第46話 暗雲
F氏の部署にひとりの日本人女性が配属されたのは広報部が世間に向けて量子コンピュータの情報を小出しにしはじめた時期だった。便宜上の上司であるジェームスは配属前日にFを部屋に呼び出して忠告した。
「明日来るスタッフには気を付けてくれ」
その声音だけで何が起きているのかF氏は察することができた。日、米、欧、その他協力国の次世代型量子コンピュータ開発は各国の政治や思惑が見え隠れする場でもあった。日本も例外ではなく派遣されるスタッフにはかなりの割合で財務省、外務省、文科省を通してコネで捻じ込まれた者が混じっていたことをF氏も知っていた。箔をつけるとか海外で羽を伸ばすとかそういった目的でやってくる連中だ。彼等は陰でコートテイル組と呼ばれていた。コートテイル組の人数は毎月ごとに増えてきている。この件は日本人以外のスタッフ、そして一部の良識ある日本人からも問題視されていたが、他国と違って日本人には本格的なスパイが紛れることもなく、彼等の給与もすべて日本政府から出されていたので優先して解決されるべき問題ではないというのが多くの者の見解であった。まして日本からは莫大な資金が投入されている。ゴリ押しの客人の面倒をみてやっても釣りは充分にきた。ただ彼等は仕事が出来ないので一緒に働くとイライラしてしまうのと無駄な人材が入る度に部屋が狭くなるのを我慢しなければならないという難点も我慢しなければいけなかったが。それとて恐ろしく優秀な日本人数名のおかげで一時の感情が相殺されるのがほとんどだった。これまでデバックチームにはコートテイル組が入ってくることはなかったが遂に侵略の手が伸びてきたというわけだ。
サチエ女史は案の定さっぱり仕事のできない人材だった。気立ては良いのだが要領を得ない。そもそも彼女はパソコンの操作すら怪しかった。F氏のチームはバグを見つけて修正するのが仕事なのにこれでは役に立たない。困り果てたF氏は彼女に中古のパソコンを一台与えてやり、好きなように遊んでよいと伝えてあとは放っておくことにした。
噂好きの日本人が自販機の前に集まっていた。タイミング悪くF氏はその前を通ってしまった。不快に思いながらも聞き耳をそばだててしまう。どこから得たのか輪の中のひとりが新入りのサチエは苗字を偽っていると囁いた。そりゃあ仕事をするうえでは旧姓を使ったほうが楽なこともあるだろうに。やれやれ日本人コミュニティは相変わらずドロドロしているようだ。聴くべきではなかった。それでも彼女のことが気にかかる。そう。美人で愛嬌のあるサチエ女史に興味をもってしまうのは男性ならばしかたのないことだった。
サチエがF氏の部屋に配属される少し前、同じく日本からひとりの人物が赴任した。彼の肩書はスーパーエグゼクティブプロデューサーだった。どういったところがスーパーでエグゼクティブなのか、一体何をプロデュースしているのかは不明だった。こちらもコートテイル組だろうと誰もが容易に推測できた。
男は赴任して間もなくF氏を会議室に呼びだし小一時間質問を浴びせた。F氏は男を上から目線の嫌な奴だなと思った。そのくせF氏以外のスタッフとはフレンドリーに接するのだ。理由は分からないがどうやらF氏は標的にされているらしかった。F氏は中学時代の英語教師Qと転校生Qを思い起こして身震いした。偶然ではあるが赴任間もない男もまた同じくQという苗字だった。
F氏の悪い予感が当たった。会談の数日後、デバックチームは窓からクライスラービルが見える部屋から窓の無い倉庫へと移された。そしてもとの部屋のドアにはスーパーエグゼクティブプロデューサーのプレートが付けられた。サチエが彼の部署に配置されたのはそれからすぐだった。何かが崩れ始めていた。
