第49話 クロス

 後頭部にはまだズキズキと脈打つ痛みが残っていた。鏡を見ると頭に巻かれた包帯から血の色が滲んでいた。無事七階に降りたF氏は一旦部屋に帰り、何をどうすればいいのかと考えがまとまらずに部屋の中を歩き回った。ふと吊戸棚が目に入りなぜかこのタイミングでチョコレートを食べてしまおうかとも思ったが包装紙を破るのも面倒な気がしてやめた。とりあえずテーブルに放置されたコーヒーミルをまた回し始める。大切なことを聞き忘れていた。まったくこれだから。さて、いったい何処に行けば並行世界の自分と会える。前の部屋か。それとも一階のエントランスホールで相手が来るのを待っていればいいのか。いいや違うな。眼を閉じて精神を集中させる。間もなくビジョンが浮かんできた。相手も自分。考えている事は読める。再びコーヒーミルを放置して靴箱の扉を開く。ふと手が止まり今度は急に怖気づいた。どうしてオレがこんな危険な目に合わなければいけないのだ。オレは死ぬのか。サチエは言った。ドッペルゲンガーを見た者は間もなく死ぬ。隣のベッドの患者も。たぶんユキさんも。

すがるようにサチエを想う。声を聞きたい。オレはサチエを変えられると思っていた。彼女は自分を持たない。誰かに媚びて、その誰かの意見を自分の意見とする。そんな彼女が哀れに見えた。だからオレが変えてやりたいと思った。だがそれは失敗に終わった。彼女を変えるどころかオレは彼女に巻き込まれ振り回され、いつの頃からか自分を見失ってしまっていた。変えられたのはこちらのほう。オレは人を変えられるような器ではなかった。自惚れもいいところ。人は滅多なことでは変えられない。世の中には成長を信じる者と、そうでない者がいる。ではなぜそこまでして彼女を。それは彼女が美しかったから。それもある。自分に優しくしてくれたから。それもある。でも結局オレは彼女に自分自身を見ていたのだ。彼女を救うことは自分を救うこと。そう信じていた。

 F氏の思考がこんどは妻から家族へと移されていった。末子をスケープゴートにすることで成りたっていた家族。そんなことも知らずに親をたいせつにしない奴はクズだと罵る同調圧力。だからオレは逃げだした。それでもなぜだか2人いる姉のうち上の姉だけは悪い印象がなかった。どうしてだろう。それから彼はサチエや家族から連想される自分を嫌う人々を順番に思い浮かべていった。オレが悪かったのか。そういう一面もあっただろう。しかし明らかに度を越した連中もいた。サチエや家族はまだ良い。しかしこれまで出会ってきたそういった連中。極端に利己的な、身勝手な奴ら。魔女がそう呼ぶ思考深度の浅い者達。そんな奴らのためにオレがこれから犠牲にならなければいけない理由なんてあるのか。オレが犠牲になったところで奴らが感謝することなどあるまい。せいぜいしつこい鍋の汚れが落ちたくらいにしか思わないだろう。それはあまりに不条理ではないか。

 その時だった。

「この世は修行の場なのよ」

 突然F氏の脳裏に魔女の言葉が響いた。そうか。そういう意味だったのか。使い古されたセリフだと思っていた。もとより他人に言われなくとも頑張ってきたつもりだった。しかし朝永夫人の言いたかったのは努力が足りないとか人生とは苦労するものだとかそういうありきたりな意味ではなかったのだ。あれは『自分にとって』だけでなく『誰にとっても』という意味なのだ。オレは拙速だったのかもしれない。玄関で靴を履いて靴紐を固く結んだ。

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