第52話 アスタ マニアーナ

 外出先から帰ってきたジェームス。それと客人ふたり。あとレトリーバー一匹を迎え入れた警備員のボブは厳重に扉を締め、それ以上誰も出ることも入ることもできないようにした。JFK空港までトモナガ夫妻を迎えにいっていたジェームスはいつになく厳しい表情の警備員を見て自分の出番がきたのだなと顔をこわばらせた。研究所は騒然としていた。走り寄った所員が早口で現状を説明する。誰かが量子コンピュータの電源を切った。しかも予備電源まで。意図してやったことは明白だ。別の職員がまた走り寄ってきて容疑者の名を伝える。耳を疑った。ありえない。あのFが。

 本当はトモナガ博士と面識のあるFを空港に行かせるつもりだった。だがここ一週間のFはあきらかに精神不安定だった。もっともコンピュータが暴走を始めてからというもの今にもビルから飛び降りそうな顔をした学者や技術者があちこちに徘徊して

いたのだが。トモナガ夫妻の顔を見ればFも落ち着くのではないか。そう期待していたのにまさかこんな形で崩れるとは。

「コンピュータルームから逃げ出したことは分かっています。建物から出ていないこともほぼ間違いありません。ですが姿が見つかりません」

そこまで言うと職員はジェームスの背後にいる三人に気が付いて場違いに手を差しだした。

「理論物理学者のトモナガ博士ですね。京都のカンファレンスで講義を拝聴しました。こんな時ですが握手していただけないでしょうか」

職員は博士と妻とついでに大型犬とも握手をした。

 ジェームスは応接室にトモナガ夫妻を通すと女性職員ひとりを付けた。応接室には間もなく発表されるであろうノーベル物理学賞のお祝いの準備がされていた。せっかくの雰囲気が台無しだ。そう落胆して出ていこうとするジェームスの背中にトモナガ博士が声を掛けた。

「屋上に行くつもりですか」

 ジェームスは振り返る。「なぜ分かったのです」

「貴方と同じことを考えていました。だったら足手まといでしょうが私も連れていってもらえないでしょうか。役に立つかもしれません」

 

博士と盲導犬を先導しながらジェームスは騒然とする廊下で考えた。それにしてもどうやってコンピュータ室に入ることができたんだ。あそこは厳重に管理されている。パスを持つ者しか入ることができないのだが。

「そうか」

 近くを走る職員をつかまえて博士を屋上に誘導するよう指示する。それからすぐに踵を返して自分の部屋へと走った。

 ほらな。盗聴器が役に立っただろう。セラフ覚えておけよ。


 歩道脇に止まるトラックが積荷を降ろしはじめた。野菜が運び終わるのを悠長にまってはいられない。F氏は浅い呼吸をすると震える足を半歩だけ前に踏み出した。次に吹く突風に身をまかせよう。それで終わりだ。

「待ちなさい」

 F氏の動きが止まったのは、その流暢な日本語に聞き覚えがあったからに他ならない。間髪入れず複数のライトがF氏の背中を照らした。恐るおそる振り向くと警備員やら職員やら技術者やら学者やらが続々と屋上にあがってきていた。デンバー出身の背の高いプログラマーと、同じくプログラマーのイカれたフランス系カナダ人、冗談好きのキューバ人研究者、いがみ合ってばかりいるイングランド人会計士とフランス人数学者、礼拝を欠かさない中東系ドイツ人の研究員、髭を伸ばしたユダヤ系アメリカ人の物理学者、陽気なイタリア人技術者、五歳の息子を持つナイジェリア出身の総務部長。みんな固唾を飲んでF氏を見つめていた。警備員のボブだけは違った。彼はまるで息子の悪戯を見つけた父親のように険しい表情をしていた。集まった人の中心にいるのは職員ではない。ぴったりと身体に馴染んだグレーのスリーピースを着た細身の老紳士。脇には逆光に照らされて金色に光る大型犬。犬はハーネスを付けている。警察犬ではない。盲導犬だ。