F氏を取り囲む環境が少しずつ変化していってもそれとは関係なくプロジェクトは順調に進み、とうとう次世代型量子コンピュータの開発が成功した。その夜は一階のイタリアンレストランを貸し切りにして朝までパーティーが催された。普段冷静な学者やエンジニアがこの夜だけは仲間に醜態をさらした。あちらこちらのテーブルから三分おきに様々な国の言葉で乾杯の声が上がった。
翌朝、二日酔いのエンジニアが端末の前に座ると想定外のことが起きていた。次世代型量子コンピュータが謎の暴走を起こしていたのだ。一切のコマンドを無視して入力もされていない計算を延々と続けている。強制的に終了しようとしても逆にエラーを出して人間のほうが排除されてしまう。エンジニアの身体に残っていたアルコールが一気に冷や汗として流れ落ちた。
情報は瞬く間に各部署を駆け巡った。F氏のもとにも緊急告知が入り、ただちに不具合の原因を探るプロジェクトが始まった。当初は盲点となるバグにより計算がループしてしまったのではないかと考えられた。しかしF氏のチームはそれを見つけることができなかった。一週間経ったあともコンピュータは誰も止めることができず休むことさえなく計算を続けていた。
そのうちに根拠は定かではないが一部の理論物理学の専門家が放っておけば良いという意見を出しはじめた。各部署は手を尽くしても原因究明が叶わなかったためにひとまずその言葉にすがることにした。研究所は表向き平静さを取り戻しつつあった。
Fと東洋人の女性が一緒に通りを歩いているのを見かけたのはコンピュータの暴走についてひとまず様子見しようという決定がなされてから最初に訪れた休日のことだった。その前夜セラフはF氏に電話をして残業続きだったから久し振りにミッドタウンのインド料理屋に行こうと誘った。しかし彼は用事があるからと言って断った。断られたのは初めてだ。嫌な予感がした。偶然ではあるがQというコートテイル組から悪い噂を聞かされたばかりだった。しかし彼のことだから休日出勤して納得のいくまで暴走の原因を究明しようとしているのかもしれない。そう気を取り直してセラフはひとりでミッドタウンに出かけた。久しぶりに買い物をしてFにも何か買ってあげようと頭を巡らせていた。
新しくできた五十丁目のラーメン屋の前を通った時だった。窓の向こうにはF氏と東洋人の女性が並んで日本のラーメンをすすっていた。
あれがQの言っていたサチエか。
セラフはその足で研究室に向かい三日三晩彼女の部屋に籠った。外に出た時にはやるべき仕事はすべてやり終えて、おまけに以前から打診されていたフランスとスイスの国境にある巨大な研究所CERNからの誘いを受けていた。
「最後だから言っておくけど、あちらこちらの部屋に盗聴器を仕掛けるのは悪い趣味よ」
セラフは研究所を去るときに名目上の上司にあたるジェームスに挨拶がてら忠告した。
「それも私の仕事の一部なんだ。それに君が盗聴器の電源を切っておいてもそのままにしておいただろう。君が裏切るような人物でないと信じていたからさ。いいかい。私にできるのは上の命令に従って盗聴器を仕掛け、君のような利口で誠実な者が盗聴器を外すのを黙認する。それだけなんだ。私の立場も分かってくれ」
「いったいどのくらい仕掛けてあるの」
「全部の部屋ではない。主要なメンバーは上の取り決めで設置したが九割は君と同じように各自で外している。あとは特別依頼のあったものや不穏な動きをする者、それと時々どこかの国の政府がゴリ押ししてくる無能な奴の部屋は私の判断で設置する。いつか追い出すチャンスを狙っているんだ。まあそのくらいだ。ここまで話したんだ。その件については勘弁してくれ。君だから正直に話した」
「あとね」
「まだあるのか」
「貴方、本当は数学も物理もプログラミング言語もすべて理解しているわよね」
ジェームスはやれやれと首を振った。「他の者に言うなよ。言ったら業務妨害で訴えるぞ」
「いいわ。黙っておいてあげる。これはある種の保険よ」
