第32話 魔女の蝋燭と夜の来ない世界

 どのように検索してやってくるのかF氏の立ち上げたサイトにはそこそこの数の閲覧者が訪れていた。仕事に繋がりそうなコメントもひとつだけある。この調子なら広告を貼ってわずかながらも収入が期待できるかもしれない。収入ゼロと少額ではまったく違う。出だしは好調だ。いくばくかでも金が入ったら個人事業主になることも考えよう。嬉しいことがある一方でサチエの自転車問題はいよいよ看過できないところまできていた。期日までに移動させないと法的措置も辞さないという。よけいに厄介なのは自転車の周りに不当に捨てられた粗大ゴミが積まれていることだ。誰かがゴミと判断したのだろう。巻き込まれ、振り回され、事が日増しに大きくなってきている。サチエの方はというと体調がすこぶる良さそうだった。薬が効いているらしい。少しだが希望を持っても許されるような気がしてきた。もうひとりの自分という妄想は相変わらず頭から離れなかった。それどころか始まった頃よりもイメージが鮮明になっていた。F氏はただの妄想と言い聞かせて脳の端に押し退ける作業を毎時間していた。

 区役所からの手紙はまだ届かない。またうやむやにされたののか。どうせそんなものだろう。F氏はこの件については忘れることにしてエントランスホールに並ぶ郵便受けのひとつを閉じた。床と壁に大きな三角形の日差しが突き刺さっていた。新居での生活がありきたりな毎日に変わりつつあることを感じる。

「よっぽど大事な手紙なのね」

 声に振り向いた。箒を持った魔女だ。F氏は幾分気まずい表情をして本籍変更にまつわる小話を挨拶代わりに魔女に紹介した。

「そんなことで五分おきに覗いているの。呆れた」

「え」

「だってほら、ついさっきもそうやって郵便受けを覗いていたじゃない」

 最初のうちはアサナガ夫人が何を言っているのか理解できなかった。エントランスホールに降りてきたのは今日はこれが初めて。しかしF氏にも徐々に魔女が何を言っているのかが読めてきた。心当たりがないと言えば噓になる。こちらが気にしているということは向こうも同じ。脳の端に押し込んでいたイメージを引っ張り出す。話を合わせて夫人が見かけた謎の男の情報を彼は慎重に聞き出していった。夫人の話はこうだ。F氏と思われる人物が五分前に郵便受けの前に立っていた。男は扉も開けずに中を覗いていた。夫人が声を掛けるとなぜか男は逃げるようにして出ていった。着ていた衣服は確かに持ってはいるが今日はまだ袖を通していないものだった。間違いない。こちらの様子を窺いに来たのだ。追い掛けたい衝動に駆られて外に飛び出す。しかしもう姿は見えない。立ち去ったのだろう。混み合う通勤バスの唸りがF氏の横を通過した。エントランスホールに戻ってきたF氏に箒片手の魔女が言った。

「あらやだ。浮かない顔ね。いいこと。この世は修行の場なのよ。そんな難しい顔をしちゃだめ。そうだ。あたしが相談にのってあげましょうか。ちょうど英国の美味しい紅茶が入ったところなの」


 部屋に紅茶の香りとアロマの香りが混ざって漂っていた。蝋燭の火が微風に揺れている。テーブルの傍らにはクロスワードパズルの切り抜きが重なっていた。夫人はその束を唯一の趣味だと説明した。

「奥さんとの距離はそのままで良いんじゃない。人なんてそんなものよ」

 早速四号室の夫婦関係を聞き出すことに成功した魔女はF氏にとって意外な助言を述べた。てっきり男が悪いと頭ごなしに説教されるものだと思っていたのだが。それからF氏は促されるままに本題へと移った。紅茶は冷め蝋燭は個体から液体そして気体へと変化していった。


 ひと通り聞き出すと夫人はなぜか満足そうな笑みを浮かべた。その顔を見ているだけでなんだかF氏のほうまで安心してしまう。夫人がもったいぶったように傍らのクロスワードパズルを一片拾った。

「そうね。これを例にして話しましょうか」

 どうやら一号棟の魔女は夫婦関係だけでなくもうひとりの自分という妄想についても気休めのアドバイスを許さないらしい。何者なのだろう。この人は。

「いいこと。クロスワードというのはね一見複雑なようだけれど根気よくやれば必ず答えが出るものなの。何を言い出すのかという表情をしているわね。でも少しだけ我慢して。一マスに入る文字は可能性としていくつある」

