第53話 光るナイフと大学ノート
F氏は生きていた。彼はもう一度自分の眼で確かめてみようと開放されたばかりの広い公園をショートカットした。そうしてもうひとりの自分のもとへとむかった。だが到着してみると都営住宅は取り壊し中の工事現場に変貌していた。数年後にはランドマークがそびえる総合施設が完成するという。バリケード越しに見上げる廃墟は人の暮らしが失われてもまだモダニズム建築の残り香を漂わせていた。
諦めてアパートに帰ってくるとドアノブに紙袋がさげられているのを見つけた。中身はノートの束だった。表紙にはなぜか同じ区にある大学名がプリントされていた。紙袋を覗くF氏の顔がにやりと笑った。
※
自転車窃盗犯は別人に変わっていた。犯人は区役所の隣の窓口にいた国際結婚の夫婦になっていた。遊ぶ金欲しさの犯行だったという。女のほうが過去に自転車との接触事故を起こしていたことがあり、それが遠因にあることもわかった。あの区職員と弁護士はこれで事件とは無関係になった。しかし弁護士のほうとは偶然署内ですれ違うこととなった。別件ではあるものの弁護士Qは逮捕されていた。連行する警官のやりとりから政治家や官僚が絡む詐欺事件に関与していたことがおおよそ理解された。
病院ではサチエの薬がまた変わった。今度のは副作用で足のリンパが腫れてしまう。サチエは歩くのもままならなくなった。すっかり見舞客が来なくなり病室でも孤立し始めていたのを見かねて看護師長が時々話し相手をするようになっていた。夫が病室に入って来るとサチエは頭の包帯を見て珍しく驚いた表情をした。いつもなら嬉しそうに怪我の詮索をしただろうに。しかしBVレンタカーの主から教わった嘗められない方法を使って以来サチエは夫に対して慎重な態度をとるようになっていた。
帰ろうとするF氏をサチエが引き留めた。
「もうすぐサトウさんが来るから」
F氏にはサトウなる人物が誰なのかわからなかった。ほどなくして介護商品を取りあつかう営業マンがやってきた。男は購入用の車椅子を二台、レンタル用を一台、計三台分の契約書にF氏のサインを書かせようとした。F氏は妻がふくれるのもかまわず丁重にお引き取り願って、追い払ったその手でスマホを操作した。相手はBVレンタカーだ。
高架下の飲み屋の店主から紹介されてF氏は初めてユキさんの娘と挨拶した。ユキさんの娘は父を恨んだことは一度も無いと告げた。
「今でも父のことを誇りに思っています」
鮮魚コーナーでお買得品を物色していると古株のパートが声を掛けてきた。
「セラフちゃん辞めたのよ」
「セラフ?」
「あらやだ。ほらあのインドから来た計算の得意な娘」
「ああ彼女ですか。店辞めたんですか」
「そう。たしかスイスに行ったとか。えっとフランスだったかしら。あ、これ半額シール付けてあげる。買って帰りな」
家に帰ると見知らぬ男が六一七四号室のドアをノックしていた。男は朝永夫妻から伝言を預かっているとメモを差し出した。夫人は他の住人に迷惑が掛からぬようマスコミを逃れてホテルに籠っているという。F氏も帰る途中で号外を受け取っていた。朝永博士がノーベル物理学賞を受賞したのだ。博士は諸々の整理のため大学で寝泊まりをしているらしい。ふたりとも そのまま渡米し二度と団地には戻ってこないと言伝を頼まれた男が説明した。残された荷物は引越業者にお任せとのこと。願わくはまともな業者であってほしい。男から受け取ったメモには何かあった時のためにと博士の研究室直通の電話番号が書かれていた。F氏は男のことをいったい何者だろうと訝りながら見送ったがなんと隣の部屋に入っていくではないか。慌てて買い物袋を置いて吊戸棚からチョコレート菓子を引っ張り出し三号室のドアをノックした。
「まだ何か」
「遅れましたがこれ引越しの挨拶です」
「ああ。これはありがたい。青山にある店のやつですね。娘が喜びます。田舎にいるとこういう物が手に入らなくて」
男の背後には水槽が並んでいた。窓から覗いた時にナイフのように光っていた物の正体は観賞魚が方向転換する際の反射光だった。F氏の視線に気がついて隣人はばつ悪そうな表情をした。
「住宅供給公社には内緒ですよ。介助犬以外のペットは禁止ですから。もっとも私も間もなく引っ越しますけどね。妻と娘はもう向こうで暮らしています。私も仕事の関係で東京と地方を行き来している状態です」
