第47話 対決

 F氏の誤ったバグ修正が暴走の始まり。そんな出所不明の噂が研究所のあちらこちらで囁かれていた頃、サチエが突如無断欠勤してそのまま顔を出さなくなった。仕事に支障は無かったがF氏はそれでも彼女のことを心配した。そばにいればトラブルばかりて気が気でないが不在となるとそれもまた気になってしかたない。自分の接し方に落ち度があったのかと不安になったりもする。仕事がはかどらずその日だけでもつまらないイージーミスを四回繰り返した。数日後、窓の無い彼の部屋にふらりとジェームスが立ち寄りサチエ女史が正式に仕事を辞めたと伝えた。退職理由がF氏のパワハラとセクハラだったことをジェームスは伏せておいた。信じていなかったからだ。


 眠れない夜。アッパーウェストにあるアパートメントホテルの一室でF氏はコーヒー豆を挽いていた。私から見えないところで何かが進行している。私のことを良く思わない誰かが策を練ってせっせと外堀を埋めている最中だ。たぶんその人物は表に出てこない。狡猾だから。まるでアリジゴクの巣に落ちたアリみたいだな。マグカップにコーヒーを半分、残り半分をガロンで買った牛乳で割る。砂糖は入れない。セラフの番号に連絡してみる。あれ以来彼女は一度も返事をしてくれない。いったい私の何がいけなかったのだろう。心臓が使い古されたモップ絞り器に絞られるようにきりきりと痛む。みんな離れていく。過ぎ去ったはずの過去が思い出される。家族から充分な承認を得られずに育った子供時代。スケープゴートであることを期待され続けた少年時代。同調圧力に疑問を感じながらも何も行動に移せなかったあの頃。不安で身体が強張っていた当時の自分に引き戻されそうになる。いやもしかしたらサチエ女史と出会った瞬間からそれはもう始まっていたのかもしれない。窓辺に立ち少し渋いガラス窓を開けた。夜の風が部屋に入りニューヨーク独特の匂いが鼻をくすぐった。多様な文化と腐敗と人いきれがコンクリートに染み込んで取れなくなった匂い。F氏は眼を瞑り、外を走る自動車のタイヤの摩擦音に集中した。


 翌日F氏は日本人の中で比較的仲の良かった人物を職場の斜向かいにあるドーナツ屋に呼び出した。噂の出元を突き止めようとしたのだ。

「違うね。今は君の言うあのかたが裏ボスじゃない。今はQという人物が日本人コミュニティを牛耳っているんだ。策士というか政治家タイプというか隙を見せちゃならん男だ。ああそうだ。もちろん彼もコートテイル組さ。知ってるよ。君達が影で僕らのことをそう呼んでいるってことを。まあ自覚はあるよ。こちらもおたくらに陰口を叩いている。お互い様ってところかな」

「QというのはあのエグゼクティブなんとかのQ」

「意外だな。彼のこと知ってるんだ。君はすっかりアメリカナイズされているから日本側の人事に興味が無いと思っていた」

 F氏は肯定とも否定ともとれる返事をした。

「Qは日本人以外にも性格に偏りのある連中を見つけては自分の傘下に収めている。発信源が掴みづらいのはそういう仕掛けがあるからさ」

「それじゃあ発信元はQで、流しているのはQの傘下の連中という事で間違いないんだね」

「本当に僕を巻き込まないと約束してくれるんだろうね」

「約束通りコーヒーを奢ったじゃないか」

「随分と安上がりな話だな。ほらダウンタウンに個室のある高級日本料理店ができただろう。今度そこで奢れよ。僕もそろそろコートテイル組との距離を見直す時期だと考えてる。君を羨ましいと思っている日本人も少なくないんだ」


