第43話 F0の物語
膠着状態が続いていた。落書き自体は英語教師Qの監督のもとF少年の手ですでにきれいに消されていた。あとは素直に謝るかどうか。Qは反省文を書くなら許してやると妥協案を提示していた。正直家に帰りたかった。しかしF少年は頑なな姿勢を変えようとはしなかった。確かにこちらが折れれば無意味な拘束から解放される。身体の中のどこかから利口に振る舞えという悪魔の囁きも聞こえていた。それも何度も。しかしそれでも少年は誘惑に屈しなかった。結局学校に宿泊している用務員から追い出されるまで意地の張り合いは続いた。
ここが分岐点。
翌日落書き事件はうやむやのままで終了した。英語教師Qが真犯人を知ったためだ。その日の昼休み、隣のクラスの女子から呼び出された。昨日は帰りが遅かったようだがと彼女は妙な質問をしてきた。同じ小学校出身とはいえ特に親しくもない女子生徒から意図さえつかめぬ質問をされてF少年は困惑した。どうせ告白の仲介か何かだろう。というよりそうやってからかっているだけか。今日は何時頃に下校するのかという質問に対しても少年は適当に答えることでいなしてしまった。
噂を耳にしたのはそれから数日後。先日Fを呼び出した女子生徒が学校帰りに不良に絡まれたというのだ。そしてその現場を目撃しておきながら逃げ去った生徒がいたという。それがなぜだかFだというふうに広まっていた。身に覚えがなかった。女子生徒が災難にあっていた時間は懲りないQによって再び職員室に呼び出されていたのだから。
根も葉もないデマに憤りを覚え、いったい誰が嘘を広めているのか彼は探し出そうと決心した。しかし不思議なことにどの生徒も固く口を閉ざしたままだった。独り歩きし始めた噂のおかげで少年はすっかり学校に行くのが嫌になってしまった。学校だけでなく味方をしてくれない家族にもいよいよ嫌気がさしてしまった。すべてが。取り巻く環境すべてが鬱陶しい。同調圧力を強いるこの世界が大嫌い。自分らしく生きられる世界で暮らしたい。そう彼は布団の中で願った。
転機はそれからさらに数日後に訪れた。校外学習で彼は科学館を訪れた。科学館では東京から来たという盲目の博士が講義をした。冷たい床に体育座りした生徒達にとってそれはちょっとした拷問だった。どの生徒もつまらなさそうにしていた。早く終わってくれと聞こえるようにささやく者もいた。F少年も同級生に倣って退屈だなという表情を作っておいた。下手に眼を輝かせたら後日どんな噂が流れるかわかったものではない。科学者の話す実験は酷く残酷だった。毒ガスが出る箱に猫を閉じ込めて生きているのか死んでいるのか確かめるというのだ。思考実験とはいえ嫌な話だなとF少年は思った。
講義が終わって質問時間に移ると各クラスの優等生がリハーサルどおりに手を挙げた。最近転校してきた同級生Qもそのひとりだ。彼は量子論に関するみごとな質問をして科学館の職員や講師を喜ばせた。もちろんその質問は理科の教師が周到に用意したものなのだが。さくらによる質問が出尽くしてしまうとしばらくのあいだ居心地の悪い無言が横たわった。その時だった。講師の傍らに立つ職員がアドリブで眼の合った生徒に質問させてみようと思いついたのは。そしてたまたま視線が合ったのがF少年だった。F少年は少し考えてから科学者の横に座る犬の名前と種類を訊ねた。会場全体が笑いに包まれた。気の利いた冗談だと支持する生徒もいれば野次を飛ばす輩もいた。講師は動揺することもなく誠実に犬の名前と犬種を教えた。名前も種類もF少年の知っているものではなかった。ポチとかコロではなかったし、柴犬とかブルドックではなかった。犬に興味を示した生徒達のために科学者は即興で犬に芸のようなものをやらせてみた。この日の講義で一番もりあがった瞬間だった。そこで講演の時間が終了した。
無事その日の講義を乗り切った博士は職員に連れられて控室へと向かった。舞台があるわけではないので生徒達の脇を通り過ぎる形だ。学者はF少年の前を通り過ぎるタイミングで言い忘れぬようにと次の言葉を発した。本当はそれは付き添いの職員に向けられた言葉だったが盲目であるが故に偶然その視線はF少年の眼を貫いていた。
「これはすべての人に当てはまる言葉ではない。しかし今の君には必要だ。他人の言うことに耳を貸してはいけない。自分だけを信じて動きなさい。留学もすべきです」
この日を境にF少年は盲導犬を連れた学者の言葉に従って親も教師も友人も信じず、自分だけを信じて独学で英語やプログラミングやその他必要と思う学問を修得していった。そうして時が来ると彼は無理を言って留学をした。この留学は家族にとってはいわば公然の家出と捉えられていた。もうあの子は日本に帰ってこないだろう。もともとそういう子だったのだ。こうしてF青年は太平洋を越えた壮大な家出を成功させた。
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