第36話  パラレル

 講義はなかなか先に進まなかった。理解力の問題もあるがそれよりもF氏が好奇心にまかせて様々な質問で話を中断させるのが主な原因だった。しばしばふたりは物理ではない分野にまで話題を発展させた。

「なぜ宇宙に生物は必要なのですか。ひょっとすると生物はエネルギーの変換をよりアクティブに行うためのシステムなのではないでしょうか」

「面白い発想ですね。おっしゃるとおり生物の体内でおこなわれるエネルギー変換の多様性には目を見張るものがあります。太陽と比べて量的には劣りますがこれほどまでに多様な種類に変化させることができるのは生物だけかもしれません。見方によれば貴方の説は正しいと言えるでしょう。ただなぜ宇宙に生物が必要なのか。どのような意図で作られたのかという質問となると科学で答えるのはやや難しい。動機があって作られたのではなく条件がそろって生まれたと考えるのが自然でしょう。もちろん哲学的な意味では興味深い話題ですし科学の分野でもこれを発展させて研究課題にすると面白いかもしれませんよ」


「なぜこの世界には女と男がいるのでしょう。遺伝子を多様化させることで生存確率をあげるため。そう考えて良いでしょうか」

「ええ。それで良いと思いますよ。おそらく始まりは偶然だったのでしょう。原子生物がぶつかり合って、くっついてしまった。そしてもう一度分裂するときに互いの遺伝子を分け合った。地球は生物にとって決して優しい環境ではありません。熱かったり冷たかったり物理的に圧迫されたり常に環境が激変します。それに最大のライバルであるウィルスもいる。そいういえばあの公園はまだ封鎖されたままみたいですね。生物は生き残るために多様化の道を選んだ。暑いのに強いもの、寒いのに強いもの。あるウィルスに対して強いもの、無力なもの、その他様々な環境に適応する為にあらゆる遺伝子の組み合わせが試されてきた訳です。それには永遠に生き続けるよりも寿命を決めて遺伝子の入れ替えを頻繁に行ったほうが都合がよかった。きっとそう遠くない未来に人類はこの生存競争を宇宙にまで広げるでしょう」

 シュレーディンガーを従えた老紳士はF氏の素朴ともいえる疑問にいつも丁寧に答えてやった。彼は中庭講義が楽しくてしかたない。本人も認めるようF氏は物理に関しては素人。特に数学に関しては絶望的だった。にも関わらずF氏のセンスは数学者や物理学者に向いていた。妻の言葉を借りるなら思考深度が深いといったところか。学部の学生達のように素直に効率よく習得する者も可愛いが、この人物のように歪であっても要点だけはしっかり掴んで離さない人物も面白い。F氏と話していると昔全国の科学館を回っていたことが思い出された。もっとも講義を受ける子のなかには科学なんかよりも隣に座る大きな犬に興味を示す者もたくさんいたが。


「それでは今日はシュレーディンガーの猫についてお話しましょう」

 シュレーディンガーという言葉を聞いてゴールデンなのかラブラドールなのか分からないレトリーバーが反応して立ち上がった。老紳士は違うよと言って犬の柔らかい背中を撫でてやった。自分も触ってみたいと言ってF氏も了解を得て大型犬を撫でた。おかげでその日のシュレーディンガーはずっと上機嫌だった。

「ラプラスの定理はご存知ですね」

 F氏はざっくりとと訂正した。

「結構。ですがラプラスの定理は現在では不確定性原理によって否定されています。素粒子は速度つまりどちらの方向にどのくらいの速さで、言い換えればどの方向にどのくらいの力で移動しているか知ろうとすると位置が判別できなくなります。反対に場所を特定しようとすると今度は速度がはっきりしません。イメージしづらいかもしれませんね。素粒子の場所を特定しようと光を当てると光子の力のほうが強くて進路を変更させてしまうという考えのほうが分かりやすいかもしれません。これも難しい? ですがいずれにしても実際にはもっと複雑です。そしてこの事実は計算によって明らかにされています。つまりラプラスの言ったように過去も未来も分かるという事にはなりません。未来は決まっていないのです。もっと言ってしまうと素粒子の場所を特定することは不可能です。私達ができるのはそこに存在する確率を示すだけです。

 ここで誤解してもらいたくないのは確率の意味です。この話では だいたいここら辺にあるという意味にはなりません。驚くべきことにひとつの素粒子はここにあると同時にそこにもあり、また同時に遠い宇宙の端にもあるかもしれません。そうは言っても確率の分布を見れば大体ここらへんに集中しているよねというのはわかります。とても不思議な話ですがこれが事実です。

 この話からも分かるように物質は実は波のように揺らいでいます。あらゆる物質は波の性質を持っているのです。私達の身体も例外ではありません。ですから厳密にはあらゆる物体はゆらゆらとした蜃気楼のような存在なのです。ですが物体として認識できるものは極微の世界からすればとても大きいので無視できます。つまり私達はあそこにいると思えばここにもいるということはなく、はっきりとここにいると言えます。地球が丸いという話とまったく同じですね。

 さてこの不確定性原理に異を唱えたのがアインシュタインやシュレーディンガーです。彼等はそんな曖昧なことを自然の摂理は許さないと主張しました。アルベルト・アインシュタインはそれを神はサイコロを振らないと表現しました。この言葉は科学者にとってたいへん重要な意味を持ちます。この思想があるからこそ科学は宗教から分離して、より論理的で客観性の高いものへと発展しましたからね。

 ちょっと遠回りしましょう。アインシュタインの時代よりずっと昔に天動説と地動説についての論争がヨーロッパで起きました。宗教は地動説を認めませんでした。しかし科学者は天動説より地動説のほうが神様の仕事としてはふさわしいと主張しました。なぜなら神様は宇宙を創るときに完璧な作業をしたはずだからです。天動説では惑星の動きを説明できません。出鱈目に動いています。こんな曖昧なことを神様が許すはずがない。地動説ならば惑星の動きも含めてぴたりと計算で一致させられる。したがって地球の周りを太陽や星々が回っているのではなく地球と惑星が太陽の周りを回っているのだ。この主張が宗教や占いと科学とを分けた分岐点です。

 しかしさすがのアインシュタインも不確定性原理については意見が間違っていました。現在では極微の世界において神はサイコロを振るということが分かっています。繰り返しますが、ここにあると同時にあちらにもあります。

 さてアインシュタインと同じく不確定性原理に異を唱えたのがエルヴィン・シュレーディンガーでした。彼はいわゆるシュレーディンガーの猫と呼ばれる思考実験を根拠に不確定性原理を批判しました。

 それでは始めましょう。

 ここに外側からは絶対に中を見られない鉄の箱を用意します。この中に量子が任意のポイントに入ったらスイッチがオンになる装置と、その装置に繋げられた毒ガスを発生させる機械を入れます。装置がオンなら毒ガスが出て、オフならば出ない。さあここからが猫の登場です。猫を箱の中に入れて蓋をします。任意の場所に量子が入っていたらオン。入っていなければオフ。さて箱の中の猫はどうなっているでしょう」

