第39話 鍵と囲む眼

 おどろおどろしさが増した三号室を通り過ぎてエレベーターホールへとむかう。へんに緊張して肩に力が入っていた。広い公園はいまだ開放の目途がたっていなかった。したがって前の部屋に行くには大きく迂回するしかない。もう一刻も無駄にはできない。

「今日こそは」

 祈るように呟いてエレベーターのボタンを押した。その瞬間ポケットの中のスマホが振動した。


「ほら。欲しかったんでしょ。これが」

 病院の食堂。テーブルに対面したサチエが見下した表情で鍵を放った。

「自転車の鍵とチェーンの鍵と、こっちは家の鍵か」

 サチエは簡潔には答えず、回りくどい説明ともつかない説明で夫を惑わせた。夫は妻の言葉の断片を頭の中で再構築した。そうです。自転車の鍵とチェーンの鍵と家の鍵です。結婚当初は何気ない一言から始まり何時間も噛み合わない会話を合わせようと努力したものだ。なぜあの頃のオレはサチエの話に真剣に耳を傾けようとしていたのだ。彼女の目的はコミュニケーションをとることではなく困らせることだったのに。


 髪が抜けると同時に見舞い客は激減した。他の患者も最近よそよそしい。サチエは疎外感の陰に震えていた。

「もう帰るの」

 腰を上げかけた夫が渋々椅子に座り直す。壁の向こう側から赤ん坊の泣き声が微かに聞こえた。

「キクスイさんの親戚ってさ」

適当に切り上げてQアパートに急ぎたかった。そんな自分の顔半分が悪魔に見えるんじゃないかと不安になった。どっちつかずのままサチエの話を聞き流していると背後から聞き覚えのある声が聞こえた。

「やあ、ここにいたのか」

 優しげな、しかし聞く者が聞けば妙に芝居がかった声音。顔をあげたサチエが満面の笑顔になった。

「Qさん来てくれたの。昨日は鍵をありがとう」

 鍵を返したのはタマキではないのか。

 Q氏はサチエとの挨拶を終えると勿体ぶった表情でF氏を睨みつけた。それから急に態度を軟化させてF氏に仕事の紹介をちらつかせた。無論口から出まかせだ。餌を撒くことで優位に立つ。そうして反論を封じ込める。本音は人前で良いところを見せたい。ただそれだけ。

「ろくに見舞いにも来ないで君はいったいどういうつもりなの」

 いよいよもってQ氏の口調はサチエの夫だった。事実食堂に居合わせた人々はQ氏がサチエさんの夫でF氏はその部下か何かだと解釈していた。そういった本音を見透かしていたからF氏は相手にせず鍵をポケットにしまって退散しようと立ち上がった。ポケットの中でF氏の鍵とサチエの鍵がカチカチと音をたてた。Q氏はこの時F氏の行動をミスリードした。臆病なF氏が尻尾を巻いて逃げると判断したのだ。彼は舞台役者のような大袈裟なアクションでF氏の前に立ちふさがった。

「逃げるな。ここで逃げたら負け犬だぞ。いい歳をした大人なんだからきちんと話を聞いたらどうなんだ」

 F氏は振り返りサチエの表情を窺った。サチエはうっとりとした表情をしていた。やれやれ。

「彼女はな、毎日闘病生活で苦しい思いをしているんだ。自分の身内がつらい時に心配しないとは呆れたものだな。君には家族をいたわるという気持ちが無いのか。それとも君はサイコパスとかいうやつか」

 入院病棟にしては随分と大きな声を聞いた看護師長が何事かと食堂まで駆けつけた。

「病院ですよ。静かにして下さい」

 彼女は一方的にF氏を睨みつけてそう叱った。そしてQ氏に振り向いた時には微笑を交わす余裕を見せた。どうやら看護師長にはどちらがヒールなのかが決まっていたようだ。看護師長のあとから次々に患者や医学生が集まってきた。遅れて詰めかけた人々は順番に前の人の顔色から非難すべきはどちらなのかを判断した。F氏より背の高い学生が何人も警備員よろしく立ちはだかる。一方味方を増やしたQ氏はその表情に幼稚ともとれる自信をみなぎらせた。

