第41話 固く冷たいコンクリートのベッドで
目を覚ます。立ち上がると頭が波打つように痛んだ。咄嗟に所持品をまさぐったが盗まれた物は無かった。サチエのアシスト自転車もそのままだ。気を失っていたのはほんの数秒。追えば見つけ出せるか。だが意識が朦朧として走れそうにない。
交番勤務の警察官はF氏を見て驚いた表情を隠せなかった。警官に指摘されて初めてF氏は流血していることに気がついた。言われて濡れた頭をぬぐってみると手にべっとりと血がついていた。
徒歩で来る者、自転車で来る者、交通機動隊、ミニパトの婦警、私服の刑事。あっという間に数十人の警察官が集まった。陣頭指揮を執る刑事はF氏に無理せず病院に行くよううながした。F氏は監視カメラに犯人が映っている可能性を告げると素直にパトカーに乗った。付き添いは泣きぼくろのある婦人警官だった。やれやれ。
まさか妻の入院する大学病院に自分も世話になるとは。救急病棟はF氏の知る病棟とは打って変わって大人の印象だった。医者も看護師も黙々と目の前の仕事をこなしている。担当医師は出血の割にはたいしたことがないと説明した。頭部からの出血はどうしても多くなりがちなのだとも。
「だからと言って無理はしないでください。日をあらためて精密検査を受けてくださいね。頭なのでどんな影響があるかもわかりません。一時的に記憶が混線したり現実と幻覚の区別がつかなくなったりなんてことがあるかもしれません。でもそのうち落ち着きますからあまり気にし過ぎないように」
再びパトカーに乗せられたF氏に隣の席の付き添い婦警が話しかけた。
「貴女のこと覚えてるわ。最近免許の住所書き換えたでしょう」
F氏も覚えているとだけ答えた。次は婦人警官とのバトルか。運転席の警官も入れるとまたも二対一。しかも今度の相手は日頃から訓練をしていて拳銃まで所持している。
気まずい沈黙が続いたあと婦警が切り出した。「ごめん、なさい。プライベートで嫌なことがあって誰かに八つ当たりしたかったの。なぜだかわからないけど貴方なら許してくれそうな気がして。本当に」最後の言葉は声にならなかった。代わりに彼女は深く頭をさげた。
気にしていない。よくあることだとF氏は返した。この瞬間潮目が変わったことを彼は実感した。街灯に照らされた東京の風景。だまって車窓を眺めていた。歩きなれた通りもパトカーの中からだと別世界に見える。光の反射加減で包帯を巻いた男が車窓に映った。急にもうひとりの自分という幻想に強い疑念をもつ。すべてのことが殴打された後に生まれた嘘の記憶かもしれない。医者も言っていたではないか。記憶が混線すると。包帯の上から側頭部に触れてみる。固く縛られているせいか己の頭に触っているという感覚がない。ビルの谷間から一瞬オレンジ色の東京タワーが顔を出してまたすぐに隠れた。借景の余裕もなかった。今は何もかも忘れて休もう。眼を瞑ると間もなく静けさを打ち破るように無線の割れた声が響いた。都内全域に向けて慌ただしく緊急連絡を告げている。「被疑者確保。繰り返す被疑者確保」
F氏は眼を開けて身を起こすと隣の婦警が止めるのも聞かず運転する警官に訴えた。
パトカーが団地の手前でUターンする。
スピード逮捕だった。団地の防犯カメラが決め手となった。ふたりの乗っていたスポーツカーが二四六号線で検問に引っ掛かってあっという間に終わりだ。F氏は聴取時に犯人の顔を確認させてもらって確信した。間違いない。あのふたりだ。
「本当はこういうの教えちゃいけないんですけどね」
同情したのだろう。担当刑事は無理を聞いて犯人の身元を教えた。
「まさかネットで拡散とかしないよね」
「犯人が知人かどうか確かめたかったんです」
「で、どうでした。貴方の知り合い?」
「いいえ。他人の空似でした」
予想が的中した。犯人ふたりの職業は区役所勤務でも弁護士でもなかった。だが少なくとも弁護士の名前は一致している。区職員も間違いなくあの匂いをさせていたし、聴取中もやっぱり前髪を気にしていた。うねるように痛む頭で思考を深くへと潜らせる。犯人ふたりはF氏の知る人物であると同時に知らない人物。つまり平行世界の住人だ。F氏だけでなく他の人物にも交差が始まっていることになる。一連の奇妙な出来事に理由をつけるとしたら考えられるのはふたつ。頭を強く打った影響で現実と妄想が交差しているのか、それとも本当にパラレルワールドが交差しているのか。どちらのクロスが正解だ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます