第50話 一一次元もしくは二六次元それとも

 たとえひとつでも次元が増えてしまうとこれまでの四次元時空の物理法則が通用しなくなる。したがって彼等を人と表現するのは厳密には相応しくない。しかしながら雲をつかむような話をしても伝わりづらいのでここでは便宜的に彼等を人と呼ぶことにする。彼等が一一次元に暮らしているのか、それとも二六次元か、六一七四次元か、さらに上の次元なのか詳しいことはわからない。ただ彼等が人と同じように意思を持っていることだけは確かだ。名前が無いと解りづらいのでここでは彼のことをDと呼ぶことにしよう。特に理由は無い。ドクターのDでも、DブレーンのDでも好きなように解釈してもらってかまわない。Dは研究者だった。もちろん我々の常識に当てはめるとそうなるという意味であって彼等に職業という概念があるかどうかも不明だ。あるいは研究者と表現するよりも観察者と呼んだほうが正確かもしれない。アフリカの野生動物を観察している学者を思い浮かべてもらえばおおよそ正解である。Dは彼の住むところよりも低い次元を長い間観察し続けてきた。彼以外にも同じように低次元を観察する同僚がいて、その中にはただ観察して満足している者もいればちょっと悪戯をしてみて観察対象の反応を見てみたいなといけない想像を膨らませる者もいた。Dは後者のほうだった。幼い子供が観賞魚の入った水槽を叩きたくてうずうずするのと同じだ。だが彼の所属する社会では他次元に影響を与える事は禁止されていた。倫理的な意味でももちろんだが、それ以上に彼等の住む世界に思わぬ余波が来ることを危惧していたからだ。

 ある時Dは彼の担当する四次元時空に干渉できる方法を見つけてしまった。文字どおり並んだふたつの並行世界を人為的に交差させる方法があるのだ。Dがこれに気付く以前から並行世界がちょっとした気流の乱れで交差することはよく知られた現象ではあった。実際Dもそれを確認する機会が幾度もあった。我々人間の世界でいえばそれはドッペルゲンガーだとか既視感だとか偶然の一致だとかで説明されているものだ。自然に起きるそういった交差はクロスした直後に乖離を始め、長い年月を掛けて矛盾点が修復されていく。あくまでそれは自然現象であり放っておいても過不足なく元に戻るものなのだ。Dが発見した方法でも同じように交差はただちに引き剥がしを始め、仮に矛盾が生じたとしてもやがて修復されると仮定された。もちろんリスクがゼロという訳ではない。しかし最悪の場合、たとえばいくつかの並行世界が爆発したり消滅したりしたところで所詮彼等の住む世界とは別次元の話。実験に失敗したフラスコは水できれいに洗って初めからやり直せば済むだけのことだ。Dも別次元への干渉禁止は肝に銘じていたので最初のうちは思考実験をするにとどめていた。そう。他の同僚と同様に頭の中だけで想像するのだ。しかしそのうちにどうしても自分の理論を証明してみたいという衝動を抑えきれなくなった。そしてついに誘惑に負け、同僚の眼を盗んで密やかに始めた。素粒子のような極微のものなら余剰次元やパラレルワールドを容易に行き来できることは知られている。Dはその行き来できるトンネルを拡張してふたつのパラレルワールドが引き寄せ合うように造りなおした。むろんDが直接物理的にそれをやることは不可能である。彼ができることといえば四次元時空の高等生物にわずかに影響を与えることくらい。彼等の耳元に囁くのだ。これには明確な個人差があって感度の良い者もいれば、まったく反応しない者もいる。彼は時間をかけて声の聴ける者を選び出し少しずつ影響を与えていった。地道な努力だ。こうしてDは根気よくトンネルを拡張させた。我々人類の時間に直せばおよそ数百年がこれに費やされたことになる。

