第33話 エイチバー
幼少時代、トモナガ氏の母は好奇心旺盛な息子の質問に辛抱強く付き合うことこそが良い教育と信じてそれを実践した。彼女はあえてストレートには質問に答えずどうやったら答えを導き出せるか一緒に考える演技を繰り返した。こうしてトモナガ少年は分からないことがあれば自力で正解を導き出すという習慣を身に付けた。近所の大型犬を観察しようとして尻を噛まれたことを除けば彼の少年時代はおおむね順調だったといえる。十代のうちに英語で書かれた物理の論文を読むようになり数学と理科は学内でトップだった。一方体育と美術は及第点だ。
国立大学に入学したトモナガ青年は大学のそばに変わった名前の喫茶店があるのを見つけた。その店は純喫茶なのにバーと名付けられていた。店の名はエイチバー。エイチバーとはプランク定数hを2πで割ったものであり小文字のhの縦棒の上のあたりにクロスして横棒を加えたもので表される。店主はなかなかの商売上手でこの店名に引き寄せられるようにして理系の学生達が集まってくるのが繁盛のしくみだった。トモナガ青年も例外ではなかった。そして通い詰めるうちに店のウェイトレスに恋心を抱くようになった。彼女は暇をみてはカウンターでクロスワードパズルを解いていた。青年が彼女に惹かれたのはそうした知的な面ももちろんであったが何より彼女の笑顔は多くの若者を虜にしていた。単に優しいだけでなくどこか男勝りな勝気さが滲む。そんな表情だ。根底に揺るがない自信があるのだろう。若き研究者は恋という初めての感情を当初は理屈で考えようとしていた。いったい何がそこまで鼓動を早くさせるのか。彼にとって理屈を理解しなくても許されるのは不確定性原理のみだった。たぶん脳科学の研究をすればメカニズムは解明できよう。しかししばらく経つと彼はその考察をやめてしまった。理屈を理解したところでその感情を抑えることはできないと悟ったのだ。
彼がエイチバーのウェイトレスと付き合うにはひとつだけ大きな障害があった。それは彼女が飼っていた犬だ。彼女は動物好きだった。そしてトモナガ青年は犬が苦手だった。涙ぐましい努力の果てに青年はついに犬嫌いを克服した。こうして理論物理学を専攻する学生と風変わりな喫茶店に勤めるウェイトレスは周囲の反対を押し切って結婚した。
夫婦が不幸に見舞われたのは役所に入籍届を出した直後だった。トモナガ青年は原因不明の視力低下に見舞われ一年後には完全に視力を失ってしまった。当時の医療では、いや現在でも彼の失明の原因は特定できないでいる。トモナガ夫人の両親はもとよりトモナガ氏の両親でさえ娘に離婚を勧めた。まだ若いのだからやり直しがきく。一緒に不幸を背負い込むことはない。だが彼女は首を縦に振らなかった。それどころか彼の眼になれるのは自分しかいないと言って逆に親たちを説得した。こうしてトモナガ青年は妻の助けを借りて点字を覚えたり耳から学習したりして無事大学院を出て博士となった。
博士号を取得しても眼が見えなければまともに研究も出来ないし学生に指導することもままならない。夫人は戦争で中断されていた盲導犬の研究が再開されたと知って夫に相談した。間もなくふたりは訓練を終えた犬を迎え入れることとなった。
行動範囲が広がったトモナガ博士は私立の大学で教鞭をとるようになる。そしてそこで自分の研究を続けた。この頃には既にトモナガ博士は学会でもしばしば噂される存在となっていた。彼の出した論文が世界の著名な物理学者の間で熱心に議論されるようになっていたからだ。天文学のほうで実証されでもすればノーベル賞もありえる。周囲はそう囁いていた。しかしそんなトモナガ博士を再び不幸が襲った。
学歴ロンダリングを繰り返すことで博士号を取得した似非科学者が、博士の眼が見えないのをいいことに捏造した論文の共著者としてその名を利用することを思いついた。すり替えられたことも知らず博士は教え子の留学先への紹介状のつもりで捏造論文にサインを入れた。
博士の署名があったことが功を奏して論文は科学雑誌に掲載。ノーベル賞級の研究としてマスコミにも取り上げられた。しかし祭が長く続くことはなく間もなく有志により捏造が発覚した。
首謀者である筆頭著者は何のお咎めもなく海外留学という形で逃亡。これには両親の力が影響していた。両親と繋がりのある政治家や官僚、経済界や各団体が忖度で筆頭著者を擁護。彼を守るために多額の税金が投入され情報操作があからさまに行われたのだ。
事の発端はある企業の株価操作だった。似非科学者はそれまでにも何度も捏造論文をでっちあげては株価を上げていた。常習犯だ。なぜなら彼はその会社の役員をしていたからだ。当時あるジャーナリストがこうした事実も含めて政治家や官僚や企業やその他様々な団体の関与を白日の下に晒そうとしたが、逆に業界から締め出されるという仕打ちを受けてしまった。マスコミの上層部もこの件に一枚噛んでいたせいだ。記者は職を失い家族は離散、娘は就職先も決まらずに母の実家の近くにあった自転車工場で働くようになった。
結局疑惑の会社に捜査の手が伸びることはなく事件の真相は闇に葬られた。だがこのままでは世間も納得しない。そこで国民の反発をかわすためのスケープゴートとしてトモナガ博士が選ばれた。そもそも博士が共著者に名を連ねていなければあり得ない説として捨ておかれた学説。共著者である博士の罪は重いというのが作られた風潮だった。マスコミは博士が濡れ衣を着せられていると知っていながらあえて矢面に立たせた。彼等も誤報で国民を煽ってしまった手前 落としどころを必要としていた。マスコミは博士を率先してバッシングした。世間もマスコミに流されてトモナガ博士を吊るしあげた。
一方学会では博士は騙された被害者であって彼にはなんの非も無いということで落着した。きちんと裁判で名誉を回復すべきという意見も出たが各大学や研究機関の理事がそれを封殺した。こちらも利害関係者だったからに他ならない。博士の勤め先でも当初は守る姿勢でいたが世間からのバッシングに耐え切れずついに博士の解雇に踏み切ってしまった。
仕事場を失ったトモナガ博士は知人の紹介で地方の科学館のドサ周りを始める。周辺の中高生を集めて基礎的な物理の講義をするのだ。彼はこの時 北海道から九州まで妻と盲導犬と一緒に各都市を回った。いつでも前向きな夫人は「これは遅れてきた新婚旅行だ」と時に厳しい興行であってもそれを喜んだ。
そのうちに北米やヨーロッパの研究機関でトモナガ博士を迎え入れようとする動きが出始めた。国の財産を奪われると懸念した関係各機関は慌てて博士を東京に呼び戻し、彼の出身大学に博士を拾わさせた。こうした経緯で夫妻は現在も大学近くの都営住宅で暮らしている。収入だけで見れば普通のマンションで暮らせるのだが団地のほうがバリアフリーがしっかりしていて安全なので彼らはそのまま都営住宅の片隅で暮らしていた。
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