第38話 暴走

「コンピュータとは一と〇の二進法を使った計算機のことを言います。オンとオフとに置き換えてもよろしい。〇の次は一。一の次は〇〇。〇〇の次は〇一。その次は一〇、一一、〇〇〇、〇〇一。無限に数字は続きます。我々人類は日常の暮らしで一〇進法や一二進法、六〇進法などを使用しているので計算機の方が頭が悪そうですね。ですが計算機は人よりも計算するスピードが速い。条件さえ整えてあげれば人よりも良い仕事をします。ですのでコンピュータの開発というのはこれまで処理速度を競うことが多かった。

 さてこの二進法という考えですが、先日話したシュレーディンガーの猫の思考実験ではどうなるでしょう。ここではオンになっている状態を一とし、オフとなっている状態を〇とします。さて機械は〇ですか。それとも一ですか」

「〇であると同時に一でもある」

「よろしい。つまり不確定性原理を利用してコンピュータを作れば〇であると同時に一であるという計算ができます。これが量子コンピュータです。もう少し分かりやすく説明すると普通のコンピュータは一度に例えば一+一のようなひとつの計算しかできませんが量子コンピュータは同時に〇+〇、〇+一、一+〇、一+一の四つを行うことができます。これは処理速度を爆発的にあげることに繋がります。こういう発想でもかまいませんよ。そのコンピュータは見た目一台にしか見えないけれど実は複数台あるとね。ではどこに残りのコンピュータが隠されているのか。それは並行世界。パラレルワールドだという人もいます。

 ところで量子コンピュータそのものは以前から『確かにこれは量子コンピュータである』と言えるものがいくつか開発されてきました。報道されている、日、米、欧、厳密にはその他諸外国も含まれますが、いずれにしても複数の国による共同開発の次世代型量子コンピュータは既存の量子コンピュータに量子もつれやその他諸々の技術を注ぎ込んだものであり更なる処理速度向上を目指して作られています。

 さて報道によるとこの次世代型量子コンピュータは開発成功と同時に不具合が見つかったと報じられていますね」

「暴走ですか」

「ええ。ですがあれは私に言わせれば暴走ではありません。次世代型量子コンピュータが一時制御不能になることは一部の学者の間で事前に議論されていたことでした。あれは暴走というよりも自動車のアイドリングに近い。考えてもみなさい。こちらが向こうの世界のコンピュータを利用するということは、あちらもこちらのコンピュータを利用したいかもしれないのです。仮にこちら側とあちら側両方から同時に違う命令を出すとすれば互いに干渉し合って何が起きるか予測不能です。ですからコンピュータはパラレルワールドとの同期を図るために一見無意味と思える計算を繰り返すのです。ですので放っておけばいずれ暴走は止まって通常運転に入ります。あくまでこれは私の意見でしかありませんが。

 話を戻しましょう。学者のなかには量子コンピュータの成功をもって並行世界の存在が証明されたと主張する者もいます。私個人の意見としては量子コンピュータの存在のみで並行世界を証明したというのは弱い気がしますが。いずれにしても私もパラレルワールドは存在すると考えています」

「つまり僕は何らかの原因でパラレルワールドに住む自分とニアミスしているということですか」

「問題はそこです。確かに量子コンピュータによってパラレルワールドが干渉し合うという意見については私も賛成です。しかしそれは極微の世界でしか起きないと私は考える。巨視的には起き得ない。影響を与えるのに人の身体は大き過ぎる」

「だとすると僕の身に起こっている事はパラレルワールドとは無関係ということでしょうか」

「分かりません。もしかすると量子コンピュータのアイドリング、いわゆる暴走が想像もつかないところで貴方に影響を与えているかもしれない。しかしあるいは貴方を悩ませている問題はもっと内なるもの、貴方の精神的な問題なのかもしれない。独学で心理学を学んだと言いましたね。心理カウンセラーに診てもらったこともあると。科学的アプローチと共にそちらについても再考されることをお勧めします」

