第54話 ハドソンリバーと忘却の男

 F氏が死んでも人が集まることはなかった。もとより彼は葬式も戒名も墓地すら不要というメモを残していた。まるで自分の死を予期していたかのように彼は身辺整理を済ませてから逝った。自転車窃盗団との格闘からちょうど一週間後のことだ。どうやらその時の頭の打ち所が悪かったらしい。スーパーマーケットの帰りの横断歩道で彼は突然倒れてそのまま息を引きとった。


 F氏の死と入れ替わるようにしてサチエは病気を完治させた。奇跡的に最新医療を受けることができたおかげだ。元大臣や経済界の大物らが順番待ちする脇をするりと横入りできたのは、同じ大学に所属していたノーベル物理学賞受賞の博士の口添えがあったからに他ならない。だが当の本人であるサチエはその事実を知らされていなかった。


 友人達から回復を祝われる一方でサチエの夫については「自業自得」「罰が当たった」と陰口が蔓延していた。なかには「よくこれまで我慢してきたわね」とサチエを労った者さえいた。「真面目で誰からも好かれるサチエさんが健康になって、働きもせず妻の収入に頼っているような男が死ぬのは当然の報い。神様はちゃんと見ていてくれたのよ」彼女はそう言って顔すら見たことのない人物を笑った。


 F氏の両親は悩みの種だった放蕩息子が遂に死んだかと、ほっとするような哀しいような複雑な心境を味わった。


 残された葬式不要のメモには『できるなら遺骨はニューヨークにあるハドソンリバーに流してほしい』という一文が書き足されていた。亡き夫がアメリカに興味を持っていたと知ってサチエは少しばかり驚いた。夫はそういうタイプの人間ではないから。でも振り返れば結婚する前後にアメリカがどうのと言っていたような気もする。そのときサチエはドラマを見るのに夢中で話を聞いていなかったのだが。いずれにしても旅行の予定はないし、そもそもそんなことを勝手にやって許されるかどうかもわからない。結局サチエは近所のお寺に事情を説明して遺骨を一時預かりという形で保管してもらうことにした。寺の住職は異例ともいえるサチエの頼みを快諾した。サチエが頼めば大抵誰だっていうことをきく。

 それにしてもあの人は死んだあとまでこうやってアタシの手を煩わせる。なぜ普通に葬式をあげて皆と同じように墓に収まろうとしないのか。他人とは違うことをしたがる。そういう思いあがりが鼻もちならないというのに。サチエは亡き夫に向けて拳を握った。力が弱かったのですぐにぶるぶると震えた。


 翌春、ベランダに転がっていた鉢のひとつからラベンダーの花が咲いた。彼女はなぜそこにそんな物があるのか思い出せない。治療中に投与された薬の副作用のせいか、それともそれだけの男でしかなかったのか、彼女は夫がいたことさえうまく思い出せなくなっていた。それはまるで朝目覚める直前に見ていた夢。覚醒していくなかで一度はその夢を記憶しておこうと決める。しかし意識がはっきりしていくにつれ輪郭がぼやけていき、やがてすっかり眼が覚めてしまうとどんな夢だったのかさえ思い出せない。


 自然がF氏の肉体と彼に関する記憶を消滅させたメカニズムは一見複雑なようにみえてその実シンプルなものであった。シュレーディンガーの猫は観察者が確認するまでは死ぬと同時に生きている。また光は観察者が確認するまで粒子であると同時に波である。自然はF氏に対してもこれと同じ現象を用いた。彼の物質的存在および彼に関する記憶はあると同時に無いものとなっていった。隠された記憶は波となって人々のあいだを漂う。それはちょうど水面に放った小石が作る波紋のようだった。ある場所ではもしくはあるタイミングでは高い波に、またある場所もしくはあるタイミングではほとんど波はなく、そうやって波紋は輪を広げていく。そして輪が大きくなるにつれ波も弱くなっていく。やがて波紋はぼやけ、最後に水面は平穏を取り戻す。こうしてF氏に関する矛盾点が穏やかに解消されていき、同時にパラレルワールドの複雑な絡みも収束されていった。

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