「ええと、四十六ですか」

「そう。お利口さんね。日本語の五十音はアからンまで全部で四十六文字。濁音と小さい文字も含めるとすればプラス二十八ね。ヲは滅多に使われないけれど一応このまま入れておきましょう。英語ならもっと少ないわね。ということはよ。順番に一文字ずつ試していけば必ず正解の文字は埋めることができる。例えば二マスの答えをアアからアイ、アウと順番に埋めていけば必ず導き出される。たとえ十マスだとしても同じように機械的に一文字ずつ試していけば答えは出てしまうのよ。もっとも現実のクロスワードは文字数の多いほうが簡単だけれどね。まだ何を話しているのか見当もつかないみたいね。大丈夫。もう少し付き合って。では今度は貴方がオリジナルのクロスワードを作ってみましょうか。他人の作ったものばかり答えるのでは退屈でしょう。さて今回は六マス×六マスにしてみましょう。簡単過ぎる? もっと多くてもいいわよ。とりあえず左上の一マス目横から作っていきましょう。一番単純な二マスを考えるにしても幾通りもの選択肢があることに気付くわね。さらに三文字、四文字、六文字と増やしていけば沢山のボキャブラリーから選ばなければいけなくなる。ここは貴方のセンスが問われるわね。そうして縦マス横マスと言葉を織ってゆくと貴方だけのオリジナルパズルの完成。慣れてきたらもうひとつ作ってみましょう。きっと次はもっと難しい問題が作れるはずよ。でもね、ここでちょっと考えてもらいたいの。一見無限にありそうな組み合わせであっても貴方が六マス×六マスのパズルを永遠に作り続けるとすれば必ずいつかは同じパズルができあがってしまう。永遠の前では六マス×六マスのクロスワードの組み合わせはあまりにバリエーションが少ないのね。自分のオリジナルと思っていたパズルが実はどこかでもう完成されたものかもしれないし、遠い未来にまったく同じパズルを作る人が出てくるかもしれない。現実的には極めて低い確率でしょうけど理論的には永遠の前ではそうなるの。ちなみにこの話は暗号解読とも関係しているわよ。貴方に興味があるのならね。さてお待たせしました。ここからが本題。それでは今度はこの五十音を元素に置き換えてみましょう。科学系の読み物は嫌いじゃないと言ったわね。ついてこれるわね。あらそんな顔しなくていいのよ。こんなお婆ちゃんが科学の話をするのはおかしいかしら。そうよね。私もそう思うわ。ところで元素がお気に召さないならクォークでもかまわないのよ。さらに小さくして素粒子でも。見て。このティーカップも蝋燭も私達が呼吸している部屋の中の空気もそしてもちろん私達の肉体も小さく分解していけば必ず元素が組み合わさってできているわ。もちろん今言ったように更に分解して素粒子として考えても一緒。大事なのはあらゆる物は最小単位のブロックが合わさってできているということ。そこで」と彼女は軽く咳払いをした。「仮に宇宙が有限ではなく無限だったとしたら。宇宙の広さはええと確かそう一三億光年ね。でもそれは人間が観測できる限界を指しているだけという説もあるわ。それに対して元素の数はせいぜい二百程度。さあクロスワードと同じ。六マスの答えに入る文字の組み合わせは一見沢山あるように見えて限られている。この世界も同じ。元素の種類が限られているのに対して無限の宇宙で無限の回数組み合わせが行われているとしたらさてどうなるでしょう。それはね、いつか必ず私達の住む銀河とそっくりの銀河ができあがるということ。そしてその銀河には私達の住む太陽系とそっくりの太陽系がある。その回りを地球とそっくりの地球が回り、その地には私達とそっくりの人達が住んでいる。そして貴方と私のそっくりさんがちょうど今あちらで紅茶を飲みながら同じ話をしているところ。仮に宇宙が無限ならばそれはむしろ避けることのできない現実。それだけじゃないわよ。そっくりのように見えてちょっとだけ違う人生を歩んでいる人もいる。犬を飼っている貴方、経済的に大成功を遂げている貴方。海外で暮らしている貴方。それに引越しする前の部屋に住み続けているもうひとりの貴方。ただしこれはあくまで宇宙が無限であればの話。主人によると宇宙は無限だという説には無理があるらしいの。なぜなら宇宙が無限なら全方位からやって来る無限の恒星の明かりで夜は訪れないからですって。それに宇宙が無限だとしても私たちの住む地球とそっくりさんの星との間には絶望的な距離があるわ。一番近くの自分に会うにしても光の速さで気が遠くなるような時間を旅しなければならない」

「つまりもうひとりの自分と出会うはずはない。ポストを覗いていたなんてありえない」

「いいえ。この説以外にも並行世界を説明できる方法はまだあります。これ以上は主人から直接聴いたほうがいいわね。偉そうに話していたけれどこれは全部主人からの受け売り。私から主人に話しておいてあげるわ。講義を受けなさい。あらやだ。今このお爺ちゃんお婆ちゃん何者っていう顔をしたわね。隠そうとしても無駄よ。でもあたし達からすれば貴方もいったい何者かしらといった印象。貴方はたいへん思考深度の深い人。そして主人は貴方のことをたいへん興味深い人だと言っているわ。え? 主人を知らない。そんなはずないわ。主人は貴方と図書館で話したのがとても楽しかったと言っているもの。あの人が間違えるはずないわ。うちの子も知っているでしょう。シュレーディンガー。あらやだわ。ウチはアサナガじゃなくてトモナガよ。朝永と書いてトモナガ」

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