第44話 新大陸

 アメリカという国はその風土に適応するためになにかを足さなければいけないとか、あるいはなにかを引かなくてはいけないとか、そういった強要をしなかった。等身大のF青年をそのまま受け入れてくれた。いくら欲しても得ることのできなかった承認欲求を彼はこの地でいとも簡単に満たすことができた。おかげで不足していた基本的信頼感が強固な土台となって彼をたのもしくした。得てしまえばなんということもない。それだけではない。人と人とのコミュニケーションに母国では味わえない感情をF青年は抱いた。言葉にするならそれは〝普通〟だ。日本でずっと感じてきた違和感を彼はアメリカに渡った途端感じなくなっていた。この国では偶然隣り合わせた見ず知らずの人とお喋りを始めるのも珍しくない。日常的な光景だ。しかしだからといって日本のように一度親しくなるとどこに住んでいるのか親は何をしているかアルバイト代はいくらだとか根掘り葉掘り聞きだされることもなかい。まして義理の押し売りで相手より優位に立とうという厄介者もいない。いやきっとアメリカにも存在してはいるのだろうが少なくともまだ出会っていない。国民性と呼んでかまわないのならアメリカには誰に対しても心を開くという器の大きさを持ちながらかつ相手のプライバシーには踏み込まないという暗黙のルールがあった。そこら辺の線引きがうまい。この距離感こそが彼にとっては心地良い普通なのだ。彼に言わせれば欧米の人は大人だ。いや大人の定義でさえ日本は従順な子供を差してしまう。もしアメリカに渡らずに日本に居続けたならきっとFは大人に成長するにつれて人との距離感に悩んでいったに違いない。そして遂には心を閉ざしてしまったであろう。そんな生活想像できない。


 同じ日本人のDNAをもっていたこともあって大学に通い始めるとすぐにF青年は同期の日系人タナカマルと仲良くなった。時間が合えばふたりは一緒に行動した。日本人でもなく純粋なアメリカ人でもない独特の価値観を共有できたことはタナカマルトとしてもうれしかった。


 タナカマルが卒業を機に日本に帰ると言いだした時には驚いた。F青年と同じで日本で暮らすには向いていないと思っていたからだ。しかしタナカマルの自分の手で日本を変えてみたいという主張を聴いて青年は背中を押そうと決めた。


 親友とは別の道を進もうとアメリカに残ったFはコンピュータプログラミングの仕事を得てアメリカ中部から西海岸に住まいを移した。そして中古の自動車ローンを組んだ。この頃から彼はカメラ片手に街をぶらつくようになる。アメリカ西海岸の橋や道路、ビルディングなどの人工物と空や海などの自然との調和はF氏に安心感を抱かせつつ心を弾ませるという相反する心地よさを与えてくれた。こうして彼らしく充実した日々をしていたのも束の間、早くも彼はプログラマーとしての限界を感じ始める。この仕事は圧倒的に知能指数の高い者が有利なのだ。F氏は焦りを感じた。こうなってくるとプログラマーと名乗ることさえおこがましい気がしてくる。時々だがトップクラスの同僚が何の会話しているのか理解できないことさえある。これが現実だ。己の無力さを痛感した。思い切って職種を変えて建築設計の道にでも進もうかとも悩んだがビザのことを考えると冒険はできない。大学卒業間際から永住権取得を目指して弁護士事務所に金を払っていたがなかなか思うように申請は進んでいなかった。弁護士事務所に電話するといつも決まって順番待ちだと返される。実際そうなのだろう。この件に関してはしかたない。待つしかないのだ。何十年も昔にフォームに不備があったために大量の日本人が永住権の宝くじに当選してしまったという逸話があってそれ以来日本人の永住権取得は難しくなってしまったと言われている。遊び半分で永住権を手に入れてしまった昔の人たちが妬ましい。まあそれでもジョン・レノンだって移民局から嫌われていたのだからしかたないと自分を慰める。


 壁にぶつかったF氏だったが同僚たちの意見は少しちがっていた。誰にも気づかれない小さなバグを見つけては修正していく。このことにかけては彼の右にでるものはいなかったからだ。そしてこの特技があるプロジェクトリーダーの目にとまり、退職を申し出ようとした朝にF氏のボスは次世代型量子コンピュータの開発チームに推薦されたことを彼に告げた。


西から東へ。


 次世代型量子コンピュータの実物はニューヨーク、マンハッタンにある古いビルの一角で造られていた。開発チームデバック班も同じ建物で作業をする。なぜヨーロッパでも西海岸でもなくマンハッタンなのか。その理由は関係者のあいだでいくつか囁かれてはいた。国連から近いこと。地震が無いこと。警察や軍を新たに動員しなくても既存のものでテロの脅威から守れること。しかし真相は計画を取りまとめた物理学者がホワイトプレーンズにある一軒家を手放したくなかったからというのが定説となっていた。

 赴任してすぐにF氏はニューヨークを気に入った。ここにしかない魅惑の建物がたくさんあった。車を運転する機会は減ったが休日にはカメラを持ち出して地下鉄であるいは徒歩でマンハッタンを巡った。

 職場で最初に仲良くなったのはアフリカ系アメリカ人の警備員ボブだった。身体が大きくて子沢山で気の優しい男だった。次がデンバー出身の背の高いプログラマー。それからイカれたフランス系カナダ人の同じくプログラマー。キューバ人の研究者は「キューバでは医者と野球選手以外に稀に科学者も輸出する」と初見で冗談を言った。気難しいイングランド人の会計士はニューヨークでも英国流の発音にこだわったし、フランス人数学者は「英語を話すなんてまっぴらだ。みんなフランス語で話せばいい。そのほうがずっとエレガントさ」と主張した。両親が中東からの難民だったドイツ国籍の物理実験班の研究員は毎日イスラムの礼拝を欠かすことがなかった。地元ニューヨーク生まれの生粋のユダヤ人物理学者は部屋の中でも皿のような帽子を脱がなかった。陽気なイタリア人の技術者は人の顔を見るとすぐに一階にある二四時間営業のイタリアンレストランに誘った。ナイジェリア出身の総務部長はF氏のことを彼女の五歳の息子と同じように扱った。便宜上の上司であるジェームスは南部訛りの気さくな男という印象だったがそれとは別に軍と諜報機関から派遣された謎めいた一面も持っていた。皆個性的だがそれぞれの分野で素晴らしい経歴を持ったスペシャリスト達だった。F氏はいささかチームの中で気後れした。

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