 トモナガ博士が引き続き日本語で語りかけてくる。

「飛び降りる必要はありません。次世代型量子コンピュータの暴走と言われるもの、あれは暴走ではない。あれはいわばアイドリングです。君は運転をしますか。私はご覧のように眼が不自由ですから。あれはガソリンエンジンのアイドリングと考えてよろしい」

「トモナガ先生ですか。どうしてここに」

「まさに今話したことをここの職員に納得させるために来ました。続きを話すのでまずはこちら側に降りなさい。いま君は危なっかしい所に立っているそうですね。風が強いな。話を先に進めたいのでそこから降りなさい」

 F氏は危なげにビルの縁から降りた。それから「来ないでください」と警備員を牽制した。月明かりに浮かぶガーゴイルが がっくりとうなだれた。

「よろしい。降りたんだね。では続きを話そう。ここからは英語で話すことにしよう。君と私だけの会話では彼等には伝わらんからね。屋上に昇る途中で話を聞いたが、いわゆる暴走の原因は君だという説は間違っている。また他の誰の原因でもない。開発に成功したからこそ通常運転をしているに過ぎない。その点については安心してもらってかまわない。ただ途中で電源を落としたのはよろしくない。今後何かが起きるかもしれないし、何も起きないかもしれない。もしかすると我々の知らないところで、例えばパラレルワールドでは既に影響がでているかもしれない。干渉しあう並行世界がこれをきっかけに不安定になる可能性は否定できない。いずれにしてもこうして私と君が会話をしているのだからこの世界はまだ崩壊していない。それだけは確かだ。おそらく今後も崩壊しないだろうと私は予想する。なぜならパラレルワールドは無限に分かれるからだ。その無限に別れた並行世界のどこかにキーパーソンがいると私は考える。不安定になった複数の世界をもとに戻すキーパーソンがね。もしかするとそれは別の世界の君かもしれない。だがこちらはこちらで早急にコンピュータの復旧をすべきであることに変わりはない。我々はやるべきことをやるのです。いいですか。そのためには君が必要です。他の人とは違った着眼点を持つ君が。君はいつか札幌の科学館の話をしたね。私もあの時のことはよく覚えている。君は私に物理の質問ではなく犬の名前と犬種を訊ねた。実にユニークな発想だ。あの雰囲気でそういった質問をできたのは君だけだろう。繰り返しになるが君が必要です。そういう柔軟な発想がいまは必要なのだ。どうか生きてください。この私のために」

 屋上にあがりきれず階段にたまっていた人たちを掻き分けて やっとF氏の前に出ることができたジェームスが息を切らせながら言った。

「たったいまQを拘束した。ついでに日本領事館を怒鳴りつけて近日中にコートテイル組を引き揚げてもらうことにした。部屋が広くなるぞ。何も心配はいらない。こっちに来い。オレ達はファミリーじゃないか」

「ファミリー」

 F氏の身体が崩れ落ちた。彼は人目も気にせず声をあげて泣いた。ボブが進み出て親友を取り押さえた。

「よう兄弟、また近いうちに斜向かいのドーナツ屋でコーヒーを飲もうや。俺は俺の役割。兄弟は兄弟の役割。そうだろう」

 屋上にあがれなかった者達が口伝えに朗報を広めて下の階でも拍手がわきおこった。コートテイル組から距離をおこうと考えていた日本人の男もずっと下の階でその拍手を聞いて胸を撫で下ろした。これで約束を破られずに済む。

 擦れ違いざまにハーネスを付けた盲導犬が何を思ったのかF氏の手の甲を舐めた。連行されるF氏が返事をするように犬にむかって頷いた。


 その頃、歩道では腹の出たデリバリートラックの運転手が二四時間営業のイタリアンレストランに野菜を届け終わり、いつものように伝票を二つ折りにして胸ポケットに仕舞った。レストランの下働きのアミーゴが別れを告げて歩道に設けられた地下室に通じる鉄扉を内側から閉めた。

 運転手はビルの谷間から覗く夜空を見上げる。「今夜は実に平和だ。この調子ならいつもより早く仕事が終われそうだぞ」

 そう呟くとトラックをそのままにして熱いコーヒーと砂糖のいっぱいかかったドーナツを求めて斜向かいのドーナツ屋へと横断歩道を渡った。

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