 学生が迎えに来た。

「奥さんのことですが」立ち上がった博士が宙に向かって言った。「奥さんが大変な状況にあることは承知しています。しかしだからといって奥さんや、あるいは他の誰かに貴方が振り回される必要はありません。昔、巡業のようなことをして日本中を旅して回ったことがあります。ある土地の科学館に行った時、そこで働く職員に相談されました。彼は頭の回転が早く、科学に強い関心があったのですが貧しい家庭で育ったせいで学歴がありませんでした。それに臆病というか優し過ぎるところがあって人に振り回されてばかりいました。周囲の人達も彼のことをからかって楽しんでいる節がありましたね。彼は打ち合わせの最中にふたりきりになるタイミングを見計らい欧州に留学しようか悩んでいると相談してきました。自分にはそんな資格はないのではないかと。私も当時いろいろあったのでそういう言葉が出たのだと思います。子供達への講義が終わると私は忘れぬうちにとただちに彼にアドバイスしました。『これはすべての人に当て嵌まる言葉ではない。しかし今の君には必要だ。他の人の言うことに耳を貸してはいけない。自分だけを信じて動きなさい』いいですか。もうひとりの自分に関してはあらゆる仮設を排除すべきではありません。わかりますね。そして諦めずに引っ越しする前の部屋に行きなさい。それがカギとなるかもしれません。申し訳ないが試験問題を作らねばいけない時期に入りました。それに他にもちょっと忙しい事が起こりそうなのです。ですから中庭講義は今日でお終いです。私にとっても中庭講義はたいへん充実した時間でした。どうしてか分からないが、もっと早くに貴方と会うべきだったような気がする」

「不思議ですね。僕も同じことを考えていました。先生とはもっと早くに。そうだ。先生最後に」

「なんでしょう」

「シュレーディンガーはゴールデンですか。それともラブラドールですか」

「掛け合わせだそうです」


 最寄りの地下鉄駅から五つ目。殺風景な部屋で臨床心理士が微笑んだ。

「よくこのカウンセリングルームのことを覚えていましたね」

最後に会った時から時間が止まっているかのように臨床心理士の姿は変わっていなかった。自分の事をよく覚えていたなという感想はF氏も同様だ。臨床心理士は大学ノートを開いてF氏が最後に部屋に来た日時とエピソードをかいつまんで言ってみせた。

「統合失調症の心配はしなくてもいいでしょう。確かにもうひとりの自分というビジョンは奇妙ではあるがそれを除いては特に目立つものはありませんね。あるいはFさんの言う通り引越しによる日常の変化が想像以上のストレスを与えているのかもしれません。それとも奥様に対する怒りや恨み、それと相反する愛情が葛藤して知らずに現実逃避させているのかもしれません。お話にあった一号室の男性の意見に賛同いたします。私も前のアパートに行くべきだと思いますよ。それで幻覚が治れば良し。それで治らなければまたふたりで考えましょう。パラレルワールドとやらは私の専門外ですがね。それと無理して仕事探しをすべきではないと助言いたします。無論生活はあるでしょうし奥様の治療費の問題もあるのは承知しています。ですが貴方自身を癒すのが先です。最悪生活保護という選択肢もありますし。その時はまた相談に来てください。きっと助けになります」


 帰路の途中の信号待ちでF氏は思いを巡らせた。これまでも人生の分岐点でオレは道を選んできた。自分の意思かそうでないかは別として。もしかするとその度に新たな並行世界が生まれてきたのかもしれない。どこかの分岐点で毒ガスの出ない方を選んだなら別のパラレルワールドでその分ハズレくじを引かされた別のオレがいたのか。果たしてそれで良いのか。信号が青に変わってもF氏は前に踏み出していいものかどうか躊躇していた。


 緊急対策チームはこの時点でターゲットをF1に絞った。同時に彼等は罪悪感に苛まれもした。まさか自分達が悪魔の役割を果たすとは。だが誰かを犠牲にしなくては。

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