み。あのお金はなんだったのかわからず仕舞いだ。でもアタシ宛ての入金なんだから別に使ったっていいじゃない。それにもしかするとQさんが偽名を使って援助してくれたのかも。そうだわ。建物の設計といえば彼しかいないもの。相変わらず憎いことをする。彼とは大違いだ。ん? 彼とはいったい誰だっけ。
風がサチエの伸びた髪を揺らした。サチエは干したブラウスを叩きながら昨日美容院で読んだ雑誌の記事を思い出そうとした。ノーベル賞だか何だかの偉い人の話だ。サチエはその夫妻が同じ階に住んでいたことを自慢の種にしていた。入院さえなければ挨拶くらい交わした仲だったかもしれない。その盲目の人が誌面で言っていた。大抵の物事は他者の意見を聞いたほうが上手くいきます。ですが場合によっては他人の思惑が足枷になることもあります。必要と思った時は躊躇せず自分だけを頼りにしてください。誰かに遠慮する必要はないのです。これはアタシに向けられた言葉。この青空のようにアタシは強く生きる。アタシの人生は母親のものでもなければ、親友と呼んでいた知り合いのものでもない。アタシはアタシの人生を生きる。この空の先には東京湾があってその向こうは太平洋。だからあの空の向こうにはアメリカがある。そうだ。その気になればニューヨークにだって行ける。まあ、外国に興味は無いけれど。
爪先が転がっていた植木鉢を蹴った。拾って枯れた花びらを嗅いでみる。どこかで嗅いだ記憶。どこだったか思い出せない。思い出す必要もない気がする。玄関まで持っていってハイヒールの横に置いた。次のゴミ収集日は何曜日だっけ。
F氏を知る者は妻や家族のみならず皆一様に彼を忘却していった。髪色だけが判別基準の都営住宅の住人も、珍しい楽器を作る職人も、BVレンタカーの孤高の店主も、たった一言で彼を立ち直らせた臨床心理士も。そうしたなか唯一朝永教授の計算式だけが次世代型量子コンピュータのアイドリング状態、世間の言葉を借りれば暴走した状態から通常運転に切り替わった時期に宇宙からわずかに失われた質量があることを記録していた。学者仲間はこれを誤差の範囲と主張している。朝永博士もおおかたその意見に賛成だ。それでも自宅のソファに座ってシュレーディンガーの背中を撫でているとついその柔らかい耳に「私は大切な何かを見落としているのかもしれない」とつぶやいてしまう。もっともそんな博士も妻の淹れる――彼女は夫と共にアメリカ国籍を取得してニューヨークの生活を満喫していた。東京では築五〇年を超える都営住宅で暮らしたが、今度は築一〇〇年を超えるアパートメントホテルだ――紅茶の香りにその思索を霧散させてしまうのだが。
博士をそこまで気にさせたのは計算から導き出された失われた質量の値だった。そこがどうにもひっかかるのだ。それはちょうど成人男性ひとりぶん。博士にはその男ひとりぶんという重さが何か意味のあるもののような気がしてならなかった。シュレーディンガーも考えが一致しているらしく朝永博士がそれについて思いをはせると必ず鼻先を宙に向け虚しく唸るのだ。
忘却の男 パラレル×クロス Eika・M @eina_m
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