第48話 コンピュータ室
その瞬間のことをF氏は思い出すことができなかった。気付けば彼は闇の中でぼうっと佇んでいた。間もなくして部屋の外から異変に気付いた同僚の叫び声や足音が聞こえてきた。やっと我に返る。
何て事をしてしまったんだ。
指先の震えが止まらない。背骨に沿って冷たい汗が流れているのがわかる。非常灯に照らされた肩がブレーカーを戻そうと手を伸ばしかけたが途中まであがって躊躇した。今更ブレーカーをあげたところで言い逃れできないじゃないか。むしろこの段階で電気を復旧させればさらに被害が大きくなる可能性もある。
部屋の外で叫ぶ声がする。F氏を呼んでいるのだ。誰かの指先が外から自動ドアをこじ開けようと力んでいる。咄嗟に言い訳を考える。『躓いた拍子に何かに触れたらコンピュータの動きが止まった。これって床にコードを垂らした人が悪いよね』『おや? この部屋はどこだい。ちょっと飲み過ぎてしまったらしい。私は自分の家の鍵を忘れたんでバーからオフィスに戻ってきたところなんだが』何を考えている。惨めったらしい。正直に謝って復旧作業に専念する以外にないじゃないか。いや果たして復旧できるのか。膨大な時間と資金と人材が一瞬で水泡に帰した。漆黒の罪悪感が彼をずぶ濡れにする。いったいどれほどの時間をかけたら復旧できる。事によっては初めからやったほうがまだ早いかもしれない。
ドアが開いた途端、数人の白衣を着た人影が小走りで近づいてきて早口で問いかけてきた。でも何を言っているのか理解できない。まるで知らない国の言葉みたいに人の声が聞き取れない。彼らはどんな表情をしているだろう。怒っているのか。困惑しているのか。呆れているのか。私の家族のように。中学の時の英語の教師のように。しかし相手の表情は暗くてわからない。良かった。向こうもきっと私の顔が見えないはずだ。あとから部屋に入ってきた誰かが獣のように唸った。恐怖で打ちのめされて瞳孔が大きくなった。恐怖で震えることさえできない。
その瞬間だった。F氏の脳裏に先程のサチエの言葉が浮かんだ。「自殺します」そうか。それをしなければいけないのは彼女じゃなかったのか。それをしなければいけないのは私の方なんだ。F氏の顔に狂気の笑みが浮かんだ。駆け出すと部屋に入ってきた同僚達と肩がぶつかるままに擦れ違い、そのままエレベーターホールの方向に走った。引き留めようとした手を振りほどき、よろけた足のままエレベーターの扉にぶつかる。箱に収まってしまうと屋上行きのボタンを押し、その指で今度はせっかちに閉めるボタンを押した。事情を聴こうと追いかけてきた同僚達の足音がドアの向こうに締め出された。
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