「つまり君は私がデマを流していると言いたいのか」

 スーパーエグゼクティブプロデューサーQはふてぶてしく笑った。その眼はチョモランマより高い場所から見くだしマリアナ海溝よりも深く軽蔑していた。

「現段階では私が間違った修正をしたという根拠はない。部下のなかにもそれを突き止めた者はいない。私の部署から情報が出ていないということはデマ以外の何ものでもない。なぜならその分野において我々が一番優れているからだ。次に噂を流している人間を順番に辿っていったら貴方に到達した。つまりデマの出元は貴方だ」

「まずひとつ君が間違っているのは噂とかデマではなく事実だということだ。次に君が間違っているのは情報の発信源は私ではない。考えてもみてごらん。私は量子コンピュータどころか普通のパソコンだってプログラミングできない。言語とやらを学んでないのでね。いいかい。ある意味において君がここに来たのは正しい判断だ。実のところ君を守れるのは私しかいない。私にはそれだけのバックが付いているからね。君には後ろ盾が無いそうじゃないか。ひとつたりとも。そうなんだろう。私は君が間違った修正をしたという決定的な証拠を掴んでいる。助けてやる。今ならふたりで揉み消すことができる」

「証拠とは」

 Qは曖昧な言葉で逃げた。

「嘘を言いましたね。貴方は根拠を出せない。いったい私を陥れて何が得られるというのです」

「陥れるだと。デマを言うな」

 突然のQの激高にF氏は気圧されそうになった。そしてなぜだか中学時代に英語教師に説教された時のことを思い出した。何かがずれている。議論が上滑りしている。振り返ればサチエ女史にもそんな傾向があった。彼女元気にしているだろうか。そうこうしているうちにQの声が一層大きくなった。

「いいか。君は研究所内の女性にセクハラしたうえにストーカー行為をした」

 F氏は耳を疑った。話が飛び過ぎて目の前の男の言う内容がにわかには理解できない。

「セラフという職員を知っているな。彼女は君からセクハラを受けたと言って退職した」

 言い返せなかった。セラフから見ればそうとられるような事をしていたのかもしれない。連絡をよこさないセラフにF氏は動揺した。

「それだけじゃない。被害者は複数にわたっている。そのうちのひとつは日本の弁護士に相談している最中だ。偶然彼も私と同じ苗字なんだがね」そう言ってQはクックっと笑った。「相手の女性は裁判での決着を望んでいるがそれをいま私が引き留めているところだ」

「何を言っているんだ。いった何の話なのかさっぱり」

「ストーカーはみんなそう言うのさ。自分と彼女は付き合っていたとかなんとか。インド女もどうせそうなんだ。法廷ではどちらの主張が信用されるかな」またQがクックっと笑った。

「貴方はいったい何を。誰を指しているんだ」自分で言ってF氏は自分が蟻みたいに小さくなっていくような気がした。まさか。

「サチエを知らないのかい。サチエというエンジニアを君は強引に食事に誘ったという事実があるね」

 やはり彼女か。たしかに日本の食べ物に飢えていると聞いて食材が手に入る店や飲食店を紹介して歩いたが。なぜこうも彼女は私を悩ませる。必死に声を絞り出した。

「嘘だ」

「動揺しているな」

「彼女と話をしたい」

「サチエは怯えているんだ。陰湿なストーカーに」

 F氏は心から憤慨した。言いがかりも甚だしい。ここまで頭に血が昇ったのはもしかしたら生まれて初めてかもしれない。「証拠は。証拠はあるのか」

「あるね。サチエは私に絶対嘘をつかない」

「それは証拠にならない」

「サチエは絶対に私に嘘をつかない。なぜなら彼女は私の妻だからだ」

 眩暈がした。床が波を打っているような感覚に襲われた。

「サチエさんが貴方のワイフだって」

「そうだ。同じ職場に夫婦でいるのも周囲に気を使わせると思って旧姓を使わさせていた。指輪も職場でははずさせた。それがまさかこんなストーカー事件に巻き込まれるとは。彼女は文科省が認めたスーパープログラマーなんだぞ」

