第51話 パラレル×クロス 少年の頬の膨らみ

 東の空が白みかけていた。風の音が耳をかすめている。陸上競技場の門の前に立ちズキズキと痛む頭をおさえてF氏は六枚羽根の天使を見上げた。さてどうやって中に入ろうか。門は閉まっている。鍵はしっかりと掛かっている。正確な期限を把握してはいないがたぶん時間は迫ってきている。それというのもFの2が近くにきていることを感じられるからだ。むこうも競技場を目指している。タイミングをずらしてしまうときっと永遠に会えない。そうなれば終わりだ。ただちに侵入しなければ。どうしたものかと辺りを見渡してみる。

 あった。

 木陰に隠れた秘密の出入口。どこかの輩が腐食した鉄格子を曲げたあとだ。F氏も輩の真似をしてもとに戻された鉄格子を曲げてみる。うまい具合に大人ひとり分が入れる穴ができた。尖った切り口でシャツ裂け、間もなく血で赤くなった。客席の裏に出ると心を落ち着かせて競技場の中心まで歩いた。


 しばらく待っていたが誰も来る気配が無かった。空がいよいよ明るくなってきた。失敗だろうか。見当違いの場所に来てしまったか。焦りが汗となって手のひらを湿らせる。もしかしたらアパートの方だったかもしれない。勘に頼りすぎた。自分を信じすぎた。それとも何か呪文でも必要だったのか。冷静になろうと背筋を伸ばす。頭の傷が疼いた。疼きが眩暈に変わる。地面が揺れ始める。あの日感じたのと同じような宇宙全体がスライドするみたいな揺れ。たまらずしゃがみこみ眼を瞑った。


 眼を開くと太陽が真上に昇っていた。白いランニングウェアを纏った女性がトラックで細長い手足を振り子のようにして走っていた。彼女の長い髪がきらきらと光っている。F氏はその無駄のないフォームに見惚れて眼で追った。コーナーを曲がったところで彼女の足が地面から浮き上がった。背中からは白い煙のようなものが湧き立ちやがて六枚の羽根に成長した。六枚のうち四枚は女性の身体に纏わりつき間もなくウェアと区別がつかなくなってしまった。いや最初から白いランニングウェアは彼女の羽根だったのかもしれない。女性は飛び去ってしまう前に一度だけF氏のほうに振りむいた。その表情が憂いなのか、諦めなのか、はたまた期待なのか、遠すぎて判別がつかない。天使はやがて太陽の光に吸い込まれるようにして見えなくなった。


 また眩暈だ。揺れる。揺れる。何もかもが波を打っている。

 眼を開ける。殺人的な陽光に耐えきれず手で顔を覆う。先程とは違う世界。隣接した広い公園に木々の姿はない。遠くに見える高層ビル群のひとつが途中からぽっきりと折れているのが見える。他の建物もどれも半壊している。一面瓦礫と砂の大地。背後で誰かが裾を引っぱるのを感じた。風が吹いたのかと誤解するほど弱い力。振り向くと小学校に入学したかしていないかくらいの男の子が小さな手で上着の裾を掴んでいた。サイズの合わない埃だらけの服を着て、愛らしい丸みをおびた頬に乾いた泥を付けている。

「お水」かぼそい声で少年が言った。

 聞き取れずF氏が「えっ」と返す。

 男の子はF氏の反応に怯えながらも精一杯の勇気を振り絞って再び同じ声量で繰り返した。

「お水を下さい」

 F氏は子供から視線をあげ競技場の名残りがある廃墟を見渡した。見覚えのある建物がかろうじて残っている。監視員が普段詰めている管理センターの跡だ。この世界で水道が生きていればいいが。少年の手を掴もうとして後ずさりされる。

「ほら見てごらん。あの場所なら水があるかもしれない」

 それでも男の子は表情を変えず首を横に振った。なんとも言えぬ挫折感を覚える。この子にいったい何があったというのだ。少年は大人のことを、人のことを1パーセントも信用しちゃいない。それなのにこの子は生存するために知らない大人のオレにすがっている。

「わかった。いま水を探してくるからここで待っているんだ。独りで待っていられるね」

 男の子が弱々しく頷いた。F氏は上着を脱いで男の子に差し出す。

「日差しが強いからこれを頭に被るといい。そうだ。すぐ戻ってくるから」そう言って管理センターへ駆けだした。

 陸上競技場の弾む地面はこの世界では足元をすくう砂地に変わっていた。F氏は何度も振り返って幼い姿を確認した。男の子は炎天下のなか上着を日傘代わりにしてまっすぐF氏を見つめていた。

 入口には鍵が掛かっていたが朽ちていたので力任せに引っ張ってドアごと倒した。給湯室を見つけて湯飲みを探す。水は最初は濁っていたもののしばらくすると透明なものに変わってくれた。毒味も兼ねてまずは自分がと口元に持っていったタイミングで水量が細くなった。慌てて水を止め湯飲みをそっとシンクに置く。それから食べ物はないかと部屋を漁った。物置から非常食の乾パンと氷砂糖が見つかる。湯飲みと非常食を手に建物から出ると男の子が立つ場所まで早足で歩いた。あと十数メートルというところで次の眩暈が襲ってきた。

「まだだ」

 水がこぼれるのもかまわず走りだす。目の前の世界が変貌し始める。手にあるはずの湯飲みと非常食が素粒子レベルで消えて指の間から無情にこぼれていく。


 辺りは暗くて寒かった。夜とも違う。空が不気味な色をしたガスで濁っているのだ。F氏は息苦しく感じた。酸素が少ない。地面に落ちた上着を拾って力無く袖を通した。

 いくつもの並行世界が互いに引き寄せあっている。引きあっては絡まる。絡まった捻じれに耐えられなくなった世界から順番に崩壊していく。

 彼は涙を流れるままにして先程天使が飛んで行った方向へ悪態をついた。子供ひとりも助けさせてはもらえないのかと。最後の涙が顎から落ちた時、次の眩暈が始まった。

 

 今度は室内だ。F氏は見知らぬ大学の広い講義室後方に座っていた。壇上では犬を連れていない眼の見えるトモナガ博士が講義をしていた。

「私達が見ている現象は四次元の物を三次元に投影した、いわば影絵に過ぎないと唱える学者もいます」

 ひとつ前の席に座るタナカマルが手を挙げた。

 Fの隣でペンを弄んでいたサチエが身を寄せてきて囁いた。「ねえM理論のMって結局何を略したMなわけ」

 窓から入る優しい陽の光と微風が眠気を誘う。また眩暈だ。


 曇ってはいたが先程の酸素の薄い世界よりはずっと明るい。風景はF氏の知る陸上競技場に戻っていた。隣の広い公園の木々も青々としているし その向こうの高層ビルも健在だ。降り始めた雨が弾力性のあるトラックを濃い色に染めていく。雨粒に打たれているF氏はなんだか捨て鉢な気分になっていた。予想は外れた。たぶん手遅れ。もともとそんな器ではなかったのだ。申し訳ない。オレの責任で間もなく世界が消える。これでもうすべてが終わりだ。


 そう。何もかもがお終いだ。すべてはオレの不甲斐なさ。


 背後から声がした。

「遅れてすまない。いまそこで息子に水を飲ませていたんだ」

 なんとも気恥ずかしい声だ。録音された自分の声を聴かされているみたいな感覚だ。

「それにしても酷い姿だな。その頭は大丈夫なのか」

「お互い様」

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