「シュレーディンガーの猫は死んでいると同時に生きている。なぜなら任意の場所に量子があると同時に無いから」

「正解です」博士は満足そうな表情をした。

 死という言葉に反応したのかレトリーバーが只事ではないという顔でむっくりと起き上がった。F氏は表情を崩して犬が落ち着くまで背中を撫でてやった。

「大丈夫。君をガス室になんて送ったりはしない」

 飼い主も笑って犬の頭をぽんと撫でてやった。 

「さて猫は死んでいると同時に生きているという常識では考えられない事になってしまいました。これはどう考えてもおかしいですね。生きていると同時に死んでいる生き物なんていません。したがって量子がここにあると同時にそこにもあるということはあり得ないというのがシュレーディンガーの主張です。これはもう反論の余地が無いのではないでしょうか。しかし科学者達はさらなる領域へと踏み込みます。そのひとつが並行世界。シュレーディンガーの主張の反論としてパラレルワールドが持ち出されます。猫は観測者が蓋を開けるまでは生きているのと死んでいるのが重なった状態になっている。観測者が蓋を開けた瞬間に重なりが分岐して並行世界となります。生きたままの世界と死んでしまった世界。この考えが正しいとすると猫の生死、言い換えれば量子の振る舞いは観察者が影響を与えていることになります。観察者が影響を与えるというのは一見おかしなことのように思えますが実は有名な二重スリット実験でも同じような現象が起きることが知られています。もちろん並行世界については反論がたくさんあります。あくまで仮説のひとつに過ぎません。ですが最近はこの考えが物理の主流になりつつあることも事実です。


 さてそれでは並行世界について少しだけ考えていきましょう。並行世界には様々な貴方がいると考えられます。ほんの少しだけ現状の貴方とは違う貴方も存在するでしょう。経済的に成功を収めている者もいれば路頭に迷っている者もいるかもしれない」

「それはこの世界の僕です」

 博士は心配ないという意味で笑った。

「職業も様々でしょう。コンピュータプログラマーもいるかもしれません。建築デザイナーもいるでしょう。嬉しくはありませんが犯罪者もいるかもしれません。何か仕事で重大なミスを犯して頭を抱えている貴方もいますし、反対に大きな事を成し遂げて英雄になっている貴方もいます」

「妻は」とF氏が遮った。「僕の妻もですか」

「もちろん並行世界には健康な奥さんもいますよ」

 F氏がその言葉に浸る間、博士は黙って待ち続け充分と思ってから続きを始めた。

「これはあくまで私の考えですがたった今アインシュタインとシュレーディンガーは間違っていたと話をしましたね。しかし最終的には彼等は間違ってなかったという結論に至るかもしれません。この世界は四次元時空ではなく最低一一次元あるという話は覚えていますか。我々四次元の世界しか認知できない者からすると素粒子はここにあると同時にあちらにもあるというふうに見えますが、それ以上の次元の物理では意外と簡潔な数式で不確定性原理の不思議さに説明がつけられるかもしれません。次元が変われば物理は変わります。我々が日々考察しているのはあくまで四次元時空でのみ成立するものです。他の次元には四次元とは違う物理が存在します。つまり次元がひとつでも増えると数百年かけて積み上げてきた物理がすべて意味の無いものへと変わり果てます。もっともそういう状況に直面すれば学者達は嬉々として新しい法則の海へと船出するでしょうが。

 さて一一次元の物理は脇に置いておいて、我々の生きる四次元時空ではやっぱり量子はここにもあればあそこにもあるということに変わりありません。それを利用したのが量子コンピュータです。貴方もニュースで見聞きしたことがあるでしょう。次世代型量子コンピュータの完成と暴走について」


 髪の毛が抜け落ちてもサチエは美人だった。土台となる骨格からこの女性は美しいのだ。投与される薬が変わり彼女は同室の患者と同じ坊主頭になった。疲れた顔の妻の頭をF氏はぽんと優しく触れた。サチエはそんな夫を精一杯の嫌味を込めて鼻で笑った。F氏は静かに手を引き距離を置いて椅子に座った。相変わらず自転車の鍵も家の鍵も手元にこなかった。F氏は三つ会社の面接をしてすべて不採用になった。貯金がいよいよ少なくなってきた。あと何週間もつだろう。ユキさんはまだ入院中で相変わらず高架下の飲み屋は病院を教えてくれなかった。一度F氏は大学病院にいるのではと入院病棟を歩いてみたがすぐに看護師長に見つかって叱られた。


 LYマーケットの彼女がレジ打ちの途中で隙を見て微笑んだ。

「マスが好き(なの)」

「うん」

「この店、前はカフェ。エイチバーだって。面白いね」

「う、うん」

「千十七円です」

「はい」

 エイチバーってなんだろう。

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