隣人は熱帯魚を運ぶのが引越しにおける最大の難関だと説明した。
「それでもやりますよ。病気がちの娘が好きなんです。あれを眺めているのが。そうだ。貴方も何か役員をやったらいい。え、この階にまつわる三つの都市伝説をご存知ない」隣人はふたつの伝説に続いて三つ目を語った。「何かの役員をすると人生が好転して都営住宅から卒業する。朝永家は此処から離れたくなくてずっと役員を避けてきました。けれど今回だけは他にいなくて。私も清掃役員をしたおかげで引越しです。向こうでは一軒家を建てる予定です。希望にあった設計図を既にネットで見つけていましてね、サイト主は金に困っているようで、手付金だけでも払ってやるつもりですよ」
区役所から来た手紙には本籍変更手続きが無事済んだと書かれていた。肩にほつれがあるカーディガンを着ていた職員は行間に業務が停滞していた本当の理由を滲ませたうえで、あらためて謝罪の言葉を記していた。問題は汚職事件を起こした官僚の息子が同じ部署にいたことにあるらしい。例の区職員だ。現在は父親と共に海外に逃亡中という。F氏は区役所での既視感が何だったのかをこの時やっと理解できた。直前に職員の父親の顔をニュースで見ていたのだ。朝永博士も同じだ。あの夫婦に邪魔されて一瞬しか見られなかったせいで一致させるほどには記憶していなかった。文末に書かれた区職員の名前を見てF氏は口笛を吹く。彼女の名はQといった。名前の呪いが今解けた。
ベランダに出て風を浴びる。コーヒーの香り。タイヤとアスファルトの摩擦音。シュルレアリスムを想わせる高層ビルの群れ。その奥には雲を混ぜ込んだ青空。先日会った並行世界の自分はてっきり引越しをきっかけに分岐されたもうひとりだと思っていたが実際にはもっとずっと以前に分岐されていたらしい。むこうはサチエと離婚していた。その代わり彼女は健康だった。どのQか分からないが彼女はQと再婚してしあわせになったかと思えば突如地方から上京してきた大学生と駆け落ちしてしまい現在は下町のほうで同棲生活をしているらしい。一方もうひとりの自分はというと離婚後もあのアパートで暮らしていた。息子とふたりで。向こうにはサチエとのあいだに子供ができていたのだ。金に困っているのは同じ。適職と思える仕事に就くことができず苦しんでいた。息子の学習ノートも買ってやれないと冗談を言ったが半分は本音だろう。息子は母親から精神的に抑圧され消極的な子に育ってしまったという。人を信じられなくなった哀れな子。それでも向こうには息子がいる。オレとサチエの子。たとえ別の平行世界であったとしても、それでもオレ達の希望。きっとあの子が、それが叶わぬのならその子か、それともその子孫が、きっと誰かが両親から受け継いだ負の鎖をボルトクリッパでバッツリと断ち切ってくれる。ユキさんはどちらか片方と述べていた。ならば、とコーヒーを飲み下す。風がうなじをくすぐっている。
カウンターで司書が言った。「いつも中庭で先生とお話されている方ですよね。先生お待ちですよ」彼女は一般利用者がキャンパスに入るのは無論のこと、学生や教授陣も図書館から大学にショートカットすることは禁止されていることを説明した。「けれど降りる駅によっては図書館からのほうが早いと気付く学生が必ず現れるんです」一瞬間をおいて司書がくすりと笑った。「犬を連れた博士には特に気をつけないと。あの人絶対新入生に教えてますよ。あら? 今日は返却のみですか。珍しいですね」
中庭は相変わらず季節感が無かった。学部にはいると学生たちが引っ越し作業でてんやわんやになっていた。圧倒されていると誰かが手を舐めた。見下ろすとシュレーディンガーが尻尾を振って出迎えてくれていた。学生のひとりが荷物を運ぶついでにシュレーディンガーに注意した。「お客さまにいたずらしちゃダメだぞ」
「本当はゆっくり話したいのですが急に渡米することになってね。また貴方と話ができて嬉しいですよ」ラプラスの悪魔が笑顔で言った。
F氏の最後の願いを博士は快諾した。
ノーベル賞受賞を祝う垂れ幕が所狭しと並ぶ大学購買部でノートを一束購入し、その足でQアパートに向かう。陸上競技場をカラフルな実業団が走っていた。公園の芝生の剣先に降り出した霧雨が雫となって垂れ落ちた。閑静な住宅街の坂道。のぼりつめればあの忌まわしきアパート。身勝手な連中ばかりが吹き溜まる家賃が高くて壁の薄いボロ屋。
