第40話 夜の自転車
団地までどこをどう歩いたか記憶がない。道すがらF氏は幾度も妻の言葉を反芻しては激しい動悸に胸を搔きむしった。
大丈夫?
古く巨大な城壁が足を引き摺る負傷兵を迎え入れる。冷静にならなければ。そう言い聞かせて日常のルーティンに意識を向けた。ジャズを壁のコンクリートに染み込ませ、隅々まで掃除をし、筋トレをし、新しい設計図に取り組み、ボードウォークまで走って潮の匂いを肺に入れ、帰ってきてシャワーを浴び、冷蔵庫の残り物で野菜炒めを作り、仇花の英語の勉強をして、HPに修正を加えて借景の例としての画像をひとつ増やし、残りわずかとなった貯金の残高を見て指を折り、図書館から借りた本を開いて何度も同じ行を読んでしまうというミスを犯し、すっかり夜が更けたので一息ついてコーヒーミルを回した。
「あっ」
豆を挽く手が止まる。すっかり頭から抜け落ちていたと声をあげて笑った。どうしてもQハイツには行けないらしい。いやまて。今から行ってもかまわないじゃないか。むしろあの部屋に居住者がいるのなら夜のほうが窓明かりで判別しやすい。誰も居ないならガスメーターで一目瞭然。簡単なミッション。コーヒー豆をそのままにして服を着替えた。上着のポケットに手を入れると鍵の冷たい感触が指先に触れた。
夜中のエントランスホールは静かだった。まるで下校時間を過ぎた学校の生徒玄関だ。掲示板には電子レンジの件が解決したとの報告文が貼られていた。団地に住む髪色だけが違う人々は有能だ。設置された監視カメラからはいかなる者も逃れられない。F氏はふと考える。たとえば自治会か警備会社に頼めば郵便受けを覗く自分とそっくりな男をこの眼で確かめることができるだろうか。それもひとつの方法と頭に付箋を貼って裏口から出た。
やれやれだな。
まるで悪戯して下さいとアピールしているかのように場違いな場所に置かれたアシスト自転車。その自転車に今まさに男が悪戯しようとしていた。大きなボルトクリッパでチェーンを断ち切ろうとしているところだ。男に向かって掛けた声が少し上擦ったことにF氏は微かな羞恥心を覚えた。男は暗闇に浮かぶF氏の風貌を見定めて嘗めてかかった。逃げるどころか逆にボルトクリッパを振りかざしてF氏に向かってきたのだ。近づいてきた顔に照明が当たるとF氏は驚いた表情をした。似ているだけかもしれない。しかしすぐに間違いないと確信する。整髪料の匂いに覚えがあった。男は区役所の職員だ。あの毛先を気にする若い職員。男は力任せにボルトクリッパを振り回した。一発目を避けた次の瞬間F氏のスイッチが入った。相手は素人。こちらは最弱とはいえ高校三年間を部活に費やした身。経験値が違う。それになにより少年の頃と違って足枷となるしがらみがない。振り降ろされる工具をかわして相手の鼻先に軽いジャブを放つ。それから不自然に見えぬよう少しずつ後ずさりした。もう一度ボルトクリッパを振り降ろす相手の腕を己の左腕で受け、そのまま滑らせるようにして相手の手首を掴む。空いた右手でボルトクリッパを奪った。相手はたじろいだがF氏が遠くに投げ捨てるのを見てまだ勝機があると掴みかかってきた。
ああ。そんな襟の掴み方をしたら首回りが伸びてしまう。おたくと違ってオレには替えがないんだ。
「オマエか。ユキさんをやったのは」
「ああ?」と区職員は下品な返しをした。
F氏はレンタカー屋の主人から教わったあれを使った。途端に区職員の顔が怯えた表情に変わる。こいつもか。F氏は胸元を掴まれたままの状態で相手の顎にパンチを入れた。それから続けて二発入れ、太腿に蹴りを入れた。倒れた相手の足首を掴み後方のエントランスホールへと引き摺る。計算通りならあと一メートルで蛍光灯の明かりの下に来る。これなら夜でもはっきりと防犯カメラに顔が写るだろう。あと少し。次の瞬間F氏の後頭部に鈍くて重い衝撃がのめり込んだ。共犯者がいたらしい。意識が遠のいて記憶が錯乱した。またあの女か。死角からハイヒールで右眼を蹴った女。ありもしない安い香水の匂いを嗅ぎ分けようとした。しかしするのは整髪料の匂いだけだった。それと鉄の匂い。いやこれも違う。鉄ではなく血の匂いだ。一瞬だけ正気に戻ってその瞬間に相手の顔を見定めようと倒れるままに振り向いた。F氏はまたも自分の眼を疑った。投げ捨てたはずの大きなボルトクリッパを持っていた男は弁護士Qだった。裁判で相手側の弁護をした男。社長Qや仲介者である建築デザイナーQと同じ苗字を持つ人物。固定客の少ないホストみたいな風貌。Qはもう一発とその手を振りあげた。
まずいな。今度こそ殺されるかもしれない。いや。やっと終われるというべきか。サチエわるいな。オレのほうが先に逝くみたいだ。
F氏の身体が固いコンクリートの床に倒れた。ふたりの男達は慌ててその場から走り去る。間もなく近くでスポーツカーの爆音が響いた。
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