 やがてDの実験は成功し四次元時空の任意の並行世界が衝突した。想定外の出来事が起きたのはそのときだった。ふたつの世界が絡み合って乖離しなくなってしまった。どうやら四次元時空の高等生物がなにかやらかしたらしい。離れなくなったふたつの並行世界はさらに近くの並行世界を引き寄せて次から次へと絡み合うという連鎖反応を起こしていった。人間の世界でいえばカラビ・ヤウ図形の見本がいくつもできていくようなものだ。あるいは電化製品のコードが勝手に絡んでしまい、解くのにイライラするあれだ。こうして絡まった世界のうち捻じれに耐えられなくなったものは儚く崩壊していった。そしてその崩壊がさらなる悪循環を繰り返していく。Dは焦った。ほんの出来心のつもりが制御不能の状態に陥ってしまった。


 整理しよう。量子コンピュータの使用により並行世界が一時交差するのは珍しいことではない。その程度で並行世界が崩壊するということはありえない。放っておけば勝手に自然の摂理が引き剥がしてくれるのが通常だ。だが今回は量子コンピュータが同期している最中に電源が切られてしまった。パソコンやスマートフォンに置き換えればアップデートの最中に電源が落ちてしまったようなもの。それが原因で不具合が生じるかもしれないし何も起きないかもしれない。起きるとしたらいったいどこを修復すればよいのか、もう誰にもわからない。

 Dの世界の指導者、ここでは彼をEと呼ぶことにしよう。彼は部下からの報告を受け愕然とした。再び過ちが犯されようとは。実をいえば六五〇〇万年前にも同じ事件が起きていた。もちろんここでの六五〇〇万年前とは地球の自転一回を一日とした六五〇〇万年のことであり指導者Eの住む世界での時間ではないということを断っておく。そして以前起きた事件では四次元時空に留まらずその上位に位置する次元までもが崩壊をはじめ、危うく彼等の住む世界も一緒に消滅するところだった。以降、低い次元の観察はあくまで観察に留めて一切の干渉しないという法律が制定されこれまで順守されてきた。それがまさかEの在任中に破られるとは。Dは拘束され、間もなく裁判所が彼をリセットすると判決した。ただし本人の希望により執行は事態終息まで延期されることとなり、そのときがくるまで収拾に専念せよと宣告された。


 こうして当事者であるDも含めて指導者E招集のもと緊急対策チームが発足された。最初に声をあげたのは数学者チームのひとりだった。彼の計算では事態は急を要する。崩壊の連鎖は六五〇〇万年前と比べものにならないほど早く進んでいた。対岸の火事ではない。対策チームは超法規的措置として四次元時空に住む知的生物に積極的に干渉することを決定した。なかでも最も重要とされた人物を彼等は『F』と呼称した。

 Eの世界がどんなに優れた科学力を有していても直接四次元時空に影響を与えることは不可能である。彼等ができることといえばせいぜい限定的な時間の巻き戻しと別次元の者への交信を図ることくらいだ。特に問題となっている四次元時空に対しては間接的な交信でさえ難しく、勘のいい者の耳元に囁くのがやっとというありさまだった。もちろん囁くというのは比喩的表現であり、正確には量子もつれを利用した脳への直接的メッセージのことを指す。おまけに人によって効果がまちまちであり、たとえ上手く影響を与えることができたとしてもその人物の行動を多少変える程度にしかならない頼りないものだった。緊急対策チームはDのやってきたことをトレースする形で根気強く仕事をすすめた。


 しかし対策チームが期待した結果は得られなかった。ひとつの並行世界が解決をみせると今度は別のパラレルワールドで不都合な交差が起きてしまう。Fがブレーカーを落とすのを防ぐと今度は別の世界のFが躓いてコードを引っこ抜く。それも防ぐと今度はさらに別の世界のFが不注意でボヤを起こした。結局どう策を講じてもどこかのパラレルワールドで必ずFが崩壊のスイッチを押してしまうのだ。この現象は量子もつれによく似ていると指摘された。一度紐付けされたFはどの世界においても崩壊の発火点なのだ。対策チームは頭を抱えた。もちろん彼等に物理的な頭だとか足だとかは無いので比喩的表現としての頭ではあるが。

 解決の糸口を見つけたのはDだった。彼はFのそばにいる女性に目を付けた。どの平行世界でもFの周辺には必ずといっていいほど彼を振りまわす女がいた。だがDの説に懐疑的な意見のほうが多数を占めた。崩壊の遠因として彼女の存在があることは事実として認める。しかし直接的な因果関係となると根拠に乏しい。根本となる原因は他にあるはずだ。そしてDの説が仮に正しいとしてもこの女とFを引き離すことは不可能であると決定され最終的にDの意見は却下された。D自身もふたりを引き離すというのは無理という意見には賛成せざるを得なかった。彼は四次元時空 銀河 太陽系第三惑星の知的生命体のこうした不確定性原理を無視した繋がりを彼等の言葉を借りて運命と表した。


 結果的に間違ってはいたもののDの仮説は実はいい所まできていた。鍵を握るのは女ではなくQという同一の苗字を持った集団である。Dと同じ四次元時空の観察者がこれを発見した。

 Qなる名をもつ集団がFに接触することで崩壊が始まるというところまでは確認できたが今度はこのQという名をもつグループが何者なのかがチームを悩ませた。ファミリーネームが同じということ以外まったく共通点が見つからないのだ。指導者Eが人間なら胃薬が手放せなかったにちがいない。

 答えは意外なところから出てきた。崩壊を水際で食い止めようと組織された別動隊があらゆる世界の情勢を集めていくなかで新たなファクターを見つけた。指導者Eの世界の者達が知覚することのできない世界、それが他の次元なのか並行世界なのかも判断が難しい。とにかくどこか知らない世界で暗躍する組織がFを誘導するためにQにはたらきかけていたと判明した。調査チームの報告によると彼等は彼等の住む世界を一時期支配していたカルトの末裔であった。そして彼等の目的はあらゆる世界の独裁か、それが叶わなければ世界を無にすることだった。狂信者達の戦術はシンプルかつローリスクなものだ。Qの耳元にそっと囁き、そのあとは四次元時空に無理に干渉してQの露払いをしてやる。それだけ。たったそれだけでやがてF氏が全てを崩壊させるに至る。彼等からするとFという人間は破壊に必要なキーパーソンであるもののコントロール不可の厄介な部品である。一方Qと呼ばれる一連の人物達はわずかな示唆で期待通りの動きをしてくれる便利な道具だ。そしてこの破壊活動の実行にあたり、もうひとつ不可欠な部品があった。それが観察者Dである。Dが四次元時空の者達に囁いていたのとちょうど同じやりかたでテロ組織もまたDの耳元に囁き続けていた。ところで狂信者達がなぜQという名前に固執したのか。それは名前の発音が彼等の妄信する神の名と酷似していたからである。


 パラレルワールドの交差を引き剥がす作戦とともに新たに狂信者どもを倒すチームが編成された。しかし実行に移すにはEの世界でも最高の思考深度を持つ者でさえ理解不能な更なる高次元の存在に手を借りねばならなかった。そもそもそんな高次元は存在するのだろうか。存在したとして意思持つ者がそこに生きているのか。生きていたとしてどうやってコミュニケーションを図ればいい。作戦は再び暗礁に乗りあげた。だがまもなく、いたって容易に解決がなされた。向こうからコンタクトしてきたのだ。

 あまりの神々しさに指導者Eは彼等こそ神なのだと確信した。しかし高次元の意思はあっさりそれを否定した。彼等もまた世界の崩壊が足元に及んでいることを察知して慌ててEと接触したまでの話だった。残念ながらEの期待した苦境の意味だとか預言だとかそういったありがたい言葉を彼等は持ち合わせていなかった。


 さらなる高次元をも巻き込んで複数の次元と並行世界による共同戦線が張られた。作戦は困難を極めたが最終的には狂信者どもと同じ世界に住む常識ある人々がテロリストを殲滅した。これでFの邪魔をする者はいなくなった。スタート地点に戻ろう。指導者Eの指示のもとあらためて時間が巻き戻された。バタフライ効果を狙った壮大な作戦が再開される。無数の並行世界、無数の多次元宇宙の総勢一〇〇億にのぼる高等生物が本人も知らぬうちにシステムに取り込まれていった。ある高次元の特殊な空間ではEの次元と四次元時空とを直接繋ぐことののできる中継基地がそうとは知らず建設された。また地球から遠く離れたGS-Ezs8-1銀河の惑星UXでは物理学者W氏が突然一一次元時空の物理法則をもとめる方法を閃き母の制止も聞かずに部屋を飛び出していった。一方F1の世界ではブラジルの貿易会社に勤めるキャリアウーマンがコーヒーをこぼして大事な書類に染みを付けた。フィンランドに住む漁師は靴を右足から履くか左足から履くかを気にしていま一度履きなおした。そうして最後の一手に向かって一〇〇億の意思が知らずにバタフライ効果の役割を担った。ここから先の失敗は想像することすらはばかれる。