アパートは取り壊されている最中だった。作業する重機にはBVレンタカーのステッカー。週貸しの部屋としては異例の長期間に渡り利用し続けた夫婦がやっとのこと出ていってくれると、大家は残った住人も立ち退きして解体業者を呼んだ。F氏が声を掛けると作業員は一度更地にして駐車場にするのだと説明した。しばらく待ってからまた新築のアパートを建てるのだ。
「お決まりの税金対策ですよ」作業員が隠し事を共有するみたいにニヤリと歯を見せた。
「雨のなか大変ですね」
「解体工事は雨のほうがはかどりますから」
作業員達が昼休みで現場を離れた隙にF氏は壁が壊されてドアのみが残ったかつての住まいの前に立った。そしてつい先日まで毎日開け閉めしていたドアノブに大学ノートの入った紙袋を引っ掛けた。
坂道を降りてゆき、曲がり角でアパートに振り返る。半壊した建物が霧に煙っていた。前を向きなおり団地のある方角へとまた歩き出す。もう振り返らない。二度とこの地は訪れない。
翌日、一時帰宅の許可を得た妻に乞われてF氏は病院まで迎えに行った。サチエはBVレンタカーのステッカーが貼られた車椅子を座り夫に押されて病棟をあとにした。
その夜、サチエは足が痛くて眠れないと泣いた。
「もう頑張れないかもしれない」
「だいじょうぶ。そばにいるから」
F氏は一晩中サチエの足をマッサージした。妻の足をさすりながらF氏は生まれ育った札幌のことを思った。一度実家に帰ってみようか。いいや。気分を害されるのがオチだろう。こちらの成長に合わせて家族が成長するというものでもない。遠くからそっと思っている。それがベスト。実家のことを考えたせいかF氏の脳裏にすっかり忘れ去ってしまった小学校時代の記憶が呼び戻された。
そうか。ほんのすこしだけマッサージする手が止まり、それからうなだれた。
「どうしたの」
「いいや」
「疲れたらもういいよ」
「いや」
そうか。あれは復讐だったのだ。中学の時に起きた事件。あれは臨床心理士が言うような英雄譚ではなかった。オレは自分に都合のわるい記憶を消していた。家族から承認されたいという欲求があふれるあまりオレは歪んだ解消方法を選んでいた。臆病で自信のない自分を隠すための戦略としても。小学校の頃のオレはクラスで虐める側だったのだ。それもリーダークラスのワルだ。なかでも一番被害を被ったのがあの不良に絡まれていた女子生徒だった。発案者は同級生のQだったかもしれない。だがそれとは別に彼女は彼女なりのやりかたで復讐を果たしたのだ。自業自得。
小学六年の三学期、F少年は大人の期待に応えることに息切れがして登校拒否になった。引きこもっているあいだに同級生を虐める自分が醜く思えて それ以来 虐めをやめた。そしてやめた瞬間から今度は虐められる側へと移された。それはとても自然ななりゆきだった。決して正義でもないし一方的な被害者でもなかった。それを都合のわるい部分だけ忘却していたのだ。
この世は修行の場なのよ。
サチエにたいしてもおなじだ。こちらが一方的に傷付けられてきたとはいいがたいきっと自覚のないうちにこの女性を傷付けてきたのだ。それに離婚するタイミングはいくらでもあった。それをずるずると繋ぎとめていたのはむしろ臆病なオレのほうだった。きっぱり別れていればサチエにもまた違った人生があったかもしれない。どこかのQかそれともどこかの地方の学生か。とにかく彼女が納得できる人生があったのかもしれない。他の誰かを引き上げてやるなんてそんな器の大きさも無いくせに思い上がりもいいところだった。巻き込んだのはオレのほうか。いやさすがにこれはおたがいさまか。おたがい利用しあった。それまでのこと。
いくらマッサージしてもよくならず遂にサチエは痛い痛いと泣き出した。
「大丈夫。心配はいらない。必ず楽になるから」
一時帰宅が終了した日、病院エントランスまであと少しという手前でサチエは「ここでいい」と車椅子を押す夫を制止した。「ここからはひとりで行かせて」
「そうか」
F氏の指が車椅子からゆっくりと離された。サチエは衰えた腕に力を込めて車椅子を前に進めた。サチエの姿が混み合う人々に紛れるまでF氏はその背中を見つめた。
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