「君がこれ以上保険を保持しておく必要はないだろう。欲しい物はすべて与えてきたはずだ。退職でさえも。なあ、今からでも考え直してくれないか。君の損失はあまりに大きい。今がたいへんな時期だってことはわかっているだろう。量子コンピュータの演算は止まりそうにない」
「あれは暴走じゃないわ。アタシも最初は半信半疑だったけど。でも確かに計算は合っている」
「ああ。幾人かの物理学者もそう言っていた。じゃあなんだと言うんだ。私にも理解できるように説明してくれないか」
「そうね。例えるならスマートフォンをアップデートしている状態かしら。ただしアップデート元が問題」
「どこが元なんだ」
「ごめんなさい。上手く説明できる自信が無いの。日本のドクター・トモナガを呼ぶべきね。あとは彼に任せる」
そう言うとセラフは背中を向けて部屋を出ていった。閉まったドアの向こうからゴロゴロというキャリーの音が聞こえてきた。
ジェームスは抽斗の奥に隠しておいたウィスキーのボトルをその時初めて開けた。そして自分に言い聞かせた。
「いいかジェームス。オマエの管轄は自分の所属する国防省、研究所内の担当部署、それに少しだけならアメリカの諜報機関とも渡り合える。残りはせいぜい日本やヨーロッパとの調整くらいだ。たったそれだけ。権限といっても所詮はこんなものだ。だがなジェームス。次世代型量子コンピュータの開発という一大プロジェクトを成功させるためには多少の逸脱行為を犯す時期に来ていると思わないか。これ以上貴重な人材を失うのは御免だ。できるか。できるさ。オレならばな。人を殺す仕事よりはずっと気が楽だろう」
セラフが退職してから周囲のF氏を見る眼が変わった。F氏は職場で肩身の狭い思いをした。しかし果たしてセラフに誤解だと弁明できたであろうか。サチエ女史にはうんざりしている反面 気になる存在になりつつあるのも事実。あるいは彼のような親や周囲から承認を受けずに生きてきた人間にとって愛とはこういった二律背反を伴うものなのかもしれない。愛情と憎しみが交差して捻じれて最後には破壊される。そして厄介なことにサチエ女史もまた彼と似たような境遇であった。ふたりが惹かれあうには充分な条件だ。
まんまと部屋を奪い、女と別れさせることにも成功したQ氏は、F氏を出汁にすることで日本人コミュニティでの地位向上にも成功した。さてと次の段階に進もうか。送り込んだサチエはうまい具合にF氏の心を蝕んでいた。Q氏はサチエを敵にしなくて本当に良かったと心から思っていた。ガスライティングやダブルバインドといった精神破壊の能力にかけてはサチエは夫のQ氏の上をいっていた。さて次はどんな罠を仕掛けるか。止めようにも自然と笑みがこぼれてくる。そんな高揚感が続くなかQ氏は立ち寄った喫煙室でエンジニア達の会話を耳にした。
「一番怖いのは停電が起きることさ。そうなれば何が起きるのか予測不能。下手をすれば一からやり直すことになりかねん」
「まさか。さすがにそれはないだろう。予備電源もあることだし」
「いやそうでもないんだ。コンピュータルームは試運転の段階という理由で電源の配置が実はずさんなんだよ。仮に誰かが忍び込んで予備も含めて電源すべて落とそうと思えば、ここだけの話、簡単にできてしまう」
「物理の先生のなかには今電源が落ちれば最悪の事態が起きると言っている人もいるらしいぞ」
「ああ聞いた。だが難しくてよく分からん。世界が破滅とか」
「よせよ」
「まさかこのタイミングでテロリストに押し込まれるなんて事はないだろうな」
「そのために入口で図体のでかい警備員が立っているんだろう」
「まあ、そういう事だ」
「いずれにしても電源が落ちるような事だけは起きて欲しくないね。本当に何が起きるのか分からない」
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