「逃げるなと言ったはずだぞ臆病者。サチエさんもコイツを甘やかし過ぎなんだよ。はっきり言ってやりなさい」

 サチエは黙っていた。今発言しても最高の効果は得られない。こういう状況になると女は冷酷だ。長い沈黙に促されてF氏が口を開いた。

「家族が心配に決まっているだろう。それに此処は病院だ。大きな声を出したら患者に迷惑が掛かるくらい分からないのか。子供じゃないんだ」

 Q氏の顔が真っ赤になった。この瞬間までてっきりサチエさんの旦那は人に言い返すことのできない弱気なタイプだと思い込んでいた。

「礼儀を知らないな。私のほうが年上だし社会的にもずっと信用がある。それに顧問弁護士も付いているんだ。アンタも会っているだろう。裁判で負けた時に」

 始まった。この手の連中が使う常套手段。劣勢になると微妙に議題をずらして自分の得意分野に持って行こうとする。所詮相手を打ち負かすことだけが目的。分かりあう気持ちなんてさらさらない。ここで言い返されて再び劣勢にまわるならまた議論を変える。そうやって噛み合っているようで噛み合わない会話を延々と続ける。サチエもそうだ。F氏はQ氏のことをつくづく退屈な人間だと思った。世界で活躍する有名デザイナーとやらの中身がこれだ。F氏も建築デザイナーQに負けないくらい侮辱した表情になった。効いてないよ。これっぽっちも。ヒートアップしたQ氏が罵倒を続けた。しかしもうF氏の耳には彼の言葉が入ってこない。この男から拝聴しなければいけない言葉はひとつも無い。サイコパスだって? やってやろうじゃないか。この状況を終わらせるためにはあれを使うしかない。彼は精神のエンジンキーを静かに回した。BVレンタカーの店主から教わった他人から嘗められない方法。加えていえばかつて多くのQが常用していた、そしてASPDいわゆるサイコパスも好んで使う禁断の手法。いま彼はその封印を解いた。

 食堂の空気が一変した。

 Q氏の表情も急変する。彼は理由の分からない怯えを抱き、間違った相手に噛みついてしまったことを悟った。何かが喉に詰まったような異物感を覚え思わず喉に手をやる。F氏が妻に振り向くとサチエは目を逸らして俯いた。看護師長は背中を向けるような姿勢をとってF氏と視線を合わせないようにした。それまで非難するような眼で取り囲んでいた人々も俯いたり目を逸らせたり媚びるような固い笑みをF氏に向けたりして己を防衛した。他人が見ている手前、後に退けなくなったQ氏が震える声で言った。

「そういう態度を取られてもよろしいんですかね。ご存知ないかもしれませんがウチの業界は狭いですよ」

「今度は脅迫か」

「いいえまさか。ただ私には友達がたくさんいるということをお知らせしたまでです」

「つまりアンタは実力ではなくコネで生きてきたって認めるんだな」

 Q氏はたじろいだ。何か言い返そうとしたが喉の異物感が邪魔して咳しか出ない。

「そんなに人脈に自信があるのなら医者に言って新しい治療法を試すよう言ってくれ。この際コネでも何でもかまわない」

 言い捨てるとF氏は人が避けてできた道を通って食堂をあとにした。その背中に向かってQ氏が震える声で言った。

「世の中ってのは自分より偉い人に可愛がられることで成り立っているんですよ」

 F氏は心からQという人物を軽蔑した。もはやQは人間ではなく動物にしか見えない。自分より強いか弱いか、それだけが判断基準の獣。

 建築デザイナーQはサチエさんの隣に腰を降ろすとハンカチで湿った目じりを拭いた。アイツみたいに強い奴ばかりじゃないんだ。ただちょっといつものようにからかっただけじゃないか。そんなにムキになることでもなかろう。

 F氏はふらつきそうな足取りを気取られないよう廊下を進んだ。たしかにQの言う通りだ。この業界は狭い。これで建築設計の道は閉ざされた。Qは最後の切り札を使ったのだ。F氏には決して超えることのできない長年周到に培ってきた最強の一枚。なぜだろう。人と関われば関わるほど世間が狭くなる。

「大丈夫?」

 サチエの声を聞いたのは廊下の曲がり角に達した時だった。Q氏を気遣って出た言葉で間違いない。相手を包み込むような、思わずすがりたくなるような声音。サチエのそんな声を聞くのは初めてだった。知らなかった。オレ以外の誰かが傷付いた時にはあんな優しい口調で慰めていたのか。強い衝撃と嫉妬心が胸を突き刺した。あんな口調で話し掛けてくれたならオレだって何度でも立ち上がることができたのに。そうして彼女をしあわせにしてやれたのに。足の裏が床から一〇センチ浮いたように思えた。

 いつ乗れるか分からないエレベーターを避けて冷えた階段を降りる。踊り場で談笑していた医師と看護師が邪魔するなという視線を向けた。F氏が嘗められない方法を使うと途端に男はうつむいて目を逸らし、女は媚びるような笑顔を作った。ふたりともまるで教師に睨まれた生徒みたいに理由もなく頭を下げた。こいつらもか。どいつもこいつもこんなハッタリに騙されて。どうして気付けないのだ。中身は何も変わっていないというのに。なるほどこれでは世の中詐欺師の思うがままだ。ヒトは愚かだ。先程から続いて止まらない浮遊感が足をすくった。足音の乱れたリズムが奈落の底にこだました。窓も無いのに風が吹いている。突風に煽られて身体がふらついた。バランスをとらねば闇に落ちてしまう。いやむしろ彼は落ちるつもりでいる。眼が慣れるにしたがって足元が漆黒ではないことに気付かされる。ずっと下の方に道路が見えるのだ。何車線もある都会の道路。街灯が灯っているものの全体的に暗い。まるでトンネルの中の黄色い照明。そう。これは日本の道路じゃない。車線が右側通行になっている。石でできたガーゴイルと視線があった。まるで早く飛び込めと催促をしているみたいだ。眼下の信号が変わった。ミニュチュアみたいなトラックが歩道脇に停車する。あれは一階の二四時間レストランに納品する夜便に違いない。やれやれタイミングの悪いドライバーだ。今飛び降りたら荷台をへこませてしまうではないか。


 何だ。このビジョンは。

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