 彼女が文科省の推すスーパーブログラマーだって? F氏は増々混乱した。冷静さが削られていく敵の姿を見てQはいよいよ楽しくなってきた。だから嘘はやめられない。

「それにだ。この件は既に君の上司であるジェームスにも伝わっている」

 Qの態度がいよいよ芝居じみてきた。彼は自分に酔っていた。F氏がまだ冷静であるならばすぐに嘘だと見破れたに違いない。

「彼も困っていたよ。サボってばかりいる平社員がついに問題を起こしたとね。前からクビにする理由を探していたそうだ」

「私の実力はともかくとして真面目に働いてはいる。それに平社員でも」

「出鱈目なんか言ってない。ほら日本からファックスが届いた。向こうの弁護士が作成した告発状さ」

 F氏の額に滲む汗を見てQはあともう一息だと踏んだ。

「これを言えば君が傷付くからと言わずにいたんだが、もうしょうがない。さっき親友のジェームスから相談を受けたんだ。いやもちろん君の犯したパワハラとセクハラもそうなんだが、ジェームスは君が悪意を持ってコンピュータを暴走させたと睨んでいる。それで私に相談してきた。私は自分の持っている証拠を彼には見せなかった。君を守りたかったからね。同じ日本人として。私も政府のひとりだからな。日本人を守るのも私の仕事だ。ジェームスがそんな事をいう訳ないと言いたいのだろう。だったらここから電話すればいい」

 F氏はQに促されるまま内線を入れた。代理の者が外に出ていると言って電話を切った。

「外出中だと言われたろう。本当は電話のそばに居るのだが君と話すのが嫌なんだ。彼も君の味方だとは思われるのは迷惑なんだよ。本当の事を言うと既に私は日本政府としてジェームスから君のことを一任されている」

 もちろんQはジェームスについても嘘をついていた。たまたまジェームスが急遽要人を迎えに行くためにJFK空港に向かったという情報を掴んでいたまでの話だ。

「心配するな。言うとおりにすれば君を守ってやる。私は君の味方だ。だから命令に従え。君が暴走させたのだから君が落とし前をつけるんだ。いいか。文部科学省はコンピュータの電源をすべて落とせと言ってきている。予備電源もだ。調子が悪ければ一度電気を落とす。当たり前じゃないか。子供でもわかる。もちろん内閣もそれに賛成だ。ところがだ。アメリカ政府がそれでは面子が立たないと言って首を縦に振らないんだ。まったくアメリカ人ときたら。連中は問題解決よりも自分の立場ばかりを気にして隠蔽工作に走るのだな。そういう国民性だから仕方あるまい。そこでだ。君が責任を持って電源を落とすんだ。そのあとのことは心配するな。私が君の面倒を見よう。私の言う通りにしてさえいれば君の将来は安泰だ。忘れるな。これは大臣からの直接命令だ」

 科学に疎い日本の文部科学大臣が記者の前で「叩くかプラグを抜くかすれば良い」と失言して国民から失笑を買ったのは本当だった。F氏もそのニュースは間接的に聞いたことがある。しかしそれを実行せよとは。

 F氏の疑問の顔を読んでQはまくしたてた。「誰かがリセットしなければいけない。このプロジェクトの投資額は小国の国家予算よりでかい。金を出したのは日米欧その他諸外国だ。なかでも日本の出資額が最も大きい。このままでは開発チーム全員が世界中を敵に回すことになるぞ。実を言えば研究所内の上層部は電源を落として一からやるしかないと結論を出している。しかし今も言ったようにアメリカのお偉方が許さない。それだけなのさ。面子。面子。どうしてこうもプライドが高いのかね。やれやれだ。だからだ。誰かが泥をかぶって気が触れたか躓いたかしてブレーカーを落とすしかないんだ。問題はそれを誰がやるか。一瞬だけスケープゴートになればあとはお咎めなし。オレはアンタを助けると約束している。オレの好意を無駄にするな。同じ女を愛した好じゃないか。サチエのことも私からきちんと言い諭しておく。きっと妻にも落ち度があったんだろう」