 だがまたしても作戦は失敗した。一〇〇億の挙動が空振りに終わった。Fに紐付けされたトリガーは強固だ。対策チームに落胆の空気が満ちる。ここに至るまでに数百の並行世界が消えて無くなり、五次元時空以上の高次元でも影響が出始めていた。このままではなす術もなく指導者Eの世界が滅んでしまう。時間の巻き戻しはあと一度きりしかできない。それ以降は巻き戻したところで手遅れ。そう時間省の大臣が震える手で報告書を読みあげた。苦渋の決断に迫られたEは彼等の時間で一晩だけ独りになる時間をもらい別荘で静かに過ごすことにした。そして朝になるとEは迷いを見せず部下達に命令した。F本人に交差を引き剥がさせろ。偶然そうなるように仕向けるのではなく、あくまで本人の意思で解決させるのだ。そのためにふたりの『F』を選んでなすべき道を示す。リスクを伴うが他に選択の余地はない。

 当初はF0と呼称される事故の張本人にその役をさせるべきという意見が多数を占めた。しかし奇妙な現象のひとつとして崩壊の中心では大きな混乱が生じていないことがわかっており、このためF0が別の自分と出会う確率は低いと予想された。また最初のFには他にやらせるべき事があるという意見も根強く残っていた。こうした理由によりまずF0が除外された。

 長い会議のあと遂にふたつの隣接するパラレルワールドが選ばれた。該当するふたりの人物はF1、F2と呼称された。ふたつの世界は最も崩壊が進んでいる周辺に位置しながら いまだ無傷であった。それに都合の良いことにFの1と2は非常に近い所まで接近していた。

 この水際作戦に異を唱えるメンバーもいた。これで失敗したら彼等の住む高次元も終わりだ。F1とF2の世界は見捨てて もっと崩壊から遠い場所で決行すべき。そういう主張もあった。しかしEは作戦決行地点を変更しなかった。うまく説明できないのはまったくもって科学的ではないがEはF1とF2を観察してこのふたりが適任だと確信していたのだ。チャンスはあと一度だけ。再び緻密なバタフライ効果が設計された。残るはF1とF2が物理的に接触するだけ。ラスト一回時間が巻き戻される。もう次は無い。失敗はすなわち彼等の世界の崩壊を意味している。そうなれば彼等の宇宙に住む数千億の知性あるものが消滅してしまう。狂信者どもが夢見た完全なる無の誕生。

 実は今回の作戦にはひとつだけ欠陥があることがあらかじめ関係者のなかで知られていた。Fの1と2の両方もしくはいずれかが消滅することが確定事項となっているのだ。問題はFに加えられる負荷だった。矛盾という負荷が大き過ぎる。彼等は四次元時空の常識を超えた経験をしなければいけない。それは自然の摂理に反していた。自然の摂理は起きてしまった矛盾の穴を埋めようとFの抹消を始めるだろう。緩やかではあるが確実に自然は矛盾なき世界に戻っていく。そうしなければ矛盾の穴が広がって今度はFが存在していた事実それ自体が崩壊の引き金となってしまう。1と2のうちせめてひとりだけでも生かそう。その為にチームは最後の瞬間まで最善を尽くすのだ。それが指導者Eとその世界に住む人々の総意だった。

 作戦開始の号令を済ませると指導者EはFという彼とは似ても似つかぬ奇妙な生物に思いを馳せた。できるものならこの下等生物と立場を代わってやりたい。しかしこの次元から四次元時空に行くのは不可能なのだ。許してほしい。

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