第42話 彼が便宜的にそう呼ぶ宇宙エレベーター

 団地に帰ってきたのは午前二時手前くらいだった。警察は既に現場を引き払っており団地には静けさが戻っていた。あいも変わらず自転車が場違いな場所に佇んでいる。ポケットの中にあった鍵で解放してやり正面口のほうに移動させてやった。


 深夜だというのに左のほうのエレベーターが上から下に向かって動いていた。眠れない住人がコンビニに行くのだろうか。六枚羽根の天使を仰ぎながらボタンを押す。待機していた右のエレベーターが扉を開けた。上に昇る時のGが頭痛と混ざり合い吐き気をもよおす。眩暈がして壁に手をついた。あと何階我慢すれば扉が開く。階数を確認しようと顔を上げるとエレベーターの扉に見慣れない武骨な蛇腹が付いているのが見えた。Gが逆向きにかかると次に格子状の扉がガチャガチャと音をたててスライドした。人影が見える。人影はエレベーターに乗ろうと近づいてきていた。靄がかかったような頭脳で状況を把握しようとする。これが魔女の言う天使か。いや違う。天使にしてはずっと太っていて醜い。

「カタキを取ってくれたのか」

「ああ、貴方ですか」自嘲気味に微笑んでみせた。「いえ。どちらかというと返り討ちにあいました」

「礼を言わせてもらうよ。さてと時間が無いので手短に話そう。何が起こっているのかはおおよそ見当がつくな」

「死ぬのですか」

「誰が」

「僕が」

「その前にやってもらわなければならない事がある」

「なるほど」

「了解したと取っていいんだな」

「まあ。どうせこういう状況って選択肢が用意されていないんでしょう」 

「素直でよろしい。そうだ、先に断っておくが専門的な質問は無しだからな。俺は科学者じゃない。ジャーナリストだ。あくまで声の言ったことをアンタに伝えるだけ。俺にはあれが迎えに来た神なのか天使なのか分からん。それともアンタら風に言えば一一次元人なのかもしれない。とにかくその意思から伝言を授かっている。彼等が言うにはだ、複数の並行世界に予期せぬ捻じれが生じている。この予期せぬ交差は別の並行世界を巻き込んで次々に悪影響を与えてきた。今この瞬間にもだ。どうやら声の主が憂慮しているのはだな、その影響が四次元時空だけに留まらないっていうことらしい。彼等が言うには最終的には連鎖反応ですべてが消滅する。いいか。すべてだ。早く手を打たなければこの瞬間にもどこかの並行世界が崩壊している。らしい。当然いつかはこの世界も。そこでだ。アンタが並行世界の捻じれ、すなわち交差だな。これを解消するんだ。正確にはアンタともうひとりのアンタのふたりでだ」

「すみません。情報量が多過ぎてちょっと。ただ僕が何かをしなければ世界は大変な事になるという事だけはなんとか。それで正しいですか」

「充分だ」

「でもなぜ僕なんです。僕には権力も学歴も経済力も無い。この通り腕力も無くて怪我を負わされる始末ですし、そもそも臆病なんです。精神的に弱くて妻と離婚する勇気も無ければ反対に彼女を支える力も無い。おおよそ世界を救う役割には向いていないと思えるのですが」

「人間の屑という面では俺だってアンタに負けないさ」とユキさんは笑った。「なぜ自分なのか。疑問に思うその気持ちは分かるぜ。俺だってどうして自分がメッセンジャーになったのかさっぱりだもの。だが実をいうとなぜアンタがやらねばならぬのかそれについては聴かされている。なぜアンタかというとそれはだな、一連の事件はアンタが引き起こしたものだからなんだ。正確には別の世界のアンタだがね。声はそれをゼロと呼称している。ちなみにアンタは1だ。そして張本人であるゼロにはあちらでしかできない後片付けをしてもらわなければならない。いいかい。不条理に思えるかもしれんがこれはアンタの責任なんだよ」

 F氏はなんと返事したらいいのかわからなく口をつぐんだ。第一に想像をはるかに超えた重責だ。第二にまたしても自分がスケープゴートになるのかという憤慨もあった。その原因が別次元の自分であったとしても。第三にそもそもこれは現実なのだろうかという疑問がいまだ残っている。ユキさんはそんなF氏が口を開くのを辛抱強く待った。

 パトカーから見上げた東京タワーがふと脳裏に蘇る。勇気をもって進むしかないのか。

「具体的には何をすれば」

「そうだな。まずはもうひとりの自分と会うんだ。それから握手でもするんだな。お好みなら抱擁でもかまわんよ。おおかたのシステムは声の主を中心に構築され、既にスイッチオンになるのを待つばかりとなっている。あとはふたりが物理的に接触するだけ。心配しなくとも接触した瞬間に世界が爆発しないよう安全策は講じてあると声は言った。どうやら通常は爆発するらしいんだな。そこでだ、アンタに確認しておきたいことがある。宇宙を守るのに自分の命が惜しいかい」

「つまり宇宙は爆発しないけれどこちらの命は危ういと」

「おそらく。だがはっきりとは分からない。少なくともどちらかひとりは犠牲を免れない。それが彼等の見解だ」

「少し考える時間が欲しいけれど。そんな余裕は無いのでしょうね」

 ホームレスみたいな男が頷いて腕時計を確かめた。「正確なタイムリミットはあと一二時間と三分四秒、三秒、二秒」

「あの」

「なんだい」

「例えば取引なんかはできますか」

 不遇のジャーナリストは話を聴き、掛け合ってみるが期待はしないほうがいいと答えた。そのうちにユキさんの背後に違和感を覚えてF氏はそちらに視線を移した。違和感の正体はすぐに分かった。階数表示が二ケタから三ケタに変わったのだ。ユキさんもF氏につられて後を振り向いた。

「いかん。急いでアンタを降ろさなければ。アンタとこうしてまた話が出来て嬉しかったよ。じゃあ先行くぜ」


 同じとき、再び都営住宅六番地一号棟を訪れたもうひとりのF氏、つまりF2は七階に上がって四号室の手前まで来たものの隣の三号室から聞こえてきた例えようのない音におののいて引き返していた。降りてきた左側エレベーターに飛び乗るとそこには白いランニングウェアを纏った先客がいた。

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