第37話 もつれ
「量子コンピュータの話に移る前にもうひとつだけ量子論の不思議な話を説明しておきましょう。量子には次のような性質があります。まずふたつの量子をくっつけて同じ状態にします。するともう一度離ればなれにしてもふたつは同じ状態を保ち続けます。解りづらいですか。つまりどちらかひとつの性質を変えると、たとえ離れていてももう片方の性質もそれに合わせて同時に変わるということです。これは一〇センチ離しても百万光年離しても同じです。これを量子もつれと呼んでいます。ここで再びアインシュタインに登場してもらいましょう。彼は光よりも速いものはないと唱えました。それは現在のところ間違いありません。しかし今話した量子もつれを利用すると理論上、光の速さで百万年掛かるような遠くでも瞬時に情報を伝えることができてしまいます。矛盾していますね。矛盾しているということはどこかに間違いがあるのですが残念ながらどこが間違いなのかまだよく解っていません。なんだか解らない事ばかりですね。でもこれが科学です。さてこの量子もつれを利用して光よりも速く情報を伝えることを量子テレポーテーションと呼びます。テレポーテーションといっても人が遠くに飛んでいくわけではありませんよ。そこまで面白い魔法ではありませんがそれでも充分に量子テレポーテーションは興味深い試みが可能です。どういうことかというとつまりオンとオフあるいは〇と一、この二進法の情報があればどんなに遠くとも高度な情報交換が可能になるのです。現在アメリカの研究室で暴走している次世代型量子コンピュータにもこの量子もつれの特徴が利用されています」
F氏は盲目の老紳士の話を聴きながら並行して別の事を考えた。ふたつの間に一度関係性ができてしまうといくら距離を置いてもその関係性は続く……。
学生が教授を迎えにやってきた。
自転車泥棒はまだ捕まっていなかった。あれからまた二件被害が出た。怪しげな隣人も不在でチョコレートは吊戸棚に入ったままだ。時々壁をつたって何か引きずるような音が聞こえてくる。六枚羽根が見守る一階エントランスホール掲示板に電子レンジを捨てた持ち主の写真と警告文が貼られるようになった。何枚もに渡って自転車のわきまで運んで捨てていくのがコマ送りのように順番に貼られていた。画像は油で汚れた手をサドルで拭いているところで終わっていた。監視カメラはダミーじゃなかったらしい。厄介なのはF氏が思っていたよりもずっと監視範囲が広かったということだ。つまりサチエの自転車に触れた者は全員録画されていたのだ。いつ自分の姿が同じように貼りだされるかわからなくなった。頃合いを見計らって深夜にチェーンを断ち切るしかない。
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