「できない。私は決して量子コンピュータの仕組みについて全てを理解している訳ではない。悔しいがそれは認める。だからといってむやみに電源を落とすことの危険性くらいは分かる。これはそんな簡単な問題じゃない。世界中の理論物理学者や数学者や技術者の意見がまとまるまでは手を付けるべきではない。それにもし仮に電源を落として強制終了するにしてもそれは私の役目ではない。それをやるべき担当者が行うものだ。貴方は嘘をついている」

「電源を落としたら法的な措置は取り下げよう。ストーカーの件は忘れてやる」

「やるなら仲間と話してからだ。貴方にその権限はない」

 Qがわからずやを恫喝した。「言っていることが分からないのか。君の処遇に関しては全権を私に委ねられているんだ。君は捨てられたんだよ。このままセクハラとモラハラとストーカーと偽計業務妨害と数兆円という損害賠償を独りで請け負うのか、それとも電源を落として一生楽して暮らすかだ」

 Qは広げ過ぎた嘘をそろそろ収束しなければと思った。まあ、どうとでもなる。妻に恋愛感情を持ったFが錯乱して電源を落とした。奴の言っていることはすべて妄想から生まれた虚言だとでも言っておけばいい。必要ならこちらから先に訴えてしまえば所内の連中も信じてくれるだろう。なんせ私はわざわざ日本から呼ばれてやってきた敏腕プロデューサーなのだから。ほとぼりが冷めたところでそっとフェードアウトすればいい。

「これがコンピュータルームに出入りできるパスカードだ」

 コンピュータルームに入れるパスカードは一部の者しか持つことが許されない。それをQが持っていたという事実はF氏を少なからず驚かせQの話に信憑性を持たせた。実はこれは肩書上の日本グループ代表が催したホームパーティーで賭け事をした際の戦利品だった。もちろん相手は八百長で負けたことを知らないし短期間とはいえパスカードを人に貸したとばれたら彼も更迭される。

 F氏がうろたえているのを見てQはやおら電話の受話器をあげた。そして外線で妻に繋いだ。サチエが返事をするとF氏に電話で直接話すよう受話器を差しむけた。

「サチエです」

「サチエさん、Qさんの奥さんというのは本当ですか」

「最初にそう言いましたよね」

 F氏はまたも困惑した。彼女の美しさにのぼせて大事な話を聞き洩らしていたのだろうか。彼は羞恥心に苛まれた。

「いま空港に向かっているところです。私は傷ついています。日本に帰ったら正式に訴えようと思っています。でも夫に止められています。お願いです。主人の言う通りにしてあげて」

「それが貴女の本心なのか」

「はい。そうしなければアタシは自殺します」これは咄嗟のアドリブだった。

「何を言っている。そう簡単に死ぬとか口にすべきではない」

「じゃあ主人の言う通りにして。私もできれば貴方を訴えたくありません。主人の言う通りにしたら取り下げると約束します。言う通りにしなければ正式に日本に帰って訴訟を起こします。お願いだからアタシに訴えさせないで」

 F氏は完全に冷静さを失った。急に記憶が巻き戻されて家族のことや育ってきた環境が思い出された。どんなに遠くに逃げても行き着く先は彼等の望む場所。スケープゴート。そうか。それが貴女の望みなんだね。分かった。もうどうでも良い。視線に入るようにQの指がデスクの上のパスカードをずらした。

 すっかり動揺したF氏を眺めてQは莫迦な奴だと心で笑った。人は冷静さを失えばどんな稚拙なトラップにも引っ掛かる。大切なのはトラップの精工さではない。いかに相手から冷静さを奪うかだ。精神的に追い込む、逆におだてる、肉体的苦痛を与える、満腹、空腹、恐怖、異性、酒、ドラッグ、不眠、孤立どれでも良い。要は冷静さを失わさせればいいのだ。こんなもの永田町では常識だぞ。部屋を出ていくF氏の背中が左右に揺れていた。正気を失って平衡感覚までも乱れているのだ。「勝った」Q氏は閉まるドアに向かってガッツポーズをした。

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